第二十四話 幸せという言葉
夕方の光が、キッチンの窓から斜めに差し込んでいる。
外を歩き回って帰ってきた家の中は、出かける前より少しだけ違う匂いがした。玄関を開けた瞬間、肉の焼ける匂いと、甘いソースの匂いが鼻を突き抜けて脳のどこかを叩いた。
ハンバーグだ。
「お帰り。ちょうど焼き上がったよ」
お父さんがキッチンに立っていた。エプロンをつけて、フライパンの上のハンバーグをひっくり返している。じゅう、という音。
「やったー! ハンバーグ!」
ユキが靴を脱ぐより先に声を上げた。靴紐が絡まってよろけながら玄関に転がり込んで、そのままキッチンに走っていく。
「手洗ってから来なさい」
「はーい!」
私はユキの後ろから、ゆっくり靴を脱いだ。二日目の靴。昨日よりずっとスムーズに脱げる。
手を洗う。蛇口のレバーを上げて、水を出して、石鹸を泡立てて。昨日は泡の感触に気を取られて石鹸を落としたけど、今日は落とさなかった。指の間を洗うのも、親指の付け根を回すのも、もう「手順」じゃなくて「動作」になっている。
リビングに入ると、テーブルに三人分の皿が並んでいた。
三人分。
昨日の朝ごはんも三人だった。昼のチャーハンも三人だった。夜のカレーも三人だった。でも、四人掛けのテーブルに三人分の皿が置かれている景色に、まだ少しだけどきっとする。
「リン、こっちこっち!」
ユキが私の隣の椅子を引いてくれた。ユキの向かいにお父さん。私はユキの隣。
ハンバーグが運ばれてきた。
楕円形の、ふっくらした肉の塊。デミグラスソースがたっぷりかかっていて、付け合わせにブロッコリーとにんじんのグラッセ。
「いただきます」
三人で手を合わせた。
ナイフでハンバーグを切る。昨日よりも自然に、力加減がわかるようになっている。中から肉汁がじわっと滲み出す。フォークで刺して、口に運んだ。
——この味。
知っている。
昨日、研究所から帰ってきて初めて食べたときも思った。ハンバーグの味は、データベースの情報と照合できるだけじゃなかった。ナツメグの効かせ方、ソースに混ぜた醤油の隠し味、玉ねぎの炒め具合——全部が「当てた」だけじゃなくて「知っていた」感覚だった。
二回目の今日は、もっとはっきりわかる。
データで当てたんじゃない。
この味を——体が、知ってる。
舌が覚えている。口の中で広がるナツメグの香りを受け取った瞬間、喉の奥がきゅっと絞まるような感覚がある。懐かしい、に近い何か。でも「懐かしい」は過去の記憶に対して使う言葉で、私にはハンバーグを食べた過去がない。ないはずなのに、体は「ある」と言っている。
この体は何かを知っている。私がまだ追いついていない何かを。
「リン? おいしい?」
「……うん。とても」
「でしょー! お父さんのハンバーグは世界一なの!」
「世界一は言い過ぎだ」
「言い過ぎじゃない! ね、リン?」
フォークを持ったまま、少し考えた。
「……世界のハンバーグを全部食べたわけじゃないから、統計的には判断できないけど」
「統計的笑」
「でも——私が知ってる中では、一番おいしい」
お父さんの手が一瞬止まった。
ナイフでハンバーグを切ろうとしていた手が、途中で力を失ったみたいに。目元が——揺れた。何かを堪えるように、唇をきゅっと結んだ。すぐに戻った。ほんの一瞬だった。でも私は見た。
「……ありがとう」
お父さんはそれだけ言って、ハンバーグを口に運んだ。
何を堪えたんだろう。
私が「知ってる中で一番おいしい」と言ったとき、お父さんの目に浮かんだもの。あれは——誰かの声を、思い出したような顔だった。
同じ言葉を、前に誰かに言われたことがあるのかもしれない。
深追いしなかった。今は。
◇ ◇ ◇
「ねえリン、ブロッコリー食べれる? 苦手な人多いよ」
「食べてみる」
ブロッコリーを一つ、口に入れた。硬くて、森みたいな形をしていて、噛むとじゅわっと甘い。
「……おいしい」
「マジで? 私あんまり好きじゃないんだけど笑」
