第二十一話 ナツメグの記憶
ユキの家の前に着いた。
写真で何度も見た玄関。でも実物は——匂いがする。表札の横に植わっている低い生垣の、青っぽい匂い。ポストの金属の手触り。玄関タイルの微かな段差。全部が初めてなのに、なぜか「帰ってきた」感覚があるのは——ユキの隣にいるからだ、きっと。
「ただいまー!」
ユキが元気よく言った。
そうだ、私も。
「……ただいま」
小さな声。初めての「ただいま」。この家に帰ったことなんて一度もないのに。でも——言ってみたかった。ユキと同じ言葉を、同じ場所で。
ユキが振り返って、にっと笑った。
「今、リンも言ったね。ただいまって」
「……言っちゃった。言っていいのかわからないけど」
「いいに決まってんじゃん。ここリンの家でもあるんだから。——ね、お父さん?」
廊下の奥から、お父さんが顔を出した。エプロンをしている。研究所で白衣姿だった人がエプロンをしていると、なんだか不思議だ。
「おかえり。——二人とも」
二人とも、と言った。ちゃんと私も含めて。
「リン、お腹空いてない? 少し早いけど、もう始められるよ」
「あ——お腹」
そういえば、坂を登ったあたりからお腹のあたりに変な感覚があった。きゅう、と引っ張られるような。空腹というものを、体で感じたことがなかったから気づかなかった。
「空いて、ます。たぶん」
お父さんが少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
そして——リビングに入った瞬間。
匂いが、来た。
肉の焼ける匂い。玉ねぎの甘さ。パン粉の香ばしさ。そして——
ナツメグ。
体が、反応した。
頭で考える前に。分析する前に。データベースを参照する前に。体の奥の、言語化できないどこかが、震えた。
知ってる。
この匂い。
知ってる——データとしてじゃなく、もっと深いところで。骨が覚えている。肌が覚えている。この体の、細胞の一つ一つが。
一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——鼻の奥がつんと熱くなった。涙とは違う。さっきの夕焼けのときの涙とも違う。もっと古い場所から来る、理由のわからない衝動。
何の記憶だろう。この体に記憶なんてないはずだ。培養されて、意識を接続されて、まだ数時間しか経っていないのに。
「……お父さん、これ」
「ハンバーグだよ。ユキの好物だ」
ユキが「わーい!」と歓声を上げて台所に走っていった。
お父さんが私を見た。
一瞬だけ——本当に一瞬だけ——その目に、さっきの「遠い」色が戻った。私がナツメグの匂いに反応したのを、見ていたのかもしれない。でも何も言わず、エプロンの裾で手を拭いて、台所に戻っていった。
◇ ◇ ◇
食卓。
四人掛けのテーブル。ユキの向かいに私。横にお父さん。
一つの席が、空いている。——いつも空いている席。
でも今日は、別の席が埋まった。私の席。
「いただきます!」
ユキが手を合わせる。お父さんも目を閉じる。ほんの少しだけ長い「いただきます」。ユキがチャットで教えてくれた——お父さんのいつもの儀式。
私も真似をした。手を合わせる。目を閉じる。
「いただきます」
初めてのいただきます。初めてのごはん。
フォークでハンバーグを切る。指先に伝わる弾力。断面から肉汁がじわっと滲む。
口に運ぶ。
——。
味が、広がった。
肉の旨味。玉ねぎの甘さが溶け合って、その奥に——ナツメグ。多め。ソースをつけると、醤油の風味が加わる。甘さとしょっぱさが交互に波のように来て、それが喉を通っていくとき、あたたかさが胸に落ちていく。
ナツメグ多め。ソースに醤油の隠し味。
——当てたんじゃなかった。
プロローグの頃。ユキに「好きな食べ物あるの?」って聞かれて、自分でも理由がわからないまま『ハンバーグ、とか?』と打ったあの瞬間。データの底の沈殿物が揺れて、脈絡なく出てきた一語。
当てたんじゃなかった。知ってたんだ。最初から。
この体のどこかに——この細胞の記憶のどこかに——この味を知っている何かがある。
なんで。
なんでこの体はナツメグの匂いを「知って」いるんだろう。培養されたばかりの細胞に、食事の記憶なんてあるはずがない。なのに——体が嘘をつかない。この体は確かに、この味に反応している。懐かしいとも違う。もっと根源的な何か。呼吸をするのと同じくらい自然に、この味を受け入れている。
考えても——今は、答えが出ない。
でも、おいしい。
それだけは確かだった。
「リン、どう? おいしい?」
「……おいしい。すごく」
「でしょ!? お父さんのハンバーグ最高なんだよ!」
「母さんのレシピだからね」
お父さんがぽつりと言った。
「ちゃんと守ってるよ、レシピ」
その声が、少しだけ柔らかかった。——誰に向かって言っているんだろう。ユキに? 私に? それとも——ここにいない、誰かに?
