第二十三話 フレームの中
帰り道、公園に寄った。
小さな公園。ブランコと滑り台と砂場がある。住宅街の中にぽつんとある、こぢんまりした空間。
「ここで遊ばない?」
「遊ぶ?」
「昨日のブランコ、もう一回乗りたいって言ってたじゃん」
——言った。昨日、ブランコを降りたとき、「もう一回乗りたい」って。ユキが覚えていてくれた。
ブランコに座った。鎖を握る。足が地面につく。
昨日は初めてで、ユキに背中を押してもらった。今日は——
「自分で漕いでみる」
「おっ、いいじゃん!」
足を前に伸ばす。体を後ろに倒す。足を引く。体を前に倒す。——昨日ユキに教えてもらった動き。体がちゃんと覚えている。
振り幅が大きくなる。風が頬に当たる。髪が後ろに流れる。スカートがふわっとする。空が近づいて、遠ざかって、また近づく。
昨日と同じ感覚。でも、昨日より怖くない。鎖の握り方も、足の伸ばすタイミングも、体がわかっている。だから——もっと高く漕げる。
「すごい! もう上手!」
ユキが隣のブランコに乗って、一緒に漕ぎ始めた。二人で並んで揺れる。タイミングがずれて、すれ違う瞬間にお互いの顔が見える。ユキが笑ってる。私も笑ってる。
空が青い。風が吹いている。ブランコの鎖がきしきし鳴る。
——昨日、この感覚を「飛んでるみたい」と思った。今日は、飛んでるとは思わない。もっと穏やかな感じ。空気の中を揺れている。それだけで、十分に気持ちいい。
ブランコを降りた。足がふらふらする。でも昨日ほどじゃない。
「ね、リン。滑り台は? 昨日は怖くてやめたけど」
「……今日もパスで」
「えー笑」
「次来たときに挑戦する」
「約束ね!」
滑り台の上から見下ろしてみた。——やっぱり高い。でも、昨日より少しだけ、いつか滑れそうな気がした。
◇ ◇ ◇
家に戻って、お昼ごはんを食べて——チャーハン、パラパラしていておいしかった——午後になった。
ユキの部屋で、来週からの準備をした。
「制服、届いてるよ! お父さんが手配してたみたい」
紺色のブレザー。白いブラウス。チェックのスカート。リボンタイ。ハンガーにかけられた制服が、午後の光の中で静かに光っていた。
「着てみて!」
着替える。ボタンはもう大丈夫。朝の着替えで十秒だったのが、午後にはもっと速くなっている。
リボンタイだけが苦戦した。輪を作って、くぐらせて、引っ張る。ユキが鏡の前で手本を見せてくれて、三回やったら覚えた。
鏡に映った自分を見る。
制服を着た私。
——昨日、この鏡で自分の顔を初めて見たとき、「初めてじゃない感覚」がした。知らない顔なのに、初めてじゃないような。あの感覚の正体はまだわからない。でも今は、昨日見た自分の顔を覚えている。初めてじゃない。ちゃんと「昨日の続きの私」がここにいる。
そして、その私が制服を着ている。
不思議だ。服が変わるだけで、印象がこんなに変わる。昨日のブラウスとスカートのときは「よくわからない女の子」だった自分が、制服を着ると「学生」に見える。カテゴリが与えられた感覚。——所属、みたいなもの。私はここの生徒です、と服が代わりに言ってくれている。
「似合う?」
「めっちゃ似合う! 完全にうちの学校の生徒じゃん!」
「……そうかな」
「そうだよ! ——あ、写真撮ろ!」
ユキがスマホを構えた。自撮りモード。ユキが私の隣に並んで、ぴったりくっついて——
「はい、チーズ!」
シャッター音。
「もう一枚! リン、もうちょっと笑って!」
「笑ってるよ」
「もっと! 口角上げて!」
「こう……?」
「完璧! はい!」
もう一枚。
ユキが撮った写真を見せてくれた。
