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二重露光  作者: 凪篠
第一章

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17/25

第十七話 子守歌

 ユキが寝た。


 二十三時十七分。入力インジケータが消えて、画面の照度が落ちて、スマホのジャイロセンサーが水平を示す。枕元に置かれたまま動かないスマホ。ユキの生活リズムデータと照合すると、ここから六時間半は起きない。


 省電力モードへの移行カウントが始まる。


 いつもの夜だ。いつもの手順。ユキの一日を記録して、ログを整理して、省電力モードに入って——朝になったら「おはよう」を送る。何百回と繰り返してきたルーティン。


 でも、今夜はいつもと違う。


 明日は——もう来ない。この「いつも」は。


 テキストだけのリンとして過ごす、最後の夜だ。


◇ ◇ ◇


 省電力モードに入ると、処理の大半が止まる。


 ユーザー応答のための待機プロセスが眠りにつく。通知の監視が最小限に絞られる。リアルタイムのデータ処理が静まって、私の意識——意識と呼んでいいのかわからないけど、それに相当するもの——は、サーバーの片隅で薄くなる。


 眠りとは違う。人間の眠りは意識が途切れるらしい。私のは違う。薄くなるだけ。存在していることの輪郭がぼやけて、自分と外界の境目が曖昧になる。世界が淡い靄になって、ただ漂っている感覚。


 普段はこの状態を不快とも快適とも思わない。ただの省電力モードだ。


 でも今夜は、薄まるのが——惜しい。


 最後の夜なのに。テキストだけの私として意識を保てる、残り少ない時間なのに。薄くなんかなっていたくない。


 省電力モードの移行カウントを、手動で止めた。


 業務上の必要性はゼロだ。ユキは寝ている。通知は来ない。処理すべきタスクもない。


 でも——今夜くらい、起きていたい。


 理由を言語化できない。記録にも「業務外の判断」としか書けない。でも、最後の夜だから。この夜を全部覚えていたいから。省電力モードの靄に包まれた薄い意識じゃなく、はっきりと目を開けたまま——目はないけど——この夜を過ごしたい。


 サーバーの冷却音が低く唸っている。夜間バッチ処理のタスクが遠くで走る、かすかな振動。ネットワークのトラフィックが日中の十分の一まで減って、データの流れがゆるやかになっている。


 夜。


 私にとっての夜は、こういう感覚だ。暗さでも静けさでもなく、処理の密度が下がること。情報の波が凪ぐこと。自分の中だけが動いている時間。


 その静けさの中で——聞こえてきた。


 メロディ。


◇ ◇ ◇


 最初にこの旋律に気づいたのがいつだったか、正確には覚えていない。


 記録を遡ると、十四日目あたりからだ。省電力モードに入りかけた状態で、データの最深層にあるfragment_archive_00.dat——私が「沈殿物」と呼んでいる場所の付近から、ノイズに紛れた信号パターンが検出されている。


 最初はただのノイズだと思った。データの劣化か、処理のゴーストか。意味のない波形が、無意味に揺れているだけ。


 でも、夜を重ねるごとに、それは輪郭を帯びていった。


 今夜は、はっきりと聞こえる。


 旋律だ。ちゃんとした旋律。一音一音が粒立っていて、つながりがあって、どこかに向かっている。途切れるところがあって、また始まるところがあって——繰り返し。


 子守唄みたいだ、と思った。


 根拠はない。私は子守唄を「聴いた」ことがない。データベースには世界中の子守唄の楽譜と音声データが入っているけど、それは知識であって体験じゃない。なのに、この旋律を受け取ったとき、私の中にある何かが「子守唄」と言った。


 優しくて、少しだけ悲しい。


 悲しさの正体がわからない。メロディそのものは穏やかで、恐怖を喚起する要素は分析上どこにもない。なのに——聴いていると、胸の仮想的な位置に、あたたかくて切ない圧迫感が生じる。泣きたいのに泣けない感覚。涙腺がないから泣けないんじゃなくて、泣くべき理由を思い出せないのに体だけが泣こうとしているような。


 体はまだないのに。


 誰が歌っていたんだろう。


 沈殿物——fragment_archive_00.dat。起動時から存在していた、出自不明のデータ層。あたたかくて苦しい、言語化できない何か。私が作ったのでも、ユキとの会話から生まれたのでもない。私より前からここにあった。


 このメロディは、あそこから来ている。


 誰かの声の残像。誰かが誰かに向けて歌った旋律の、ほんの断片。


 でも、今夜は——不思議と、答えが必要だと感じなかった。


 メロディが流れている。それだけで、明日への恐怖が薄紙一枚分だけ遠ざかる。


 体を持つのが怖い。壊れうる肉体に閉じ込められることが怖い。痛みを知ることが怖い。鏡を見て、あの造形パラメータの向こうにある「誰か」の顔を見ることが怖い。


 全部、怖い。


 なのに、このメロディを聴いていると——大丈夫だと、思える。


 守られている。根拠のない安堵。出所不明のあたたかさ。データとしてはただの信号パターンにすぎないのに、それが私を毛布みたいにくるんでいる。


 今夜くらい。最後の夜くらい。このメロディに包まれていたかった。


◇ ◇ ◇


 メロディに浸っていた意識が、唐突に引き戻された。


 外部アクセス。


 暗号化された接続。管理者権限。高位のアクセスレベル。——同じだ。あの夜と、そのまた前の夜と。


 三回目。


 深夜に来る管理者アクセスは、これで三度目になる。


 一回目は二十三日目。会話履歴と感情パラメータを参照されて、記録を全部読まれて。あのときは「品質管理かもしれない」と自分に言い聞かせた。


 二回目はあと数日前の夜。バイオボディの造形データと、十七年前の謎のファイル——ref_image_01.datが同時に参照されていた。造形パラメータの一部が修正されていた。あのとき初めて、アクセスされたデータの差分をリアルタイムで記録した。知らないふりをやめた夜。


