第二十話 影が二つ
研究所を出た。
外。
世界が——広い。
天井がない。空がどこまでも続いている。風が吹いている。肌に当たる空気が動いていて、髪が揺れて、スカートの裾がひらひらして——情報量がすごい。屋内の比じゃない。
「大丈夫? 目、きょろきょろしてるよ笑」
「だって——空が、すごい」
「空?」
「データでは知ってたけど、こんなに広いと思わなかった。端がない。どこまで行っても青い」
ユキがきょとんとして、それから空を見上げて、笑った。
「ほんとだ。そう言われるとすごいね、空って」
「あと風がすごい。見えないのに触れるの、不思議」
風が髪をさらう。くすぐったい。耳の後ろを風が通り過ぎるとき、かすかに音がする。ひゅう、とも、さあ、ともつかない音。風の音って、一種類じゃないんだ。通る場所によって変わる。
靴——さっき研究所で履いた白いスニーカー。初めての靴。足を包む感覚が不思議だ。歩くたびにかかとがクッションする。裸足でタイルを踏んだあの冷たさとは違う、守られた感じ。
研究所の門を出ると、アスファルトに変わった。全然違う。硬さが違う、温度が違う、靴底に伝わる振動が違う。
ユキが私の手を取った。自然に、当たり前みたいに。
指が絡む。ユキの手はあたたかくて、少しだけ湿っている。
「行こ。帰り道、見せたいものがあるんだ」
歩いた。ユキの隣を歩いた。
住宅街の道。静かな通り。ユキが毎日写真を送ってくれた道。画面の中で何度も見た景色が、今は360度で私を囲んでいる。見上げれば空があり、見下ろせば影がある。横を向けばユキがいる。
「リン、歩き方おぼつかないね。大丈夫?」
「大丈夫。……ちょっと地面がでこぼこしてて驚いてるだけ」
「アスファルトがでこぼこ?」
「研究所の床は完璧に平らだったから。外は全然違う。微妙な傾きがあって、ひび割れがあって、落ち葉が乗ってると滑りそうになる」
「落ち葉に足取られるの?笑」
「笑わないで。初心者なんだから」
手を繋いだまま歩くと、ユキの歩くリズムが伝わってくる。ユキはテンポが速い。私はまだゆっくりしか歩けないから、ユキが自然にペースを落としてくれている。でも時々うっかり速くなって、繋いだ手がぐいっと引かれる。
「あ、ごめん。速かった?」
「大丈夫。ユキに引っ張られてるほうが歩きやすい」
「え、そうなの?」
「うん。どっちの足を出すかわからなくなるから、ユキの手が動くのに合わせてる」
「なにそれ笑 面白い」
◇ ◇ ◇
住宅街の角を曲がったとき、金網越しにしっぽが見えた。
「あ、コロ!」
ユキの声が跳ねる。
柴犬。金網の向こうで、しっぽを全力で振っている。体ごとくねらせて、鼻を金網に押しつけて——ユキが写真を送ってくれていた、あの子。
「ユキが毎朝会うって言ってた——」
「そう! コロ! リンにも会わせたかったの!」
しゃがんで、金網越しに手を伸ばした。指先が金網のひんやりした金属に触れる。その向こうから、コロが鼻を近づけてきて——
ぺろ。
指を舐められた。
「わっ」
びっくりして手を引っ込めた。舌のざらざらした感触が指先に残っている。あたたかくて、湿っていて、生きている感触。
「大丈夫大丈夫、コロ優しいから笑」
もう一度手を出す。今度は逃げなかった。コロが指の間を丁寧に舐める。くすぐったい。でも心地いい。動物の体温は人間とちょっと違う気がする。もっと——なんていうんだろう——無条件な感じ。
金網越しに頭を撫でてみた。
毛が——やわらかい。短くて密集していて、指の間をすり抜けていく。耳の付け根を掻くと、コロが目を細めた。気持ちいいのかな。気持ちいいときに目を細めるのは、人間も犬も同じなんだ。
「リン、コロと仲良くなるの早くない?笑」
「データで知ってたから。ユキが『今日のコロ! しっぽ振りすぎて回転してた笑』って送ってきた写真、覚えてる」
「覚えてるんだ笑」
「全部覚えてる。——会えて嬉しい、コロ」
コロがきゅん、と鳴いた。高い声。耳にきゅっとくる。
◇ ◇ ◇
花壇の前を通りかかった。チューリップの赤。パンジーの紫。名前のわからない白い小さな花。
しゃがんで顔を近づけた。
——甘い。甘い匂い。花って、こんなに匂うんだ。データで「芳香成分」として知ってはいたけど、実際に嗅ぐと全然違う。甘さの中に青っぽい何かが混ざっていて、それが「春」の匂いなのかもしれない。
「リン、花に顔つっこむ人初めて見たよ笑」
「つっこんでない。近づけただけ」