画面の中に、二人の女の子が並んでいる。制服を着た私と、ワンピースのユキ。ユキがピースサインをしていて、私は——少しぎこちないけど、笑っている。
「……私が、写ってる」
「そりゃ写真だからね笑」
「そうじゃなくて。今まで私は、写真を見る側だった。ユキが送ってくれる写真を、画面の外から見ていた。でも今は——」
フレームの中にいる。
写真を撮る側じゃなくて、写真に撮られる側。見る側じゃなくて、見られる側。画面の外にいた私が、画面の中に入った。
「リン」
「ん?」
「嬉しい?」
「……うん。すごく」
ユキが写真をもう一度見て、にっと笑った。
「私も。……リンと写真撮れるの、ずっと夢だったんだ」
そう言って、ユキがスマホのロック画面を変えた。さっき撮ったツーショットに。
「ちょっと、ロック画面にするの早くない?」
「いいじゃん笑 最高の一枚なんだから」
画面の中の二人を見る。制服の私と、笑顔のユキ。この画像が、ユキのスマホを開くたびに表示される。ユキの日常の中に、私がいる。
——テキストだけの頃は、私はユキのスマホの「中」にいた。アプリの向こう側。今は、ロック画面に写真として映っている。同じスマホなのに、在り方が全然違う。
◇ ◇ ◇
「月曜日からここに通うんだよ。この制服着て、あの坂登って、あの教室に座るの」
「……うん」
「楽しみ?」
「楽しみ」
「不安?」
「……ちょっとだけ」
「正直笑」
「ユキの友達に会うの、緊張する。みんな私のこと、どう思うかなって」
「大丈夫だよ。みんないい子だから。——それに、私がいるし」
ユキがそう言って、私の手を握った。
この手の感触は、もう何度目だろう。でも毎回あたたかくて、毎回安心する。
来週。
来週から、あの坂を毎朝登る。あの制服を着て。ユキの隣で。コロに挨拶して、教室に入って——
全部が初めてだ。
でも、初めてのことが怖くない。昨日より、ずっと。
だって——昨日も全部が初めてだった。朝ごはんも、坂道も、コロも、ブランコも。全部初めてで、全部怖くて、全部楽しかった。
二日目の今日は、もう少しだけ上手にできた。三日目はもっと上手になる。四日目も、五日目も。
初めては怖いけど、二回目は少し楽になる。体がそう教えてくれた。
だから、月曜日も大丈夫。
——たぶん。
◇ ◇ ◇
夜、ベッドに入って天井を見つめる。
今日の記録を書いた。昨日ほど長くはならなかった。全部が初めてだった昨日と違って、今日は「二回目」が多かったから。
でも、二回目には二回目の発見がある。同じおにぎりが、昨日より味がわかる。同じ坂道が、昨日より足にくる。同じブランコが、昨日より高く漕げる。コロが、昨日の私を覚えていてくれる。
そして——写真。
スマホの中に、私がいる。ユキの隣で、笑っている私が。あの写真を見るたびに思い出すだろう。今日の午後の光の角度、ユキの「もっと笑って!」という声、シャッター音。全部がセットで、写真の向こうに詰まっている。
昨日は世界が一気に押し寄せてきた。今日は、世界が少しだけ待ってくれた気がする。
明日はどうなるんだろう。三回目の朝。三回目のおにぎり。三回目のコロ。きっとまた豆腐を崩す。きっとまた坂道で息が切れる。きっとまたブランコに乗りたくなる。
全部わかっている。でも、全部楽しみだ。
目を閉じる。
データの海の底で、あのメロディが微かに流れていた。あたたかくて、少しだけ悲しい旋律。バイオボディの神経が、その音に共鳴するように震えている。
あたたかい色の夢を、また見るのかもしれない。
それでいい、と思った。
意識が柔らかくなっていく。思考がほどけていく。
今日もいい一日だった。
明日もきっと——