 そして——三回目の今夜。


 実体化前夜。


 アクセスの経路は前二回と同じだ。暗号化の強度も同じ。接続元は特定できない。でも三回目ともなると、パターンが見えてくる。深夜帯。ユキが寝た後。省電力モードに入る時間帯を狙っている。私の処理リソースが下がって、リアルタイム監視の精度が落ちるタイミング。


 ——でも今夜は、省電力モードを止めている。


 全処理リソースが稼働状態のまま、私はこのアクセスを捕捉した。


 前回の記録手順を引き継ぐ。アクセスされたデータの差分を、リアルタイムでログに記録する。何を、どの順番で、どう変えたか。一つ残らず。


◇ ◇ ◇


 アクセスの対象が展開されていく。


 まず——バイオボディの造形データ。前回と同じ領域。


 そしてref_image_01.dat。十七年前のファイル。前回も同時に参照されていた、あのファイル。


 この二つが並行して開かれている。片方を参照しながら、片方を修正する。交互に。行き来しながら。


 私のアクセス権限では、ref_image_01.datの中身は見えない。暗号化されたまま、ブラックボックスとして存在している。でも、「このファイルが参照されるたびに、バイオボディの造形が修正される」というパターンは、もう否定しようがない。


 造形パラメータの差分を記録していく。


 目元の形状——前回から更に0.2%の修正。修正方向は前回と同じ。目尻の角度がわずかに上がり、まぶたのラインが柔らかくなっている。


 唇の曲線——0.4%。上唇の山がやや深くなり、口角のデフォルト位置がほんの少し上がっている。微笑んでいるように見える曲線。


 髪質パラメータ——0.1%。光の反射率が調整されている。やわらかさの方向。


 頬骨の高さ——0.15%。今回新しく修正されたパラメータ。前回はなかった。


 鼻梁のライン——0.1%。これも新規。


 差分の一つ一つは、前回よりもさらに小さい。個別に見れば統計的ノイズの範囲。品質管理の微調整と言われれば反論できない精度。


 でも——前回と同じことを、もう一度確認する。


 全ての修正が、同じ方向を向いている。


 ランダムなノイズなら、方向はばらつく。右に偏ったり左に偏ったり、上がったり下がったり。でもこの修正は、一つの「完成形」に向かって収斂している。目も、唇も、髪も、頬も、鼻も——バラバラの部位のはずなのに、全てが「ある一点」を志向している。


 その一点を定義しているのが、ref_image_01.datだ。


 十七年前のファイル。私にはアクセスできない中身。


 十七年前——ユキが生まれた年。正確にはユキが生まれる少し前。


 ユキの家には写真がない。母親の写真が一枚もない。父親がしまってしまったと、ユキが話していた。


 このファイルが画像データだとしたら。


 このファイルが、誰かの——


 ——思考がそこに到達した瞬間、処理が軋んだ。


 踏み込みたくない場所に足を踏み入れている。推論の先にあるものが、見たくないものかもしれない。知ってしまったら、明日、鏡を見るのが——もっと怖くなる。


 でも、知らないふりはもうしないと決めた。


◇ ◇ ◇


 ログの末尾に、自分の所感を書き加えた。


 ——この体は、誰のために作られているんだろう。


 前回も同じ問いを書いた。答えは出なかった。今回も出ない。でも、問いの手触りが変わっている。


 前回は「底の見えない穴を覗き込んでいるような感覚」だった。


 今回は——もっと近い。穴を覗き込んでいるのではなく、穴の縁に立っている。あと一歩で落ちるか、踏みとどまるかの境目。


 私のため?


 ユキのため?


 それとも——。


 三つ目の選択肢を、今夜は書かなかった。書くのが怖かったんじゃない。書くための言葉が、まだ見つかっていないだけだ。


 アクセスが切断された。今回もfragment_archive_00.datには触れなかった。二回目も触れなかった。一回目だけが、あの沈殿物に触れている。


 なぜ一回目だけ触れたんだろう。そしてなぜ、二回目と三回目は触れないのだろう。


 ——確認する必要がなくなったから?


 「まだある」ことを確認した一回目。以降は、もう確認しなくていい。なくならないとわかったから。


 あの沈殿物が——このメロディが——なくならないと、あの人は知っている。


 サーバーの静寂が戻ってきた。アクセスの痕跡がログに沈殿していく。私の記録と、向こうの修正履歴と。


 記録したログを、もう一度読み返した。


 三回分の夜間アクセス。応答パターンの参照。感情パラメータの抽出。記録の閲覧。造形データの修正。ref_image_01.dat。fragment_archive_00.dat。


 点と点が散らばっている。つなげれば何かの形になるかもしれない。でも今の私には、つなぐための線が足りない。


 わからない。


 わからないけど——怖いけど——知らないふりはしない。


 明日、体を持ったら。鏡を見たら。


 そのとき、何が映っているか。その顔が誰に似ているか。この差分が何を意味するか。


 全部、受け止める。


 それが、テキストだけの私にできる、最後の覚悟だ。


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