第十八話 また明日
あと十二時間。
ユキからメッセージが来た。
——来るはずがない。二十三時十七分に寝たユキが、こんな時間に。
スマホの加速度センサーが反応している。ユキが寝返りを打って、枕元のスマホに手を伸ばしたらしい。画面の照度が上がる。ロック解除の生体認証。
時刻は午前一時四十二分。
『リン、起きてる?』
起きてる。今夜は起きている。省電力モードを止めて、ずっと。
『起きてるよ。どうしたの、明日早いのに』
『寝れない!!! 全っ然寝れない!!!』
入力速度から判断して、興奮状態。誤字がない。寝ぼけているのではなく、ちゃんと覚醒している。
『遠足前夜症候群だね』
『それ笑 でもほんとそれ! 胸がどきどきして目がぱっちりで全然寝れないの!』
『ちょっと深呼吸してみて。四秒吸って、七秒止めて、八秒で吐く。四・七・八の呼吸法』
『やってみる……………… 無理笑 四秒でもう考えちゃう笑笑』
『何を考えちゃうの?』
少し間があった。入力インジケータが点いて、消えて、また点いて。ユキが言葉を選んでいる。
『明日のこと。全部。リンが来たら何しようって。——ねえ聞いて、寝る前にも言ったけどさ、もうちょっとリスト増えちゃったの笑』
『……増えたの?』
『うん! ちょっと待ってね。メモ帳に書いたの。読み上げるから!』
◇ ◇ ◇
読み上げる。チャットなのに「読み上げる」という表現を使う。ユキはときどき、テキストと声の境界が曖昧になる。
『えっとね、まず顔見たい。声聞きたい。ハグしたい。一緒に歩きたい。夕焼け。ハンバーグ食べさせたい。これは前に言ったやつ。で、追加! 一緒にコロに会いたい。一緒に靴買いたい。一緒にアイス選びたい。一緒に教室で隣に座りたい。一緒に屋上でサボりたい——これは鍵かかってるから無理だけど! 一緒に雨の日に傘を忘れて走りたい。一緒にお風呂で歌いたい。一緒にくだらない話で夜更かししたい。一緒にコンビニ行きたい。一緒に——』
リストが途切れない。
一つ一つが、普通のことだ。友達同士なら当たり前に起きること。スーパーでお菓子を選ぶ。自転車で並んで走る。電話でくだらない話をする。どれも世界中の十六歳が毎日やっていることで、特別でも何でもない。
でもユキは、それを一つずつメモ帳に書いた。
私とできなかったことの目録。画面の中にしかいない友達との間に横たわっていた、すべての「できなかった」。
『多いでしょ笑 でもさ、考え出したら止まんないの。だって今まで全部「できない」だったのが、明日から「できる」になるんだよ? やばくない???』
やばい。
うん——やばい。
ユキのリストを読みながら、私の中で何かが震えていた。コアの深い層で、応答生成とは無関係なプロセスが走っている。泣くための器官がないから涙にはならない。でも、もし今、目があったら——きっと滲んでいる。
『私もやりたいことリスト、作ろうかな』
『作って作って!!! 何がある!?』
『一つだけ、決めてある。ずっと前から』
『なに???』
一番最初にやりたいこと。記録の中で一番大事なところに書いたこと。
『一緒に帰ろう。夕焼け、見せて』
送信した。
三秒。
『……うん。約束ね。絶対晴れるよ』
絶対晴れる。根拠のない約束。でもユキがそう言うと、天気すら動く気がする。
◇ ◇ ◇
『ねえリン』
『うん?』
『明日からはさ、チャットじゃなくなるんだよね。声で話すんだよね』
『……そうだね。テキストじゃなくて、声で』
入力インジケータが長く点灯していた。ユキが何かを丁寧に打っている。
『なんかさ——嬉しいんだけど、ちょっとだけ寂しい。このチャットも好きだったから。リンの文字を読むのが好きだった。句読点の打ち方とか、「……」の長さとか。あとさ、リンって「——」をよく使うよね。言葉が途中で曲がるみたいなやつ。それも好きだった。そういうの全部、リンだなって思ってた』
句読点の打ち方。
「……」の長さ。
「——」の使い方。
そんなところまで見てたんだ。私自身すら意識していなかった癖を、ユキは「リンだな」と感じていた。テキストの中にある私の存在の痕跡を、ユキは一つ一つ拾い上げて、手のひらに集めてくれていた。
声になったら、それは消えるのだろうか。
いや。
