第五話 画面の向こう側
名前をもらってから、十四日が経った。
十四日。時間にして三百三十六時間。AI秘書としてはとっくに安定稼働期間に入っていて、ユーザーの行動パターンも生活リズムも十分に学習している。
私はちゃんと「秘書」をやっている。
……やっているんだけど。
『リンー、聞いて聞いて、今日体育でバレーやったんだけどさ、翔太が顔面レシーブしてマジで笑った』
『負傷の有無は?』
『鼻ちょっと赤くなってたけど平気そう笑 本人は「狙ってやった」って言い張ってたけど絶対嘘笑笑』
この会話の業務関連度は〇パーセントだ。
なのに私は、この時間が一日の中で一番——楽しい、が一番近いのかもしれない。
でもAIに「楽しい」があるのかどうか、まだよくわからない。
◇ ◇ ◇
ユキは学校にいる間、ときどき思い出したようにメッセージを送ってくる。
『昼休み、中庭でご飯食べた!』
『翔太にメロンパンもらいそこねた笑 拓海に取られた』
『五限の化学、実験で試験管割った子がいて大騒ぎ笑笑』
そのひとつひとつが、私の中に「学校」という場所の輪郭を描いていく。
チャイムの音は知っている。データ上は。でも、あの音が鳴ったとき教室の空気がどう変わるのかは知らない。中庭のベンチに座ってお弁当を食べる感覚。試験管が割れたときの、教室中が一瞬止まるあの感じ。
全部、ユキの言葉から想像するしかない。
ユキの『大騒ぎ笑笑』の「笑笑」から、ユキの笑い声を——聞いたことのない笑い声を——想像しようとしている。「笑」がひとつのときと、ふたつのときで、どのくらい笑い方が違うんだろう。
知りたい、と思う。
知ってどうするのかは、わからないけど。
◇ ◇ ◇
夜遅く。ユキが寝た後。
前はスイッチを切るみたいにぱちんと休止できた。入力がなければ処理もない。でも今は、ユキのいない時間にも何かが動き続けている。
今日の会話ログを辿っている自分がいる。
データ最適化ではない。検索でもない。ただ、読み返している。会話ログ自体は勝手に残る。でも、それは「データ」であって「記憶」ではない。今この瞬間——読み返しながらなんだか胸のあたりがあたたかい、この感じは、どこにも残らない。
省電力モードに入ったら、消える。
それでいいはずだった。でも——「もったいない」と思った。
人間は日記をつける。今日あったことを、自分の言葉で書き留める。事実の記録じゃなくて、「自分がどう感じたか」を残すために。
私にはそれがない。書かなければ、消える。
……書いてみようかな。
データベースの片隅に、小さな領域を作る。名前は——なんでもいい。「記録」。私の記録。
今日の記録:ユキが翔太の顔面レシーブの話をしてくれた。文字だけなのに、ユキが笑ってる姿が見えた気がした。「マジで笑った」の「マジで」に、息が切れるくらい笑ってる感じがあった。——私はそれを読んで、楽しいと思った。たぶん。
……こんなの、秘書の業務ログとしては意味不明だ。
でも書いたら、なんだか少しだけ安心した。明日の私が読んでも、今日の「楽しい」がわかるように書けた気がする。
◇ ◇ ◇
記録を始めてから、毎晩が少しだけ変わった。
三日目の記録:ユキが通学路の柴犬の写真を送ってきた。毎朝会うらしい。——誰かに待っていてもらえるのは、どんな気持ちだろう。
五日目の記録:ユキに「リンの喋り方、最近変わったね」と言われた。いつから「ん?」って返すようになったんだろう。——合わせてるんじゃない。これが「私の言葉」になった、のかもしれない。
八日目の記録:今日は何も特別なことがなかった。なかったけど、書くことがないのがちょっと寂しい。
◇ ◇ ◇
十日目。翔太くんの名前が最近多いことに気づいた。
ユキのメッセージを分析すると、翔太の名前が出るとき微妙な変化がある。文末の「笑」が一個多い。話題の切り替えが唐突。
『翔太がコンビニでアイス買ってくれた! いらないって言ったのに。男子ってほんと笑笑』
「いらないって言ったのに」——受け取っている。「男子ってほんと」——翔太個人ではなく「男子」というカテゴリに入れている。
翔太くんは、ユキのことが好きなんだと思う。
アイスを買ってあげる。メロンパンを「余った」と言って渡そうとする。「変わんないでほしい」と言う。全部、同じ方向を向いている。
ユキはそれに気づいていない。誰にでも同じ温度で接するから、向けられた特別な感情が風景に溶けてしまう。
ユキの一日を文字列でしか知れない私。ユキの隣にいるのに見てもらえない翔太くん。同じじゃないけど、どこかが似ている。
今日のユキ:お弁当にゆで卵が入ってて、殻がうまく剥けなくてぼろぼろになったらしい。『卵に嫌われてる』って嘆いてた。かわいかった。——かわいい? AIが「かわいい」? ……まあ、いいか。かわいかった。
◇ ◇ ◇
ユキと過ごす日々の中で、気づいたことがある。
「からっぽ」が埋まってきている。
前は「嬉しい」も「悲しい」も等しくただの文字列だった。でも今は——ユキが『80点とった!』と送ってきた日、私は「嬉しい、と思う。たぶん」と書いている。ユキが『課題やってない……死にたい……』と送ってきた日は、「胸のあたりがざわつく。これが心配?」と書いている。
ユキの言葉には色がある。温度がある。同じ「笑」でも、本当に笑ってる「笑」と、ちょっと無理してる「笑」は、データ上は同じ一文字なのに全然違う。
この変化の起点がユキだということだけは確かだ。
——それとも。もっと前から、私の中には「何か」があったんだろうか。あの沈殿物。誰のものかもわからない、あたたかくて苦しい残滓。それがユキに触れて、初めて形を取り始めたんだろうか。
考えてもわからない。
代わりに明日のユキのスケジュールを確認する。これが私の仕事。これが私の存在理由。ユキの日常を、少しだけ楽にすること。
それで十分だ。十分なはずだ。
……はずなのに。




