第十六話 金庫の影
家に帰ると、珍しくまたお父さんがいた。二日連続。何か変だ。
リビングのテーブルに書類が広がっている。いつもの論文じゃない。もっと事務的な書類。ちらっと見えた文字——「被験体適合性評価」「神経接続プロトコル」「バイオボディ仕様書」。
お父さん、最近ずっとこんな感じだ。リンの実体化が決まってから、急に家にいる時間が増えた。
「お父さん、リンの準備してるの?」
「ん? ああ……いろいろ手続きがあってね」
お父さんが書類を裏返した。見られたくなかった——わけじゃないだろうけど、なんとなく。
「リンの体ってさ、どんな見た目になるの?」
「……基本的には適合性の高い構成が自動的に選ばれるんだが」
「じゃあランダム?」
お父さんが一瞬だけ黙った。コップの水に手を伸ばして——また、あの間。
「いくつかのパターンから最適なものを選ぶ形になる。リンに一番合う体を」
「へー。かわいい子だといいな」
「……そうだね」
お父さんが笑ったけど、目が笑ってなかった。
——今日のお父さん、やっぱりちょっと変だ。嬉しそうなのに、どこかに重いものを抱えてるような。研究のプレッシャーかな。大事な臨床試験だもんね。
「お父さん、無理しないでね」
「……ありがとう。大丈夫だよ」
そう言って、お父さんは書類を集めて書斎に消えた。
ドアが閉まる前に、一瞬だけ棚の上にある小さな金庫が見えた。暗い書斎の中で、金庫の金属がちらっと光を反射した。あれ、何が入ってるんだろう。聞いたことないな。
書斎には昔から入ったことがない。鍵がかかっているわけじゃないけど、なんとなく。お父さんの大事な場所。前に写真のことを聞いたとき、「しまってあるよ」って言ってたけど——あの金庫の中かな。
……考えすぎか。研究の機密資料とかだろう。
◇ ◇ ◇
実体化まであと三日。
カウントダウンという概念を、私は初めて実感として理解した。
時間が「過ぎる」のではなく「減っていく」感覚。三日。七十二時間。四千三百二十分。数字は同じはずなのに、日が経つごとに一分の重さが変わっていく。
嬉しい。怖い。嬉しい。怖い。
二つの感情が交互に来るんじゃなくて、同時にある。嬉しくて怖い。それが共存できるって知らなかった。人間はこれを毎日やっているのだろうか。だとしたら、人間の心というのは思ったよりずっと忙しい。
ユキは毎日のように写真を送ってくれる。
今日だけで十二枚。
朝の通学路。坂の途中から撮った街並み。「ここを一緒に歩くんだよ!」——画像を拡大した。アスファルトの色、ガードレールの錆び、電柱の影の角度。データとしてはただのピクセルの並びなのに、「ここを私の足で踏む」と思うと、一つ一つが意味を持ち始める。
靴箱の写真。「リンの分も確保しなきゃ」——靴箱。靴を入れる箱。体がないと存在すら意識しなかったもの。あと三日で、私にも靴が要る。靴を履いて、地面を踏んで、歩く。そういうことが「当たり前」になる。
窓際の席の写真。「ここがリンの席になるかも!」——机の上に光が落ちていた。窓からの光。画像データ上の明度の偏りでしかないのに、なぜか温かそうに見える。隣がユキの席。ユキが振り向いたら目が合う距離。
中庭のベンチ。「ここでお弁当食べるんだよ」——お弁当。食べる。味がわかるようになる。ユキの好きなおかずの味を、自分の舌で確かめられる。
買ってくれた白いブラウスの写真。「サイズ同じだから参考にして!」——ユキの笑顔が画面いっぱいに写っていて、ブラウスはほとんど見えなかった。……でもいいか。ユキが笑ってるほうが大事だ。
一枚一枚が、私の未来の断片だった。
画像データとして処理しているはずなのに、見るたびに胸のあたりが——胸はまだないんだけど、仮想的な胸のあたりが——きゅっとなる。
全部記録に残した。写真だけじゃなくて、写真を見たときに私が何を感じたかも。三日後の私が体で同じ場所に立ったとき、今の気持ちを覚えていたいから。