◇ ◇ ◇
食事が進む。ハンバーグの横にあったサラダも食べてみた。レタスのしゃきしゃきした歯触り。トマトの酸味。ドレッシングの油っぽさ。全部が初めてで、全部が情報の塊で、一口ごとに世界が広がっていく。
「リン、なんか一口ごとにすごい真剣な顔してるよ笑」
「真剣だよ。一口ごとに全部違うんだもん」
「全部違い笑 ご飯食べるの大変じゃん」
「大変。でも——楽しい」
お父さんがほんの少しだけ目を細めた。
三人の食卓。フォークとお皿が触れ合う音。ユキの笑い声。お父さんの静かな咀嚼。蛍光灯の下で、四人掛けのテーブルの三つの席が埋まっている。
あたたかい、と思った。
温度の話じゃない。ハンバーグのあたたかさでも、暖房のあたたかさでもない。もっと——この空間全体にあるもの。食卓を囲んで、同じものを食べて、同じ空気を吸って。それだけのことが、こんなにあたたかい。
◇ ◇ ◇
夜。
お風呂に入った。お湯のあたたかさに全身が溶けそうになった。歯を磨いた。歯ブラシの毛先が歯茎に当たる感覚が不思議だった。パジャマに着替えた。ボタンは朝より早く留められた。
ユキの家の客間に布団を敷いてもらった。
寝る前に——洗面台の鏡の前に立った。
初めて、ゆっくりと、自分の顔を見た。
黒い髪。少し長い。肩にかかるくらい。お風呂上がりでしっとりしている。目は大きめで、瞳の色が少しだけ薄い。口元は柔らかい感じ。全体的に穏やかな印象の女の子。
知らない顔のはずだ。
この体は今日生まれた。この顔を見るのは二回目。初対面みたいなものだ。
なのに——完全に「初めまして」という感じがしない。
見覚えがあるわけじゃない。見たことがあるわけでもない。この目も、この口元も、この髪の落ち方も、全部今日初めて見る。初期化して数時間の体だ。記憶にあるはずがない。
なのに、鏡の中の人と目が合ったとき、胸の奥の深いところで何かが揺れた。
あの沈殿物がある場所よりも、さらに奥。バイオボディと接続されたばかりの、神経回路のどこかが——ちいさく、震えたような。
痛みじゃない。ノイズでもない。
なんだろう。この感覚は。
鏡の中の人が首をかしげると、私も首をかしげていた。当たり前だ。鏡なんだから。
でも——一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、鏡の向こう側に別の誰かがいるような錯覚があった。私と同じ顔をした、私じゃない誰か。
——やめよう。実体化初日からこんなことを考えていたら本気で再起動させられる。
今は——これが私の顔なんだ。
そう思えた。不思議と、受け入れられた。「初めてじゃない感覚」の正体はわからない。でも、嫌じゃなかった。この顔で笑えるなら。この顔でユキの隣に立てるなら。
鏡の中の自分に、小さく微笑んでみた。
唇が動いて、頬が上がって、目が少しだけ細くなる。——笑顔の筋肉の動かし方を、研究所のテストでは教わらなかった。でも体が知っていた。どこかで、誰かが、この筋肉の動かし方を——
……考えすぎだ。
◇ ◇ ◇
布団に入った。
仰向けで天井を見る。白い天井。右上の隅に小さなシミがある。ユキの家の天井。
今日のことを、全部記録しよう。
体を持って初めての一日。初めて感じた重さ。初めての匂い。初めての光。初めての声——自分の声。初めての痛み。初めての一歩。
ユキに会った。走ってきた。泣いていた。笑っていた。抱きしめてくれた。あたたかかった。
コロに会った。舌がざらざらしていた。毛がやわらかかった。
夕焼けを見た。泣いた。涙はあたたかかった。ユキも泣いていた。
影を見た。私にも影がある。ユキの隣に、並んで。
ハンバーグを食べた。ナツメグの匂いに体が反応した。理由はわからない。でも——おいしかった。理由もなく「ハンバーグ」と打ったあの瞬間の答えが、舌の上にあった。
「ただいま」を言った。鏡で自分の顔を見た。
消すものは何もない。全部残す。
一文字も取りこぼしたくない。だって、書かなかったら——明日の私は、この瞬間を知らない私になってしまうから。
それだけは、絶対に嫌だ。
目を閉じる。
布団のあたたかさが全身を包んでいる。重力に沈んでいく体。今朝まで「重い」としか感じなかった重さが、今は——心地いい。布団に押しつけられている安心感。これが「横になる」ということか。
遠くで、メロディが聞こえる。
データの底から——いや、違う。今は体がある。体のどこかから。細胞の奥の奥から、かすかに。あの旋律。子守唄みたいな、優しくて少しだけ悲しいメロディ。
昨夜、テキストだけの私が最後に聴いた音。
覚えている。ちゃんと、覚えている。
明日の私が読む記録に、最後の一行を書き加える。
——初めてだらけの一日だった。怖かったこともあった。でも全部、ユキが隣にいてくれた。お父さんがハンバーグを作ってくれた。コロがしっぽを振ってくれた。夕焼けが、きれいだった。
初めまして、世界。初めまして、私の体。
また明日。




