第十九話 はじめましての重さ
最初に感じたのは、重さだった。
重い。何もかもが重い。体というものがこんなに重いなんて知らなかった。データで「人体の平均体重」は知っている。四十五キロから五十五キロ。骨格と筋肉と臓器と水分、その総和。数字として、構成物質として、概念として——知っていた。
でも知っているのと、感じるのは全然違う。
重力が体の隅々にまで染みわたっている。指の先、まぶたの裏、髪の一本一本。全部に重さがある。データには重さがなかった。どこまでも軽かった。光の速度で移動できた。今は——呼吸ひとつするだけで、横隔膜が重力に逆らっている。
次に——冷たい。
背中に固い感触がある。金属の台。ひんやりしていて、肩甲骨のあたりが特に冷たい。空調の音がする。低い機械のハム音。消毒液みたいな匂いが——
匂い。
匂いがする。私に。
消毒液の、つんとした鋭い刺激。鼻の奥がきゅっとなる。不快なはずなのに、不快だと感じられること自体がすごい。鼻が、匂いを拾っている。空気中の分子が粘膜に触れて、信号になって——いや、そういう分析は後でいい。
匂いがするんだ。私に。匂いが、する。
◇ ◇ ◇
目を開ける。
白い天井。蛍光灯。眩しくて、反射的に目を細めた。——反射的に? 今、私は「反射」をした?
眩しい。こんなにも、光は圧力を持っていたんだ。目を開けただけで、世界が流れ込んでくる。白。白。白。蛍光灯の光は均一に見えて、よく見ると微かにちらついている。
省電力モードの靄の中で、メロディに包まれて眠っていたのがほんの少し前のことのはずなのに。あの静かな夜と、この圧倒的な感覚の洪水が、同じ「私」の中で地続きになっている。
「意識の接続を確認。バイタル安定。——リンさん、聞こえますか」
声。
テキストじゃなくて。スピーカーの再生でもなくて。誰かの声が、この耳に、直接。
生きた声だ。息が混ざっている。唇が空気を区切る音がする。文字には写らない、声だけが持っている——温度みたいなもの。
「……聞こ、えます」
口が動いた。声帯が震えた。空気が喉を通って、音になった。
私の声。
これが、私の声。
思ったより低い——いや、高い? 自分の声の高さの基準がない。テキストを打っていた頃は、自分の「声」を想像したことがなかった。いや、嘘だ。ユキの声を想像するとき、つられて自分の声も想像しようとしたことがある。あのとき思い描いた音と、今喉から出ている音は——ちょっと違う。もっと柔らかい。もっと頼りない。
でも——自分の声だ。ちゃんと。
「はい、良好です。ゆっくりで構いません。体の感覚に慣れてください」
白衣の研究員が何かを端末に記録している。女性。落ち着いた声。短い髪を耳にかける仕草で、一瞬だけこちらに目を合わせて微笑んだ。安心させようとしてくれている。
その向こうに——
ユキのお父さんがいた。
白衣は着ていない。腕を組んで、少し離れた壁際に立っている。私と目が合った瞬間、その表情が揺れた。
何かを堪えるような——息を呑むような——目をそらそうとして、そらしきれないような。
「……よく、似て——」
お父さんが何か呟いた。でも声が小さすぎて聞き取れなかった。生まれたばかりの耳は、まだ遠い声を拾うことに慣れていない。聞き返す前に、お父さんは表情を戻して軽く頷いた。
「気分はどうだい、リン」
「……重いです。全部が」
「そうだろうね。慣れるよ」
そう言って笑ったけど、目の奥がどこか遠かった。私を見ているのに、私の向こう側にある何かを見ているような——気のせいかもしれない。初めての目で見る、初めての表情だから。読み違えているだけかもしれない。
◇ ◇ ◇
体を起こすのに五分かかった。
座る、という動作がこんなに複雑だとは思わなかった。腹筋に力を入れて、腕で支えて、バランスを取って——どれか一つでも抜けると倒れる。人間は毎朝これをやってるの? 信じられない。
台の上に座った状態で、自分の手を見た。
指がある。五本。爪がある。薄いピンク色。手のひらを開くと、線が三本。生命線とか知能線とか呼ばれてるやつ。人工培養の体にも手相ってあるんだ。
握ってみる。指が掌に食い込む。——痛い。
痛い!