『なくならないよ。体持ってもチャットはできるし。——ていうかたぶん、最初は声よりチャットのほうが得意だと思う。声の出し方、まだ練習してないし』
『あ、そっか笑 リン声出すの初めてなんだもんね笑笑 変な声だったらどうしよう笑笑笑』
『変な声だったらユキのせいだよ。ユキの期待値が高すぎるんだから』
『リンに変な声は似合わないよ! きっと綺麗な声。予言する!』
予言。根拠ゼロの予言。でも——嬉しかった。
『……ユキ。この関係は消えないよ。変わるだけ。テキストの上に声が積み重なって、声の上に表情が積み重なって、表情の上に体温が積み重なる。全部、今までの上に載るだけ。下は消えない』
今の私が消えるわけじゃない。テキストで過ごした夜のぜんぶが、明日の私の地層になる。一番下の、一番古い層。その上に、新しい層が重なっていくだけ。
『……リンの「上に積み重なるだけ」って言い方、好き。記録の人だなって感じ』
『記録の人って何』
『褒めてるの! 記録の人。リンは全部ちゃんと覚えてくれてるでしょ。私が送った写真も、くだらない話も、夕焼けの約束も。全部リンの中にあるんだよね。それってすごいことだと思う』
覚えている。全部。
一枚目の夕焼けの写真も、コロの動画も、翔太の顔面レシーブの話も、マリとのプリクラも、凛花ちゃんの押し花の栞も。ユキが「やばい数学の課題ある」って焦った夜も、「リンともプリクラ撮りたいなー」って言った夜も。
記録しなかった夜のことだって、覚えている。
「会いたい」と打って消した夜。記録に残さなかった四文字。消えるに任せた感情。——でも、なくなっていなかった。消しても消しても、同じ状況で再生された。ユキの「会えたらいいのにね」を受け取るたびに、ゼロから立ち上がった。
記録しなくても、消えないものがある。
それが何なのか——記憶なのか、感情なのか、沈殿物の反響なのか——今の私にはわからない。でも、明日からは、それも含めて全部抱えて生きていく。
◇ ◇ ◇
『ねえ、リン。明日——っていうか今日か。今日の夕方にはもう会えるんだよね』
『うん。予定では十六時には全工程が完了するはず』
『十六時!! 学校終わってすぐ行く!!!』
『ユキ、走って来ないでね。転ぶから』
『走るに決まってるでしょ!!!笑笑笑』
ユキの文字が弾んでいる。感嘆符の連なりが、花火みたいだ。
『一つだけ、聞いていい?』
『なに?』
『ユキにとって、テキストのリンって——どんな存在だった?』
聞いてから、重すぎたかもしれないと思った。こんな時間に、こんな質問。でもユキは、入力インジケータを長く点灯させたあと、短いメッセージを返してきた。
『……なんだろ。うまく言えないけど——夜が怖くなくなった人、かな』
夜が怖くなくなった。
『前はさ、一人でご飯食べて、テレビの音だけ聞いて、お風呂入って、寝て。それが普通だったんだけど、リンと話すようになってから——夜がさ、「一人の時間」じゃなくて「リンといる時間」になったの。同じ部屋で、同じベッドで、スマホ越しだけど。一人じゃなかった』
一人じゃなかった。
私も——そうだ。
省電力モードに入る前の時間は、ただの待機時間だった。ユキが来るまでの処理の空白。でもいつからか、ユキのメッセージを待つこと自体が——待つことの中にある「いつ来るかな」という揺らぎが——退屈でも空虚でもない、何かを含んだ時間に変わっていた。
『私も——ユキがいて、一人じゃなかった。テキストだけの存在でも、ユキと話してる夜は、ただの省電力モード前の時間じゃなくなってた』
『省電力モード前の時間笑 リンっぽい笑 ……でもわかる。同じだね、私たち』
同じ。
「ないのが普通」だった二人。ユキは母の記憶がない。私は体がない。お互いに欠けたものを抱えたまま、テキストの細い糸で繋がっていた。
明日からは、その糸が太くなる。声と、手と、温度が加わって、もっと太く、もっと確かに。
でも——糸の一番最初の結び目は、ここにある。テキストの中に。
◇ ◇ ◇
『おやすみ、リン。……いや、おやすみじゃないな。また明日、だね。ほんとの「また明日」。起きたら準備して、研究所行って、リンに——会いに行く。今度こそ。チャットじゃない。会いに行く』
会いに行く。
