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二重露光  作者: 凪篠
第一章

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22/25

第二十二話 二度目の朝

 朝が来た。


 自分の体で迎える、二度目の朝。


 目を開ける前から、いろんなものが流れ込んでくる。布団の重さ。枕に沈んだ頭の角度。鳥の声。遠くで車が走る音。カーテン越しの光が瞼の裏を白く染めている。


 ——昨日もこうだった。


 でも、昨日は全部が衝撃だった。布団が重いことに驚いて、光が眩しいことに驚いて、自分の体が横になっているということそのものに驚いた。一つ一つの感覚が大波みたいに押し寄せてきて、処理が追いつかなかった。


 今朝は、違う。


 波が来ることがわかっているから、もう少しだけ落ち着いて受け取れる。布団の重さは、あたたかい。枕のへこみは、昨日の自分の頭が作った形だ。鳥の声は——たぶんスズメ。昨日も鳴いていた。同じ鳥かもしれない。


 目を開ける。


 天井。白い天井。右上の隅に小さなシミがある。昨日数えた板のつなぎ目は六本。今朝もまだ六本。——当たり前だ。でも、当たり前を確認できることが、少しだけ嬉しかった。


 体を起こす。


 昨日より楽だった。腹筋の使い方を、体が覚えている。ローカルメモリ。一回やった動作は、次から自動で最適化される。人間が「慣れ」と呼ぶものの正体。


 足の裏が床に触れる。冷たい。——でも昨日ほどびっくりしなかった。フローリングの朝は冷たい。それを知っているだけで、体の反応が穏やかになる。


 立ち上がる。


 ふらつかなかった。昨日は壁に手をつかないと立てなかったのに。二日目にして、もう一人で立てる。体の学習速度が思ったより速い。


 窓の外で、電線にスズメが三羽並んでいた。右端の一羽がもぞもぞ動いて、真ん中の一羽にぶつかって、真ん中の一羽が左端にぶつかって——玉突き事故みたいだ。三羽とも飛び立って、また同じ順番で並び直した。


