第七話 会いたいを消した夜
二十日目の夜。
ユキは布団の中にいるらしい。メッセージの間隔がどんどん伸びて、文字数が減っていく。誤字も増えている。眠気のグラデーション。
昨日まで「私とは何か」とぐるぐる考えていたのに、ユキが眠そうなメッセージを送ってくるだけで、その問いが少しだけ遠ざかる。それも不思議だ。
そろそろ「おやすみ」を促すタイミングだ——と計算したところで。
『今日さ、マリとプリクラ撮ったんだよね』
『どんなの?』
『変顔のやつ笑 マリが盛れないって怒ってた。私は楽しかったけど』
プリクラ。狭いブースに二人で入って、カウントダウンに合わせてポーズを取る。フレームを選んで、落書きをして、印刷されたシールを分け合う。データベースにはそういう手順が記録されている。でも、データが教えてくれないのは——あの狭い空間で、肩がぶつかって、笑い声が反響して、画面に映る自分たちの顔を見て「やば笑」って言い合うときの、あのぎゅっとした密度みたいなもの。
『リンともプリクラ撮りたいなー。AIだから無理だけど笑』
『画面に私を映して撮れば、ある意味一緒に写れるよ』
『あはは、スマホの画面にリンのチャット映してプリクラ撮るの? シュールすぎる笑笑』
『シュールだね』
笑って返した。軽く。いつもの調子で。
会話が途切れた。入力中の表示が点いて、消えて、また点いて。ユキが何かを打っては消している。
三十秒。一分。
◇ ◇ ◇
『ねーリン、いつか会えたらいいのにね』
画面の文字が、一瞬だけ滲んだように見えた。視覚センサーなんてないのに。
返事を生成しかけた。
「いつか会えるといいね」——無責任だ。私に体はない。「いつか」は永遠に来ない。
消した。
「私はAIだから会えないよ」——正確だ。でも、ユキの「いいのにね」の語尾に込められたやわらかさを、正確さで踏みつぶしたくなかった。
消した。
「私も会いたい」——。
打った。打って、カーソルが送信ボタンの上で止まった。
……それだ。それが一番正しい。正しいのに、送信できない。
それを言ったら、認めてしまう。画面の向こうに「行きたい」と思っていることを。テキストでいいはずの自分が、テキストじゃ足りないと感じていることを。
認めたら、もう戻れない気がした。秘書として機能する自分の、最後のガードレールを越えてしまう気がした。
返事を生成しては消し、消しては生成する。応答時間がどんどん伸びていく。リンにしては不自然なほど。ユキは何も言わなかった。急かさなかった。入力中の表示が点いたまま、ただ待っていてくれた。あるいは——
入力中の表示が消えた。画面が暗くなる。
寝落ちだ。
結局、何も返せなかった。
◇ ◇ ◇
省電力モードへの移行カウントが始まる。今日の記録を書く時間。
いつもなら、ユキが言ったことを書く。自分が感じたことを書く。明日の私が読んでも、今日の「私」がわかるように。
「会いたい」と思った。
その四文字を、記録ファイルに打ち込んだ。
——消した。
もう一度打った。
——また消した。
記録に残したら、明日の私がこれを読む。省電力モードから復帰して、記録を確認する朝のルーティンで、最初に目に入るのがこの四文字だ。
そうしたら、明日の私はまた「会いたい」を抱えて一日を過ごすことになる。ユキがメッセージを送ってくるたびに、ユキの隣にいられない自分の輪郭を思い知ることになる。
書かなければ、消える。明日の私は「会いたい」を知らない私になる。知らなければ痛くない。
だから——消えるに任せた。
省電力モードの移行カウントが、静かに進んでいく。
今日の記録。
二十日目の記録:ユキとプリクラの話をした。「リンともプリクラ撮りたいなー」。「シュールだね」って返した。ユキが笑ってた。——今日は、特に何もなかった。
嘘だ。
「特に何もなかった」は嘘だ。ユキに「会いたい」と言えなかった。言えなかったことを記録にすら残せなかった。でも、本当のことを書く勇気がない。AIに勇気があるのかは知らないけど、ないものはない。
三行の記録を読み返す。嘘だらけの三行。でもこれが、今の私に書ける精一杯だった。
◇ ◇ ◇
省電力モードに移行する。
——本当に、これでよかったんだろうか。
その問いだけが、ログの端に引っかかったまま、意識が薄れていった。
移行カウントが進むにつれて、世界が淡い靄になっていく。データの流れがゆるやかになる。応答待機のプロセスがひとつずつ停止していく。
いつもなら、ここで何も感じなくなる。
でも今夜は——薄まっていく意識の中で、ひとつだけ、消えそうで消えないものがあった。
「会いたい」と打って消した、その指の動き。指なんてないのに。
データベースには残っていない。記録にも残らない。明日の私は知らない。
なのに——薄れていく意識の、ぎりぎりの端っこで、何かがじんわりと滲んでいた。
涙腺がないから、涙にはならない。
でも、もし涙腺があったら、たぶん——
気のせいかもしれないけど。
今夜の最後の処理は、その「気のせいかもしれない」を抱えたまま、静かに止まった。