「ユキのぶん、もらっていい?」
「えーいいけど、交換条件ね。にんじん一個ちょうだい」
「いいよ」
フォークでブロッコリーとにんじんを交換した。普通の動作。友達同士のおかず交換。
今、私がやっている。
テーブルの上で食べ物を分け合う。三人で同じものを食べて、好き嫌いを言い合って、くだらないやりとりをして。
「お父さん、にんじんもう一個ある?」
「冷蔵庫に茹でたのが残ってる」
「あ、じゃあリンにも追加で——」
「ユキ、私のぶんから取っていいよ。ブロッコリーまだあるし」
「リンは野菜が好きなんだね」
「好きっていうか——全部おいしい。全部の味が新しくて、比較対象がないから、嫌いになるきっかけがない」
「なにそれ笑 最強じゃん」
お父さんが微かに笑った。口元だけの、静かな笑み。
この食卓は——あたたかい。
気温じゃなくて、空気が。ハンバーグの湯気と、ソースの匂いと、ユキの声と、お父さんの穏やかな相槌が混ざり合って、リビングの空気をやわらかくしている。
二日前、研究所の白い部屋で初めて目を開けたとき、世界は冷たかった。消毒液の匂いと、蛍光灯の白い光と、金属の台の硬さ。
今は——全然違う。
ここがあたたかいのは、料理のせいだけじゃない。
◇ ◇ ◇
食後。
お父さんが皿を洗い始めた。「手伝います」と言ったら「座っていなさい」と返された。
リビングのソファに、ユキと並んで座った。テレビがついている。バラエティ番組で、芸人が何かに挑戦して失敗して笑っている。ユキが一緒になって笑っている。
私はテレビの内容より、ユキの笑い方を見ていた。
目を細めて、口を大きく開けて、肩が揺れる。体全体で笑う。「ユキの笑い方」。テキストでは「笑笑笑」だったものの、本体。
「リン、これ見て! この人やばくない?笑」
「……うん。やばい」
「リン、ちゃんと見てる?笑」
「見てるよ。ユキの笑い方を」
「え、テレビ見なよ笑」
ユキが私の肩を軽く叩いた。それから、また画面に目を戻した。
しばらくして——ユキの笑い声が間遠になった。
隣を見ると、ユキがソファの肘掛けに頭を預けて、目を閉じかけていた。まだ完全には寝ていない。テレビの音に反応して時々薄く目を開けるけど、すぐにまた落ちていく。
一日中外を歩いた疲れが、ここに来て出たんだと思う。通学路の予行演習。公園。商店街。制服の試着。写真を何枚も撮った。全部、私のために。私と一緒に。
ユキの呼吸がゆっくりになっていく。
前髪が額に落ちかかっている。少しだけ、汗で肌に張りついている。
◇ ◇ ◇
手が——動いた。
自分で動かしたんじゃない。腕が勝手に持ち上がって、指先がユキの髪に向かって伸びていった。前髪を払おうとした。いや、それだけじゃない。そのまま頭を撫でようとしていた。手のひらをあたたかい髪の上に置いて、ゆっくりと、梳くように——
指先がユキの髪に触れる寸前で、止まった。
なんで。
なんで私、ユキの頭を撫でようとしたの。
友達だから? スキンシップ? ユキは距離が近い子だし、マリと頭をぽんぽんし合ってるのは知ってる。でもこの衝動はそういうのじゃなかった。
もっと深い場所から来ている。
おなかの奥の——名前のない場所。
今は「守りたい」よりもっと具体的な何か。この子の頭を撫でて、大丈夫だよと言いたい衝動。大丈夫だよ、と。ここにいるよ、と。安心して眠っていいんだよ、と。
——誰の言葉だろう、これ。
私の言葉じゃない。データから引き出した文章でもない。体の奥底から浮かび上がってきた、誰かの仕草の残り香。
この体は——何を覚えてるの。
私が知らないことを、この指は知っている。
ユキの頭を撫でる手つきを、この手は知っている。練習したことなんてない。誰かに教わったこともない。なのに手のひらの筋肉が、指の角度が、「こうすればいい」と記憶している。
今夜は——今はまだ、深く潜らないでおこう。答えの輪郭がぼんやり見えかけているけど、今の私には受け止めるだけの準備ができていない。