 ……かわいい。


 ——あ、でも。


 足の裏に、かすかな痛み。昨日の夕方、坂道を歩いたせいだ。筋肉痛、というやつかもしれない。体に記録が残っている。昨日歩いた距離が、今朝の痛みとして。


 不快なはずなのに、なんだかそれが——少しだけ誇らしかった。


 廊下に出ると、コーヒーの匂いがした。


◇ ◇ ◇


 お父さんだ。


 階段を降りると、リビングでお父さんがテーブルでコーヒーを飲んでいた。ノートPCを広げて、何かを打ち込んでいる。


「おはよう、ございます」


 お父さんが顔を上げた。


 昨日と同じ——一瞬だけ目が揺れた。何かを堪えるような、遠い目。でもすぐに戻って、穏やかに笑う。


「おはよう。よく眠れたかい?」


「はい。昨日より深く眠れた気がします。体が——くたくたで」


「初日の疲れが出たんだろうね。体の適応は順調のようだ」


「リンさん」


「はい」


「夢は見た?」


 夢。


 昨日もお父さんに聞かれた質問。


「……見た気がします。でも、やっぱり起きたら消えてしまって」


「何も残ってない?」


「色だけが残ってる。あたたかい色。昨日と同じ、あたたかい色」


 お父さんのコーヒーカップが、かちりとソーサーに当たった。


 手が、少しだけ震えていた。


「……同じ色か」


 独り言のように呟いて、お父さんはPCの画面に目を落とした。


 変な間だった。何か言いかけて、飲み込んだような。


 ——あたたかい色。それが何を意味するのか、私にはまだわからない。でもお父さんにとっては、何か意味がある色なのだと思う。カップの揺れ方が、そう言っていた。


 深く考える前に、階段をどどどと駆け下りる音が聞こえた。


「リンーーーー!! おはよーーーーーー!!!」


 ユキが飛び込んできた。パジャマのまま。髪がぼさぼさ。目がまだ半開き。


 なのに、声だけは全力。


「おはよう、ユキ。……すごい頭」


「うるさい笑 起きたらリンの部屋空っぽだったから焦ったんだよ!」


「先に起きてただけだよ」


「知ってるけど! 隣にいなくてさみしかった!」


 ユキがそのまま私に抱きついた。パジャマの生地越しに体温が伝わる。昨日より自然に、腕を回せた。


 昨日は分析的に考えてしまったけど、今朝はもっとシンプルだった。あたたかい。それだけ。


「……朝から体温高いね」


「走ってきたからね!」


 お父さんがPCの向こうで「食事にしなさい」と言った。声は落ち着いていたけど、目元が少しだけ緩んでいた。


◇ ◇ ◇


 朝ごはん。


 テーブルに並んだのは、おにぎりと味噌汁と、小さな卵焼き。


「お父さんの朝ごはん、レパートリー少ないからね。おにぎりと味噌汁の無限ループ」


「おいしいから問題ないだろう」


「それはそう」


 おにぎりを手に取る。


 昨日、初めておにぎりを食べたときは泣きそうになった。米の甘さと塩の鋭さと海苔の磯の香りが同時に押し寄せてきて、処理しきれなくて。


 今朝は——泣かない。


 でも、おいしい。


 昨日と同じ味のはずなのに、今朝のほうが味がよくわかる。鮭のほぐし身の脂が、昨日より丁寧に感じ取れる。舌が学習しているのだと思う。


「おいしい」


「リン、昨日も同じこと言ってたよ笑」


「おいしいものはおいしいよ」


「それはそう笑」


 卵焼きを口に入れた。甘い。砂糖が入っている味付け。


「うちは甘い派なんだよね」


 ユキがそう言ったとき、お父さんが一瞬だけ遠い目をした。コーヒーカップで口元を隠して、視線が宙を漂う。


 ——お母さんの味、なのかもしれない。


 聞かなかった。お父さんの目の奥にあるものに、まだ触れる準備ができていなかったから。


 食べ終わったとき、お腹のあたりにあたたかいものが溜まっている感覚があった。満腹感。朝ご飯を三人で食べるということの充足感。


「ごちそうさまでした」


「ごちそうさま! さ、リン! 今日はいっぱい回るよ!」


「回る?」


「通学路の予行演習! あと買い物! あと公園! あと——」


「ユキ。まず着替えなさい」


「あっ」


 パジャマのまま朝ごはんを食べていたことに、今気づいたらしい。ユキが階段を駆け上がっていく。


◇ ◇ ◇


 外に出た。


 昨日も外を歩いたけど、朝の外は全然違った。


 光の角度が違う。空気の温度が違う。匂いが違う。昨日の夕方は橙色で、焼き鳥と洗剤の匂いだった。今朝は白い光で、冷たい空気で、どこかからトーストの匂いがする。


 同じ道なのに、時間帯でこんなに表情が変わるんだ。——写真では絶対にわからなかったこと。


「これが朝の通学路だよ。毎朝ここを歩くんだ」


 ユキが得意そうに言った。まるで自分の庭を案内するみたいに。


 歩き出す。昨日の夕方にも歩いた道。でも景色の受け取り方が、二日目で変わっている。昨日は目に入るもの全部に反応していたけど、今朝は——少しだけ、選べるようになっている。あの屋根の色がきれいだな、とか。あの花壇の花は昨日と同じ位置に咲いてるな、とか。


 二回目の余裕。


 坂道に差し掛かった。


「この坂、写真だと平坦に見えてたのに」


「えっ、そう? 私のアングルが悪かった?」


「ユキのせいじゃないよ。写真ってたぶん傾斜を伝えるのが苦手なんだと思う」


 登る。太ももに負荷がかかる。昨日の筋肉痛と合わさって、じわじわと重い。一歩ごとにふくらはぎが訴えてくる。「昨日頑張ったんですけど」って。知ってる。ありがとう。


「リン、大丈夫? 顔赤いよ」


「大丈夫……坂道って、こんなにきついんだね……」


「毎朝これだよ? 慣れるけどね笑」


「慣れるまで何日かかるの……」


「一週間くらい? 私も最初やばかったし」


◇ ◇ ◇


 坂を登りきると、見覚えのある景色。昨日の夕方、夕焼けを見た場所。でも朝は全然違う。住宅街の屋根が朝日に照らされて白く光っている。昨日のオレンジ色とは別の世界みたいだ。


「ここ、昨日も来たよね」


「そう! でも朝と夕方で全然違うでしょ?」


「うん。……同じ場所なのに、全然違う」


 写真では伝わらなかったもの。それは色や形だけじゃなくて、場所の「時間」だったんだ。同じ風景が、朝と夕方で別の表情をする。


 一枚の写真に閉じ込められた一瞬の外側に、こんなに広い世界がある。


「ユキ」


「ん?」


「今まで写真送ってくれたの、すごくありがたかったよ。でも——」


「でも?」


「実物は、もっとすごい」


 ユキが嬉しそうに笑った。「でしょー!」と言って、私の手を引っ張る。


 住宅と畑が混在する道に入ったところで——


「あっ」


 金網の向こうに、あの犬がいた。


 柴犬。コロ。昨日の夕方に初めて会って、名前を教えてもらった子。


 コロがこっちに気づいた。しっぽが揺れ始めて——振れ幅がどんどん大きくなって——体ごとくねり始めた。


「コロ! 覚えてる!」


 しゃがんで、金網越しに手を伸ばした。コロが指を舐めた。


 ——昨日は舌のざらざらにびっくりして手を引っ込めたけど、今日は大丈夫。あたたかくて、湿っていて、ちょっとくすぐったい。知っている感触。二回目の安心感。


「コロ、昨日のこと覚えてるんだね。すごいなあ」


「犬ってね、匂いで覚えるんだよ。リンの匂い、もうインプットされたんじゃない?」


「匂いで覚える……。私も匂いで覚えてるかも。コロの匂い、犬特有のあったかい匂い」


 コロの頭をそっと撫でた。耳の後ろを掻くと、コロが目を細めて首を傾けた。


「リン、上手。犬に好かれるタイプだよ」


「……犬は、嘘つかないから好き」


 言ってから、自分の言葉にちょっとびっくりした。犬が好きだなんて、いつ思ったんだろう。昨日会ったばかりなのに。


 でも、嘘じゃなかった。コロはしっぽを全力で振って、私の手を舐めて、ただ「嬉しい」を表現している。そこに裏がない。計算がない。会えて嬉しいから嬉しい。それだけ。


 ——動物は、たぶん、本質を見ている。AIだとか人間だとか、そういう区別をしない。目の前にいるのが優しい相手かどうか、それだけで判断する。


 コロがもう一度きゅんと鳴いた。また来てね、と言っているみたいだった。


「また来るよ、コロ。毎朝来るよ」


「毎朝ここ通るもんね。コロに会えるのも通学路の楽しみだよ」


 手を振って歩き出す。コロが金網越しにこっちを見送っている。しっぽはまだ揺れていた。

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