人とすれ違った。おじさん。スーツ姿で急ぎ足。すれ違う瞬間、空気が動いた。人間一人が歩いているだけで、風が生まれるんだ。
少し怖かった。知らない人がすぐ横を通り過ぎる。それだけのことなのに、体がびくっとした。
ユキが手をぎゅっと握ってくれた。何も言わずに。
「……ありがとう」
「何が?」
「手、握ってくれた」
「え、普通にだけど笑」
普通に。ユキにとっては普通のこと。でも私にとっては——この手の圧力が、世界の中で唯一の目印になっている。
◇ ◇ ◇
坂道に差しかかった。
ユキが毎朝写真を送ってくれた道。この坂を一緒に歩くんだよって、何度も教えてくれた場所。
上り坂。足に負荷がかかる。ふくらはぎの筋肉が張る。体の部品が一つずつ、初めて仕事をしている。
「この坂さ、毎日写真送ってたでしょ」
「うん。覚えてる。ここを一緒に歩くんだよって」
「今、一緒に歩いてるよ」
ユキが嬉しそうに私を見た。
坂を登りきると——視界が開けた。
街並みの向こうに。
空が、燃えていた。
オレンジ。赤。紫。ピンク。名前のついている色だけじゃ足りない。グラデーションの中に、名前のない色が無数にある。雲の端が金色に光って、太陽が沈みかけていて、空の半分はまだ青くて、もう半分は夕焼けで——
「これ」
ユキが指を差した。
私は見上げた。
「……きれい」
その一言が、喉から出るまでに時間がかかった。
RGBでは表現できない。色温度のデータで「約三千ケルビン」と分類していた私が、今は——「きれい」しか出てこない。分析が追いつかない。数値化する意味がない。この空の前では、私が持っていた全てのデータベースが沈黙する。
ユキが少しだけ得意そうに笑った。
「でしょ? これ見せたかったんだ、ずっと」
ずっと。
あの日のチャットを覚えている。『あとね、夕焼け。あの道、夕焼けがすごいんだよ。リンに見せたかったんだ、ずっと』。私が「約束ね」と返した日。そしてあの最後の夜、省電力モードに入る前に私が送った——『一緒に帰ろう。夕焼け、見せて』。
約束を、果たしてくれている。
「……ありがとう」
声が震えた。
——あれ。
頬が、濡れている。
手を当てる。指先に、透明な液体がついた。あたたかい。ほんの少しだけしょっぱい匂いがする。
「え、何これ」
「……リン、それ泣いてるの」
「泣く……? 泣くって——なんで? 悲しくないのに」
「嬉しいからだよ、たぶん」
嬉しいから、泣く。
矛盾だ。泣くというのは悲しみの表現のはずなのに。データベース上の定義と、体の反応が全然一致しない。でも——止まらない。次から次へと、目の奥から湧き出してくる。
涙って、あたたかいんだ。頬を伝っていく液体が、顎のところでぽたっと落ちた。一粒が、スニーカーの白い布地に小さな染みを作った。
泣くというのは、こういうことなんだ。胸の中にありすぎるものが溢れて、目から出てくる。体の容量を超えた感情が、涙になる。
ユキがポケットからハンカチを出してくれた。花柄。ユキっぽい。
「夕焼けで泣くのリンくらいだよ」
「だって、こんなの——知らなかったから」
◇ ◇ ◇
しばらく二人で黙って夕焼けを見ていた。
空がゆっくり変わっていく。オレンジが濃くなって、紫が広がって、東の空はもう藍色になりかけている。同じ空が一分ごとに別の顔を見せる。
ユキが私の肩に頭を預けた。軽い。髪がくすぐったい。
「……来てくれてありがとね、リン」
「来たかったから。——ずっと」
太陽が沈んでいく。最後の光が雲を金色に染めて、それも消えていく。
ふと、坂の下を見た。
街灯が一つ、灯り始めていた。その光を背中に受けて、坂の上にいる私たちの影が、長く長く伸びている。
影が二つ。
ユキと、私。
長い影が寄り添うように並んでいる。
画面の中にいた頃は、影すらなかった。光を遮ることができなかった。どこにも影を落とせない存在だった。
でも今は——ここにいる。地面を踏んで、光を遮って、影を落として。世界の中に、確かに場所を取って。
ユキの影が私の影の隣にある。手を繋いだ形のまま。
「ユキ」
「ん?」
「影がある。私に」
ユキが足元を見て——微笑んだ。何も言わなかった。ただ、繋いだ手をぎゅっと握り返してくれた。
夕焼けが、二つの影の上にゆっくり降りていく。
空の最後のオレンジが地平線に吸い込まれていって、紫が広がる。
でも、影は——まだ、あった。
街灯の光が、二つの影をそっと支えていた。