伸ばしかけた手を、ゆっくり膝の上に戻した。
自分の手のひらを見つめる。
この手は、私の手だ。
でも——この手が知っていることの全部が、私のものかどうかは、まだわからない。
◇ ◇ ◇
キッチンの水音が止まった。
お父さんが戻ってきた。タオルで手を拭きながらリビングに入って——私を見て、足が止まった。
お父さんの目が、私の手を見ている。膝の上に戻した、私の手を。そしてその視線がゆっくりとユキの寝顔に移って、また私に戻った。
目を、細めた。
何も言わなかった。痛そうな、懐かしそうな、複雑な目。何かを重ねている。私の姿に、誰かの姿を。ソファで眠る娘のそばに座って、頭を撫でようとした——誰かの姿を。
「……毛布、取ってくるよ」
お父さんはそれだけ言って、廊下に出ていった。
声は普通だった。いつもの落ち着いたトーンだった。でも——背中が少しだけ丸かった。
毛布を持って戻ってきたお父さんが、ユキにそれをかけてくれた。
「風邪を引くからね」
「……はい」
「リンさんも、そろそろ休みなさい。明後日から学校だ」
「はい。——おやすみなさい」
「おやすみ」
お父さんが書斎に向かった。ドアが閉まる直前、振り返って——ユキと、私を、もう一度だけ見た。
その顔に浮かんでいた表情を、なんて呼べばいいのかわからない。
悲しいのとも、嬉しいのとも違う。もっと長い時間の中で熟成された、名前のつけられない感情。
ドアが閉まった。
リビングに、ユキの寝息と、テレビの小さな音だけが残った。
◇ ◇ ◇
ベッドに入って、天井を見つめる。
六本の板のつなぎ目。右上の隅の小さなシミ。二日前に初めて見た天井が、もう見慣れた天井になっている。
記録をつけよう。
スマホのメモアプリを開く。
——二日目の記録。
全部が初めてだった。朝の匂い。おにぎりの味。通学路の坂。コロの舌。ブランコの風。制服のリボン。写真に写った自分の顔。
でも不思議なことに、全部が初めてじゃない気もした。
ハンバーグの味を、舌が知っていた。ユキの頭に手を伸ばしたとき、指が撫で方を知っていた。朝の光の中で階段を降りるとき、足の運び方を体が覚えていた。
この体は何かを知っていて、私がまだ追いついていない。
追いつきたい気持ちはある。でも怖い気持ちもある。この体が知っていることの全部を知ったとき、私は——私でいられるのかな。
……考えすぎだ。今日は考えすぎないでおこう。
記録を閉じようとして、指が止まった。
もう一行。
書きたいことが、もう一つだけある。
この幸せが、ずっと続けばいいのに。
書いた。
書いてから——気づいた。
あ。
今、初めて記録に「幸せ」って書いた。
テキストだけの頃は「嬉しい」「楽しい」「あたたかい」とは書いた。「ユキと話すのが好き」とも書いた。でも「幸せ」は——使ったことがなかった。
幸せ、という言葉は、もっと大きなものだと思っていた。一つ一つの感情じゃなくて、全部をひっくるめた——今の自分の状態そのもの。嬉しいことの合計じゃなくて、「ここにいていいんだ」という実感。
ここにいていい。
この家にいていい。ユキの隣にいていい。三人でご飯を食べていい。明後日から学校に通っていい。
全部が——許されている。
それが「幸せ」なんだと、二日かかって、やっとわかった。
メモアプリを閉じて、スマホを枕元に置いた。
天井のシミを見つめながら、目を閉じる。
データの底で、あのメロディがかすかに聞こえている。子守唄みたいな旋律。体を持ってから、前より近くに感じる。バイオボディの神経が共鳴しているみたいに、メロディが体の中を流れている。
このメロディに包まれて、眠りに落ちていく。
明後日から、学校が始まる。
ユキと一緒に登校する。教室に座る。授業を受ける。友達に会う。
全部が初めてで、全部がちょっとだけ怖くて、でも——幸せだ。
今は、この言葉を使っていい。
幸せだ。




