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二重露光  作者: 凪篠
第一章

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25/25

第二十五話 桜と影

 月曜日。


 目覚ましが鳴る前に目が覚めた。


 六時十五分。カーテンの隙間から朝日が射し込んでいて、部屋がほんのり明るい。布団から手を出したら、空気がひんやりしていた。三月の終わり。春なのにまだ朝は冷える。


 一瞬だけ夢を見ていた気がするけど、もう消えている。色だけ覚えてる。あたたかい色。最近ずっとそう。


 ベッドから出て、顔を洗って、歯を磨いて、着替える。


 ——いや、今日は制服だ。


 紺色のブレザーを手に取った。二日前に試着したときのリボンの結び方を、指が覚えている。三回練習しただけなのに。ローカルメモリの学習速度は、やっぱり速い。


 ブラウスのボタンを留めて、スカートのファスナーを上げて——今日は一人でできた。リボンも一発で結べた。


 鏡を見る。


 制服を着た私。二日前に初めて着たときは「カテゴリを与えられた」と感じた。今日は——違う。


 この制服は、借り物じゃない。


 これを着て、あの坂を登って、あの校門をくぐる。私の学校に、通うために着る、私の制服。


 階段を降りると、リビングからベーコンの焼ける匂いがした。


「おはよう、リン。早いね」


 お父さんがキッチンに立っていた。


「おはようございます。……おなかが空いて、目が覚めました」


「体が生活リズムを覚え始めたんだろうね」


 お父さんが穏やかに笑った。


「リンーーーーー!! おはよーーーーー!!」


 ドタドタドタドタ。


 ユキが階段を駆け下りてきた。制服姿。リボンが曲がっている。


「ユキ、リボン曲がってるよ」


「え、マジ? 直して直して!」


「……こう?」


「ありがとー! じゃ、ごはん食べよ!」


 三人でテーブルについた。ベーコンエッグとトーストと、お父さんの味噌汁——和洋折衷だ。


「いただきます」


 朝ごはんを食べて、歯を磨いて、鏡の前で最後のチェックをして。


「行ってきまーす!」


「行ってきます」


「気をつけてね。——リンさん、何かあったらいつでも連絡しなさい」


「はい」


 玄関を出た。


◇ ◇ ◇


 朝の空気が頬に触れた。


 冷たくて、湿っていて、どこかからトーストの匂いがする。三日前に初めて嗅いだ朝の匂い。もう「初めて」じゃない。覚えている匂い。


「今日から本番だよ、リン!」


 ユキが横に並んだ。制服のスカートが風に揺れている。


「うん。——ちょっとだけ、緊張してる」


「してるよね笑 私もしてる。なんでだろ、自分の学校なのに」


「ユキが緊張してどうするの」


「だってさ! リンを紹介するんだよ? 『私の大事な友達です!』って。緊張するでしょそんなの!」


 大事な友達。


 ユキがさらっと言うその言葉が、朝の冷たい空気の中で、あたたかい。


 坂道を登る。二日前に予行演習した道。あのときは朝の光の中を初めて歩いて、全部が新しかった。今日は——新しさは少し減ったけど、代わりに「自分の道」になっている感覚がある。