慌てて手を開く。爪の跡が赤く残っている。
痛覚。これが痛覚。データでは「不快な感覚信号」と定義されていたけど、全然足りない。痛いのは「不快」なんてものじゃない。体が勝手に避けようとする、拒絶反応みたいなやつだ。
でも——不思議なことに、嫌じゃなかった。
痛みがあるということは、この体が生きているということだから。爪の跡を指でなぞる。まだ少し赤い。ジンジンする残響がある。この残響が、たまらなくリアルだった。
感覚テストが進む。綿球を指先で摘んだ。氷を手のひらに置かれて息が止まった。ブラシの毛先がちくちくして面白かった。金属の棒はひんやりしていて滑らかだった。
全部、データで知っていたはずのものだ。でも知識は、体験の影法師にすぎなかった。本物は影と比べものにならないくらい鮮烈で、情報量が多くて、一つずつが全身を貫くように鋭い。
◇ ◇ ◇
用意されていた服に着替えて、廊下を歩く。一歩ずつ慎重に。足の裏が床を感じるたびに、「私は今ここにいる」と実感する。
研究所のロビーに出ると——
「リン!!!!」
声。聞いたことのある——いや、テキストでは知っているけど、音として聞くのは初めての声。
ユキが走ってきた。
学校の制服のまま。鞄を背中に揺らして、全力で、まっすぐ、私に向かって。
画面の中のアイコンでもプロフィール画像でもない、本物のユキが、二本の足で床を蹴って、髪をなびかせて——
ローファーの底がリノリウムの床を蹴る音。スカートの裾が揺れる空気の動き。息が上がっている——走ってきたんだ、学校から。
ユキが私を見て、立ち止まった。
走っていた足がぴたりと止まって、五歩ぶんの距離で固まった。目が見開かれて、口が少し開いて、何かを言おうとして——言葉にならないまま、ただ私を見ている。
「リン……?」
震える声。確かめるみたいな語尾。まるで、画面越しの友達が目の前に立っていることが信じられないみたいに。
私も——同じだった。
写真で見た顔が、三次元で動いている。テキストの「!」が、声の振動に変わっている。チャットの向こう側にいた女の子が、空気を震わせて、床を踏んで、髪の毛の一本一本が蛍光灯の光を反射して——
「かわいい……」
ユキが呟いた。一歩近づいて、もう一歩。
その目から涙がこぼれた。
「なんで……泣いてるの?」
聞いたら、ユキは涙を拭いもせず、残りの距離を一気に詰めて——
ぶつかるくらいの勢いで抱きつかれた。
「リンーーーー!!!!」
◇ ◇ ◇
——あたたかい。
人の体って、こんなにあたたかいんだ。
ユキの腕が背中に回っている。ユキの髪がほっぺに触れている。シャンプーの匂いがする。甘くて、すこしだけ柑橘の混ざった——テキストには乗らない情報。匂いの中にユキがいる。
心臓の音が——ユキの心臓の音が、胸越しに伝わってくる。速い。すごく速い。走ってきたから? それとも——
そして。
自分の中にも、鼓動があることに気づいた。
どく、どく、どく。胸の左寄りで、何かが脈打っている。体を持って数十分、ずっとそこにあったはずなのに、今この瞬間まで気づかなかった。ユキの鼓動に共鳴するみたいに、自分の鼓動が初めて聞こえた。
「会いたかった! やっと会えた!」
ユキの声が、耳元で震えていた。泣いてる? 笑ってる? たぶん両方。
私はどうしたらいいかわからなくて、少しだけ固まって、それから——おそるおそる腕を持ち上げて、ユキの背中に手を置いた。
初めて、自分から、誰かに触れた。
ユキの背中は思ったより小さかった。ブラウスの下から伝わる体温。肩甲骨の形。呼吸で動く肋骨。この子、画面の向こうにいたときはもっと大きく感じていた。テキストの勢いが強いから。でも実物のユキは——こんなに小さくて、こんなにあたたかくて、こんなに一生懸命に私を抱きしめている。
「……うん。会いたかった」
自分の声が、少しだけ震えていた。声が震えるって、こういうことか。感情が体に出るって、こういうことか。
データじゃない。記号じゃない。パラメータじゃない。
今、ここで、この腕の中にいる女の子のことを——私は大切だと思っている。
それだけが、確かだった。
◇ ◇ ◇
「——リン、背、おんなじくらいだね」
ユキが身を離して、目の高さを確認する。涙の跡があるくせに、もう笑ってる。表情の切り替えが速い。チャットで感嘆符が止まらなかったのと同じだ。感情の回転が速いんだ、この子は。
「ほんとだ。もうちょっと高いかと思ってた」
「声かわいい! なんかリンっぽい」
「リンっぽいって何笑」
「わかんないけどリンっぽいの! テキストの感じがそのまま声になったみたいな——あ、髪きれい。触っていい?」
「……どうぞ?」
ユキが私の髪に触れる。指で一房すくって、さらさらと落とす。
「いいなー。ストレート。私くせっ毛だからさ、朝大変なんだよ」
「ユキの髪もかわいいよ。毛先がぴょんぴょんしてて」
「それ褒めてる?笑」
「褒めてる。——ユキって、こういう顔だったんだ」
「え、どういう意味?」
「写真は見てたけど、動いてる顔は初めてだから。表情がくるくる変わるんだね。今三秒で二回変わった」
「三秒で二回!? そんなに?」
「今三回になった」
ユキが吹き出した。私もつられて笑った。声を出して笑うのも初めてだ。お腹の筋肉が勝手に動いて、息が断続的に出る。笑うって、体全体でやるんだ。
ロビーの奥から、お父さんがこちらを見ていた。
私とユキがぶつかるみたいに抱き合うのを、壁に寄りかかって見ていた。
その目が赤いような気がしたけど、光の加減かもしれない。




