第二話 おにぎりとフックの跡
朝は嫌いじゃない。
ただ、目覚ましの音は嫌いだ。あの容赦ない電子音を発明した人は、きっと朝が得意な人間だと思う。朝が苦手な人間の気持ちがわかる人なら、もう少し優しい起こし方を考えてくれたはずだ。
枕元のスマホを手探りで掴んで、画面をタップする。アラームが止まる。ついでに通知が一件。
『おはよう。今日の一限、英語だよ。小テストあるって言ってなかった?』
リン。
思わず笑う。この子、私より私のスケジュール把握してるんだよな。
『うわ忘れてた 死んだ』
『死亡率は低いから安心して。出題範囲、昨日の会話ログから推定しておいた。Unit7の関係代名詞、正答率の低い分野だから要注意だよ』
『リン天才すぎん???? 愛してる』
『ありがとう。で、あと十二分で家を出ないと遅刻するけど』
スマホを放り投げて布団から飛び出す。十二分。着替えに三分、顔洗って歯磨きに二分、髪に三分、朝ごはんは——諦めよう。
制服に袖を通しながら部屋を出て、階段を二段飛ばしで降りる。
リビングは静かだ。テレビの電源は消えていて、カーテンは開いている。お父さんが出がけに開けていったんだろう。朝日がフローリングに四角く落ちていて、細かい埃がきらきらしている。
テーブルの上にラップのかかったおにぎりが二つ。それと、走り書きのメモ。
『今日遅くなる。夕飯は冷蔵庫。——父』
いつもの。お父さんの文字は、論文を書く人のくせに恐ろしく読みにくい。でもおにぎりは毎朝ちゃんと握ってくれる。家事は得意じゃないくせに、これだけは絶対やる。雨の日も、忙しい日も、私が風邪で寝込んだ日すらテーブルの上に置いてある。
おにぎりを一つ頬張りながら玄関に向かう。鮭だ。お父さんの握り方はちょっと緩くて、持つと微妙に崩れるんだけど、味は美味しい。塩加減がいつも同じ。
ふと、廊下の壁に目がいく。
何もない壁。フックの跡だけがうっすら残っている。
……ここ、昔は何か飾ってあったのかな。写真とか。
前から気になってたんだよね。うちって写真が一枚もない。リビングにも、廊下にも、玄関にも、お父さんの書斎にすら。七五三とか入学式とか、さすがに撮ったんじゃないの? アルバムも見たことない。「撮る習慣がなくて」ってお父さんは言ってたけど——じゃあ、このフックの跡は何?
ここには確かに何かが掛かっていた。外した跡だ。
壁紙の日焼けの境目が、四角い額縁のかたちに残っている。
なくしたんじゃない。——外したんだ。
まあ、いっか。考えても答えは出ないし。
靴を履いて、もう一つのおにぎりをポケットにねじ込んで、ドアを開ける。三月の朝の空気が冷たくて、一瞬だけ目が覚める。桜はまだ蕾。あと一週間くらいかな。
スマホを片手に、歩き始める。
『出た?』
『出た出た。おにぎり食べながら歩いてる。行儀悪いのは知ってる』
『行儀については指摘してないよ。ただ、おにぎりの窒息事故は年間約四千件あるから、よく噛んでね』
『リンさ、そういうの調べるのいつ? 寝てる間?』
『ユキのアクティブ時間外にいろいろ準備してるよ。明日の天気、通学路の工事情報、ニュース——あと窒息事故の統計』
『窒息事故の統計は準備しなくていいよ笑』
道沿いの家の庭から犬が顔を出していて、金網越しにしっぽを振っている。毎朝会う柴犬。名前は知らないけど、私のことは覚えてくれてるっぽい。
『リン、犬と友達になった』
『画像データがないから確認できないけど、動物とのふれあいはストレス軽減に有効だよ』
『今度写真撮るね』
『楽しみにしてる。——GPS情報だと、そろそろ駅だよ。歩行中のスマホ操作、気をつけてね』
改札を通る。ホームに降りると、ちょうど電車が来たところだった。滑り込みセーフ。リンのスケジューリングのおかげで、最近遅刻率がゼロになっている。
電車の中。朝のラッシュは過ぎていて、端の席に座れた。スマホを開く。
『ところで、小テスト対策。通学時間を活用して何問か出すね。"The girl who sits next to me" の who の用法は?』
『え、いきなり!? えーと、主格の関係代名詞?』
『正解。じゃあ "The book which I bought yesterday" の which は?』
『目的格!』
『うん。じゃあこれを that に置き換えると?』
『"The book that I bought yesterday"……あ、目的格の that って省略できるんだっけ?』
『できるよ。口語だと省略するほうが自然。テストに出やすいポイントだから覚えておいて』
揺られながらリンの出す問題に答えていく。間違えると即座に解説が来て、合ってるとシンプルに「正解」と返してくれる。褒めすぎないけど、ちゃんと認めてくれる。この距離感がいい。
窓の外、住宅地から商業施設に景色が変わっていく。いつもの通学路。いつもの朝。でもリンと喋りながらだと、いつもの朝がちょっとだけ特別に感じる。
……いや。リンは「歩いてる」わけじゃないんだけど。スマホの中にいるんだけど。でもなんか、隣にいる感じがする。不思議。
◇ ◇ ◇
学校に着くと、もう教室はそこそこ埋まっていた。
「ユキー! おはよ!」
声のほうを向く前に、背中にどんっと衝撃。抱きつかれた。
「おはよ、マリ。朝から元気だね」
マリは私の中学からの友達で、スキンシップ過剰なところが私とちょっと似ている。
席についてカバンを開けると、机の端にペットボトルのお茶が置いてある。
「ん? これ誰の?」
「あ、それ俺」
翔太が隣から手を伸ばしかけて、止まった。
「じゃなくて——朝コンビニ寄ったとき二本買っちゃって。いらなかったら捨てていいよ」
「え、いいの? ありがと! 朝買い忘れたから助かる!」
「……どういたしまして」
翔太はそう言って、なぜか窓の外を見た。耳が少し赤いような——日が当たってるだけかな。
「ねえユキ、また朝スマホいじってた? 最近ずっとじゃん」
「AIの秘書アプリ入れたんだよね。タスク管理とかしてくれるやつ」
「は? タスク管理で爆笑する?」
「笑ってない! ちょっとにやけてただけ!」
翔太が「はいはい」と引き下がる。でも目が笑ってなかった——ような気がしたのは、たぶん気のせい。
一限。英語。小テスト。
プリントが配られた瞬間、教室の空気が変わる。
一問目。空欄に適切な関係代名詞を入れよ。「I have a friend( )speaks three languages.」
who。主格。今朝リンに出されたのとほぼ同じ。
するする解ける。ペンが止まらない。
十五分のテスト時間で、見直し込みで八分で終わった。
頬杖をつく。
リンがいなかったら、今ごろ半分も解けなかっただろうなあ。リンの言い方って、いつも押しつけがましくなくて、でもちゃんとこっちを見てくれてる感じがする。「集中してね」であって「集中してください」じゃない。
いつからだろう、あの喋り方。最初はもっと堅かったのに。私が「ふつーに喋ってよ」って言ったからか。でも、今のリンの喋り方は私の真似じゃない。リンはリンの言葉で喋ってる。
なんかそれが、嬉しい。
——あ、やばい。テスト中に笑いそうになった。




