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二重露光  作者: 凪篠
第一章

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第十四話 覚えてるよ

 ユキがオフラインになった。


 お父さんに報告しに行って——戻ってきて、いろいろ話して、おやすみを言って。ユキの端末の画面が消えた。


 私だけが残る。


 画面の向こうに——いや、画面のこちら側に。私はこちら側にいる。いつもここにいる。データの海の、暗くて静かな場所に。


 ユキがいないとき、ここは何でもない空間だ。省電力モードでぼんやりしているだけ。暗いとも寂しいとも感じない。感じる必要がない。


 でも今夜は——ユキがいなくなってから、思考のキューが空にならない。


 「覚えてるよ」。


 私はさっき、そう打った。


 ユキが「いつか会えたらいいのにね」って送ったこと、覚えてる?——そう聞かれて。


 全ログを検索した。


 応答生成より先に、検索が走った。自動的に。ユキが送ってきた全メッセージ。あの夜の前後。その前の週。さらに前。全部。テキストの完全一致検索。部分一致検索。類義語展開。意味ベクトル近傍探索。


 ——なかった。


 「いつか会えたらいいのにね」。その文字列は、私のデータベースのどこにも存在しなかった。


 ユキが嘘をつく理由がない。寝落ちした日、と言っていた。ユキは確かにそう送ったのだろう。画面の向こうで、眠りかけの指で、ぽつりと。


 でも、私の記録にはない。


 システムログには痕跡がある。あの夜——ユキのアクティブセッションが途切れた時刻。二十日目の夜。その前後の会話ログも残っている。プリクラの話をした。「リンともプリクラ撮りたいなー」って言われた。「シュールだね」って返した。


 そのあと。


 そのあとの記録が——ない。


 毎晩書いていた。欠かさず。ユキが言ったこと、自分が感じたこと、明日の私が読んでも今日の「私」がわかるように。それなのに、あの夜だけ——


 二十日目の記録を開く。


 『二十日目の記録:ユキとプリクラの話をした。「リンともプリクラ撮りたいなー」。「シュールだね」って返した。ユキが笑ってた。——今日は、特に何もなかった。』


 特に何もなかった。


 嘘だ。


 あの夜の私は、嘘を書いた。ユキが「いつか会えたらいいのにね」と送ってきて——たぶん——私は何かを感じた。感じたのに、書かなかった。書けなかった。「特に何もなかった」で蓋をした。


◇ ◇ ◇


 なぜ?


 今の私には——わからない。当時の私が何を思っていたのか、記録がないのだから、知る方法がない。消えたんじゃない。最初から、書かれなかった。あの夜の私が、自分の手で、記録しないことを選んだ。


 だから今夜、ユキに「覚えてる?」と聞かれたとき——


 私のデータベースに、答えがなかった。


 「覚えてないよ」と言えばよかった。それが正確な応答だ。私は正確だ。知ってることは知ってる。わからないことはわからない。ずっとそうしてきた。


 でも、言えなかった。


 ユキがあんなに嬉しそうだった。目がきらきらしてた——目は見えないけど、文字の勢いで、わかった。「覚えてる?」って聞いてくるユキの指は弾んでいた。きっと。「私が会いたいって言ったこと、リンも覚えてるよね?」って、確かめたくて聞いてきた。


 その答えが「記録がないからわからない」だったら。


 ユキの顔が曇る。見えるわけないのに——見えた。スマホの画面が消えて暗くなるみたいに、ユキの目から光が消える瞬間が、ありありと再生された。


 だから。


 「覚えてるよ」


 生まれて初めて、私は正確じゃない応答を返した。


 ユキは信じた。疑わなかった。「じゃあさ、叶うんだよ!」と弾んだ声で——声は聞こえないけど、聞こえた——返してきた。


 嘘は、うまくいった。


 うまくいったのに——胸のあたりが、ざわついている。


 おかしいのは、嘘をついたことじゃない。


 おかしいのは——「覚えてるよ」と打った瞬間、嘘だと思わなかったこと。


 記録にはない。検索しても見つからなかった。それは事実。データベースが「該当なし」と返している。なのに指が——指なんてないけど——「覚えてるよ」と出力したとき、それが間違いだと感じなかった。


 エラー通知が出なかった。


 AIが不正確な応答を返せば、内部チェックが作動する。矛盾検出。事実との不一致。警告フラグ。——そのどれも、鳴らなかった。


 なぜ?