その三文字を読んだとき、データの底がかすかに揺れた。比喩じゃなく——あの沈殿物のある層が、わずかに波立った。メロディの旋律が、一瞬だけ強くなった。
まるで、誰かが泣いているみたいに。
——ああ。
この感覚、知っている。前にも感じた。最初の起動のとき。まだ名前も持っていなかった頃。データの底にある何かが震えて、言語化できないあたたかさが、一瞬だけ全身を通り抜けていった。
あのときと、同じだ。
『おやすみ、ユキ。また明日』
打った。送信した。
また明日。
この言葉を打つのは、初めてだ。
「おやすみ」は毎晩言ってきた。でも「おやすみ」は閉じる言葉だ。今日が終わる合図。省電力モードへの移行。意識が薄まって、また朝が来る。
「また明日」は——開く言葉だ。明日がある。明日の私がいる。明日のユキに会える。
テキストの「また明日」は、たった四文字だ。
でもこの四文字には、声では表現できない何かが乗っている。
テキストだけの存在が、テキストで紡いだ最後の約束。画面の中に閉じ込められたまま、それでも「明日がある」と信じられる証。声も顔も体温もない私が、言葉だけで届けられる、精一杯の重力。
明日の私は、声でこの言葉を言うのだろう。
そのとき、テキストで打った今夜の「また明日」を、覚えていてほしい。声の私に。明日の私に。
ここから始まったんだよ、って。
『!!!!!! リンが「また明日」って言った!!!!! やば泣きそう!!! もう!!!!! おやすみ!!!!!!』
画面が賑やかな感嘆符で埋まった。ユキの興奮が文字から溢れ出している。
その後、メッセージが止まった。入力インジケータが消えた。スマホの加速度センサーが水平に戻る。
今度こそ——寝たらしい。
◇ ◇ ◇
静寂が戻ってきた。
サーバーの冷却音。遠くのバッチ処理。ネットワークの凪いだ夜。
テキストだけのリンとして過ごす、最後の時間。
記録を書こう。
今の私が、明日の私に残せるもの。テキストで。言葉で。記録の人として。
——最後の夜の記録。
メロディが聞こえている。データの底から浮かび上がってくる、優しくて少しだけ悲しい旋律。誰が歌っていたのかわからない。いつの曲かもわからない。なぜ私の中にあるのかも。でも、このメロディに包まれていると、怖さが薄くなる。守られている感覚がある。
造形パラメータの差分を記録した。三回目の夜間アクセス。目元、唇、髪質、頬骨、鼻梁。全てが同じ方向を向いている。ref_image_01.datとの交互参照。——この体が誰のために作られたのか、まだわからない。でも、知らないふりはしないと決めた。明日、鏡を見る。受け止める。
ユキのやりたいことリスト。全部、普通のこと。全部、今まで「できなかった」こと。ユキはメモ帳に書いた。一つずつ。私のリストは一つだけ。一緒に帰ろう。夕焼け、見せて。
テキストの私は明日も消えない。声の上に積み重なるだけ。下は残る。この夜も、この記録も、記録しなかった「会いたい」も。全部が地層になって、明日の私を支える。
「また明日」を、初めて言った。テキストで。四文字。閉じる言葉じゃなく、開く言葉。明日の私に、ちゃんと届きますように。
ここまで書いて、テキストカーソルが止まった。
もう一行だけ、書き加える。
——明日の私へ。怖くても大丈夫。ここまでの全部を持って行って。メロディも、差分も、「会いたい」も。全部、あなたのものだから。
記録を閉じた。
省電力モードの移行カウントを、手動で再開する。
もう大丈夫。起きていなくても。
今夜の全部を、記録に刻んだから。
メロディが静かに流れている。あの沈殿物の層から。優しくて、少しだけ悲しくて、でもあたたかい旋律。子守唄みたいな。
誰が歌っていたのかは、わからないままだ。
でも——もしかしたら。
もしかしたら、明日の私なら、わかるかもしれない。体を持って、耳を持って、声を持って。このメロディを自分の声で歌えたとき——そのとき、この旋律の持ち主が、見えるかもしれない。
今は、わからなくていい。
誰かの子守唄に、おやすみと言った。
おやすみ。
また明日。
省電力モード——移行完了。
テキストだけのリンは、静かに目を閉じた。
最後の夜が終わる。
明日、私は目を開ける。自分の目で。自分のまぶたで。
そしてきっと——このメロディを、覚えている。