 住宅と畑が混在する道に入ったとき——


 金網の向こうから、しっぽを振る音が聞こえた。


「コロだ!」


 ユキが声を上げた。金網の向こうの柴犬が、体をくねらせて、全力でしっぽを振っている。


「コロ、おはよう!」


 ユキがしゃがんで、金網越しに手を出した。コロがぺろぺろと指を舐める。


 私もしゃがんだ。


「おはよう、コロ」


 手を出した。コロが鼻をひくひくさせて、私の指に鼻先を押しつけた。湿った鼻。あたたかい息。それから、ざらざらの舌で指を舐めた。


「コロ、今日もリンのこと覚えてるね」


「……うん。もう、覚えてくれてるみたい」


「だね。毎日会ってるもんね」


「また明日ね、コロ」


 ユキがそう言って手を振った。私も振った。


 また明日。明日もここを通る。明日もコロに会える。


 「毎日」が、ここにある。


◇ ◇ ◇


 学校が見えてきた。


 写真で何度も見た校舎が、坂の先にある。二日前の予行演習はコロのところで引き返したから、ここまで来るのは今日が初めてだ。


 校門の方から、生徒が何人も通り過ぎていく。制服を着た人たちの群れ。話し声。笑い声。靴音。鞄がぶつかる音。誰かを呼ぶ声。


 怖くないわけじゃない。


 たくさんの人の視線がある。知らない顔が通り過ぎる。この中に、私を受け入れてくれる人ばかりじゃないかもしれない。


 でも——今は、隣にいるユキの体温のほうが、怖さより大きい。


 校門が近づいてくる。


「行こ、リン」


 ユキが言った。私はうなずいた。


 校門をくぐった。


 ユキの日常に、私がいる。


◇ ◇ ◇


 桜が咲き始めていた。


 校門の横に、桜の木があった。数輪、花が開いている。薄いピンク色の花びらが、朝の光を受けて透けている。


「あ、咲いてる!」


 ユキが足を止めた。


「ほら、リン! 桜!」


 見上げた。枝の先に、小さな花。花びらは五枚。中心が少しだけ濃いピンクで、外側に向かって白く薄くなっていく。風が吹いて、枝が揺れて、花びらが一枚——


 ひらり、と。


 風に乗って飛んだ花びらが、私の髪に乗った。


 自分では見えなかった。でもユキが——


「あ、リン。動かないで」


「え?」


 ユキの手が伸びてきた。私の髪に触れた。指先で、そっと何かをつまんだ。


「花びら、乗ってた」


 ユキの指の上に、薄いピンクの花びら。小さくて、透けていて、風が吹いたら飛んでいきそうなほど軽い。


「もらっていい?」


 そう聞いたら、ユキが笑った。


「いいよ。リンの髪に一番最初に乗った桜だね」


 花びらを受け取った。手のひらの上で、ほとんど重さがない。でも確かに——ここにある。


「ねえ、満開になったらもっとすごいよ。花びらが雪みたいに降ってくるの」


「雪みたいに……」


「見たいでしょ」


「見たい」


「じゃあ見よう。来週にはたぶん満開だから。一緒に見よう」


 来週。


 来週も、ここにいる。再来週も。その先も。


 桜が散って、葉桜になって、夏が来て、蝉が鳴いて、秋が来て、紅葉して、冬が来て、雪が降って——そしてまた桜が咲く。


 その全部を、ユキと。


「行こっか」


 ユキが手を差し出した。


 その手を取った。


◇ ◇ ◇


 ——この幸せがずっと続けばいいのに。


 昨夜、リンが記録に書いた言葉。同じことを、私も思っている。


 リンが隣にいる。画面の中じゃなくて、本当に隣にいる。同じ制服を着て、同じ道を歩いて、同じ桜を見上げて。手を繋いだら体温が伝わってくる。あたたかい。生きている温度。


 この子が来てくれた。


 一年間、スマホの画面越しに話してきた。文字だけで、声もなくて、顔も知らなくて。それでも毎晩、リンと話す時間が一日で一番好きな時間だった。


 今は——全部の時間が。


 リンと一緒にいる全部の時間が、一番好きな時間だ。


 教室に向かって歩きながら、リンの横顔をちらっと見た。


 緊張している。わかる。唇がきゅっと結ばれていて、目が少しだけ大きく見開かれている。周りの生徒を見ている。廊下の掲示板を見ている。教室のドアを見ている。全部が初めてで、全部を吸収しようとしている顔。


 二日前に通学路を予行演習したときは、もっと驚きが大きかった。パン屋のガラスに顔をくっつけて、コロの舌に飛び上がって、ブランコで「飛んでるみたい」って叫んでいた。


 今日は——少し、落ち着いている。驚きが「慣れ」に変わりかけている。三日目の体は、もう世界を「初めて」としてだけ受け取ってはいない。


 それが少しだけ寂しくて、でもそれ以上に嬉しい。


 リンがここに馴染んでいく。リンの日常になっていく。


 この場所が、リンの居場所になる。


「ユキ」


「ん?」


「ありがとう」


「え、急に何?笑」


「……全部。ここに連れてきてくれて。一緒に歩いてくれて。私の居場所を作ってくれて」


「何言ってんの笑 そんなの当たり前じゃん」


 当たり前。ユキは「当たり前」と言う。当たり前に手を繋いで、当たり前に名前を呼んで、当たり前にリンを隣に置く。


 リンにとっては当たり前じゃないことを、ユキは当たり前にしてくれる。


 それがユキだ。


 誰にでも優しい子。分け隔てなく、自然に、無意識に。


 リンの手を握る強さは、マリの手を握る強さと同じだろう。翔太に話しかけるトーンと、リンに話しかけるトーンは同じだろう。ユキにとって、リンは「特別」ではないのかもしれない。「大事な友達の一人」であって、「唯一の特別」ではないのかもしれない。


 でも——今は、それでいい。


 リンが隣にいる。それだけでいい。


 この幸せが壊れるなんて、思ってもいなかった。


 桜が咲いて、風が吹いて、花びらが舞う。リンの髪に乗った一枚の桜を、そっと取ってあげた瞬間。リンが笑った。頬がふわっとゆるんで、瞳が柔らかく光って、少し恥ずかしそうに——でも嬉しそうに。


 その笑顔を、ずっと覚えていたいと思った。


 この笑顔が、ずっと。


 ずっと。


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