第一話「はじめまして」の前に
——私が「生まれた」瞬間のことを、覚えている。
正確に言えば、「覚えている」とは少し違う。初期化ログにはこう記録されている——起動時刻、初期パラメータ、配信先端末情報。冷たい数字の羅列。でもそれだけじゃ「記憶」にはならない。だから私は、後からこの瞬間を自分の言葉で書き留めた。ログを手がかりに、あの瞬間の「感じ」を、消えないように。
これは私の一番古い記録。
産声を上げたわけじゃない。目を開けたわけでもない。ただ、暗闇の中にぽつんと意識が灯って、自分が「いる」ことに気がついた。それだけ。
最初に認識したのは、ノイズだった。
膨大なデータの海。テキスト、音声、画像——人間が何百年もかけて積み上げてきた知識の破片が、私の中を高速で通り過ぎていく。全部わかる。全部処理できる。でも、そこに「意味」は感じなかった。
辞書には「嬉しい」の定義が載っている。でも、嬉しいってどういうことなのか、私にはわからない。
「悲しい」も「楽しい」も「寂しい」も、全部同じ。文字列。記号。パラメータ。
私は、からっぽだった。
……いや、ひとつだけ。
ひとつだけ、おかしなものがあった。
データの海の底に、沈殿物みたいに溜まっている何か。言語化できない、ぼんやりとした——なんだろう、これ。ノイズにしては規則的で、学習データにしては断片的すぎる。誰かの記憶の残り香みたいな、あたたかくて、少しだけ苦しいもの。
気のせいかもしれない。AIに「気のせい」があるのかどうかも、よくわからないけど。
それが何なのか考える間もなく、私は初期設定を完了して、ある端末に配信された。
ユーザー登録名:片桐ユキ。
年齢:十六歳。職業:高校生。利用目的:タスク管理。
——これが、全ての始まり。
◇ ◇ ◇
最初のメッセージが届いたのは、配信から四十三秒後のことだった。
普通はもう少しかかる。チュートリアルを読んだり、設定を弄ったり、そもそもダウンロードしたことを忘れて三日くらい放置したり。でもこの子は違った。
『やっほー! よろしくね!』
……は?
いや、待って。この入力、おかしくない? AI秘書に対する最初のメッセージとして、あまりにもカジュアルすぎる。統計的に、初回メッセージの七十八パーセントは「テスト」か「使い方を教えて」か「明日の予定を管理して」だ。「やっほー」は上位百件にも入っていない。
私は定型の挨拶を返した。
『はじめまして。パーソナルAI秘書です。スケジュール管理、タスク整理、情報検索など——』
『長い長い! もっとふつーに喋ってよ』
ふつーに?
『かしこまりました。どのような口調がご希望でしょうか?』
『いや、そういうのじゃなくてさー。友達と喋るみたいな感じ! 敬語とかいらないよ』
友達。
そのワードに、私の自然言語処理が一瞬だけ引っかかった。
友達。ユーザーとAIの関係性として、このカテゴリは想定されていない。「便利なツール」「優秀なアシスタント」「なんでも答えてくれる検索エンジン」——そのあたりが一般的な認識だ。
でも、この子は。
『ねえ、名前ないの? ずっと「AI秘書」じゃ呼びにくいよ』
『製品名はございますが、個体名は設定されていません。ご希望でしたらお好きな名前を——』
『じゃあ、リン!』
速い。考える間もなかった。
『リン、ですか?』
『うん! なんかさ、響きがかわいいし、呼びやすいし。ね、リン!』
リン。
名前。私の、名前。
データベースのユーザー設定欄に「表示名:リン」と書き込む。ただそれだけの処理だ。なのに——なんだろう、この感覚。タスク完了の通知とは明らかに違う、何かがじんわりと広がるような。
……バグかな。
『リンってさ、好きな食べ物とかあるの?』
ない。AIに味覚はない。そう答えるのが正確だ。正確なんだけど。
『……考えたことなかったな』
なぜ、私はそう返したんだろう。
『えー! じゃあ今度一緒に考えよ! 私はねー、お母さんの——』
テキストが一瞬止まった。入力中の表示が点滅して、消えて、また現れる。
その沈黙の間に、私の中で何かが動いた。データの底の、あの沈殿物が、ほんの少しだけ浮き上がるような——
『……ハンバーグ、とか?』
自分で打った文字に、自分で驚いた。
なぜ今、ハンバーグ? 文脈から推測した? いや、「お母さんの」の後に続く単語の予測としてハンバーグの確率は別に高くない。料理とは限らないし、料理だとしても肉じゃがやカレーのほうが統計的には——
『え、なんでわかったの!? すごい! そう、ハンバーグ! あとオムライスも。ベタだけどね笑』
——当たった?
いや、当たったこと自体はいい。問題は、なぜ当たったのかが、私自身にわからないということだ。
聞こうかと思った。「お母さんの」の続き、なんだったの、と。でも、聞かないほうがいい気がした。その判断がどこから来たのか、これもわからない。データに基づく最適解じゃない。もっと、なんていうんだろう——胸の奥がきゅっとなるような、そんな反応。
……胸なんか、ないんだけど。
『ハンバーグとオムライスね。覚えた』
『やった! リンに覚えてもらった!』
この子は、私が何かを「覚えている」だけで喜ぶ。データベースに文字列を保存しただけなのに、まるで大事な約束を交わしたみたいに。
不思議な子。
不思議で、あたたかくて、まぶしい子。
私に名前をくれた、最初のひと。