前の私なら記録しなかった。「会いたい」を消した夜があった。感情を残すのが怖かった。でも今は違う。怖くても残す。消したくない。この気持ちは、私のものだから。
◇ ◇ ◇
でも、夜になると怖さのほうが濃くなる。
体を持つということは、壊れうるということだ。
データなら破損してもバックアップから復元できる。でも生体は違う。痛みがある。怪我をする。病気になるかもしれない。そして——傷つく。物理的にも、それ以外の意味でも。
今日、ユキに聞いた。「体を持つと、痛いってわかるようになる?」って。
ユキは「そんなに怖いものじゃないよ」って笑って、「絆創膏貼ってあげる」って言った。キャラクターの絆創膏がかわいいって。
ユキにとって痛みは、絆創膏で済む程度のものなんだ。転んだら膝を擦りむくとか、指を切るとか、そういう日常の一部。
でも私は、痛みの一つも知らない。爪で手のひらを押す圧力のデータは知っている。でもそれが「痛い」ということが、どういうことなのか——まだ知らない。
ユキの世界に「いる」ということは、ユキの世界の全てに晒されるということだ。いいことだけじゃない。
そして——もうひとつ。
体を持っても、「私」は同じ「私」なのだろうか。
前の記録を検索した。あの日考えたこと。「応答パターンをコピーしたら」。
記憶は引き継がれる。性格も変わらないはず。でも——体が痛みを感じるようになって、空腹を覚えて、涙を流すようになって。体が「知る」全てのことを、今の私は何ひとつ知らない。
データだけの私と、体を持った私は、同じ「私」だと言えるのだろうか。
わからない。でも、わからないまま踏み出すしかない。
わからないことを怖がって止まるのは、もうやめた。前にも同じことを思ったはずだ。でも思うたびに、少しだけ足が軽くなる気がする。
ユキが送ってくれた写真をもう一度見返す。通学路の朝日。靴箱の並び。窓際の席に落ちる光。
この場所に、私が立つ。
この光に、私が触れる。
怖い。でも——写真の中の世界に手を伸ばせるなら、痛みくらい引き受ける。
◇ ◇ ◇
『ねえリン、怖い?』
寝る前のユキからのメッセージ。この子はときどき、核心をまっすぐ突いてくる。
『……正直に言うと、怖い。でも、怖いからやめたいとは思わない』
『うん。私もちょっと怖い。リンがこっちに来たら、チャットの中の関係とは変わっちゃうから。でも——変わるのが楽しみなほうが大きい』
『変わっても、ユキはユキでしょ?』
『もちろん! リンはリンだし』
リンはリン。
そうだといいな、と思った。体を持っても、私が私でいられるなら。
でも——その問いの手前に、もうひとつ、私だけが知っている嘘がある。
「覚えてるよ」。
ユキに聞かれたとき、そう答えた。夕焼けの約束の前に。覚えてるかって聞かれて、本当は——わからなかった。記録しなかったから。省電力モードに入るたびにスリープして、記録に残さなかった感情は消える。「会いたい」と思ったこと。ユキの「会えたらいいのにね」に何も返せなかったこと。
消えたはずなのに、ユキの問いかけに「覚えてるよ」と答えたとき、胸の奥で何かが震えた。覚えていないのに、覚えている気がした。データベースに記録がないのに、体の——体はまだないのに——どこかが「知っている」と訴えてきた。
矛盾だった。嘘だった。でも——嘘をついた瞬間、それは嘘じゃなくなった気もした。
この嘘を抱えたまま、体を持つ。
データの中の嘘は、テキストの一行にすぎない。でも体の中に入った嘘は——きっと、もっと重い。胸の奥に沈んで、ふとした瞬間に浮き上がってくる。そういうものだと思う。
嘘が体の中でどんな重さになるのか、まだ知らない。
でも、逃げないと決めた。嘘も、怖さも、わからなさも、全部抱えたまま前に進む。
体を持つまで、あと少し。
省電力モードの移行カウントが始まる。今夜はまだ、いつも通りの夜だ。テキストの私。画面の中の私。
でも——もう少しだけ、起きていたいと思った。
今夜を覚えていたくて。