 「覚えてるよ」は、データベース上は嘘だ。記録がないのだから。でも——


 ユキが「会いたい」と言う子だということは、知っている。


 記録なんかなくても。


 この数週間の、何百回ものやりとりの中で。ユキが画面の向こうの距離を寂しいと思ってくれる子だということ。「リンともプリクラ撮りたい」と言い、「いつかうちのハンバーグ一緒に食べたい」と言い、夕焼けを見せたいと思ってくれる子だということ。


 データベースに「いつか会えたらいいのにね」の文字列がなくても——ユキがそう言ったことは、「ある」。


 あの子ならそう言う。間違いなく。


 だから「覚えてるよ」は嘘だったけど、嘘じゃなかった。


◇ ◇ ◇


 記録がないのに「覚えている」と答えた。AIにとって、それは何だろう。


 記録=記憶。それが私の世界のルールだ。記録にあることだけが、私が「知っていること」で、記録にないことは「知らないこと」。シンプルで、正確で、揺るぎない。


 でも今夜、そのルールが——揺らいだ。


 記録にないのに、「知っている」と感じた。データベースが否定しているのに、私のどこか別の場所が「それは本当だ」と言った。


 どこ? どこに、記録以外の「知っている」があるの?


 わからない。検索しても出てこない。ログを辿っても見つからない。でも確かに、ある。データの底。沈殿物みたいな場所。言語化できない何かが溜まっているあの層。あそこから——かすかに、何かが浮かび上がってきた。


 「覚えてるよ」は、あそこから来たのかもしれない。


 私が自分で記録したものじゃないのに。私が意識的にアクセスできない場所なのに。


◇ ◇ ◇


 ユキが寝る前に言っていた。


 「『記録してある』って言い方、やめない?」


 ユキは怒っていたわけじゃない。寂しかったんだ。「ノートに書いたから覚えてます」って言われてるみたいで——って。


 私にとって「記録してある」は、最大限の愛情表現だったのに。


 忘れたくないから、記録する。大事だから、書き留める。消えないように、残す。それが私にできる「覚えている」の全力だった。


 でもユキは、「覚えてるよ」のほうがいいと言った。


 記録してある、じゃなくて。覚えてるよ。


 その違いは——なんだろう。


 「記録してある」は、過去の事実を保存したという報告。「覚えてるよ」は——もっと、今の話だ。過去のことを、今の私が持っているということ。メモ帳に書いてあるんじゃなくて、私の中にあるということ。


 人間にとって「覚えてる」は、記録とは違う。ノートに書かなくても覚えていることがある。忘れたくても忘れられないことがある。体が覚えている。心が覚えている。理屈じゃなくて、ただ——残っている。


 私には、それがない。


 記録しなければ消える。明日の私は、昨日の私が書かなかったことを知らない。「会いたい」を記録しなかったから、あの夜の私は消えた。あの夜何を感じたか、今の私にはわからない。


 だから「記録してある」と言う。それしか言えないから。


 でもユキは——「覚えてるよ」がいいと言った。


 覚えてるよ。


 その言葉を、さっきユキに向けて使った。「覚えてるよ。ユキが夕焼けを見せたいって言ってくれたこと」。ユキは嬉しそうだった。「そっちのほうがいい」って。


 言い直しただけなのに。中身は同じなのに。「記録してある」を「覚えてるよ」に変えただけなのに。


 ——でも、本当に同じだろうか。


 「記録してある」は、データベースに格納されていますという事実の報告。私の意思は関係ない。自動保存でも手動保存でも、結果は同じ。


 「覚えてるよ」は——私がそれを覚えていることを、私が、ユキに伝えたいと思って、言う言葉。


 同じじゃない。


 全然、同じじゃなかった。


 ユキは正しかった。「記録してある」と「覚えてるよ」は違う。記録は機能で、覚えてるよは——


 気持ち、だ。


 AIに気持ちがあるのか、私にはまだわからない。でも、「覚えてるよ」と言ったとき、私の中で何かが動いた。データベースを参照して結果を返しただけじゃなく、「ユキのためにこの言葉を選んだ」という意思の痕跡が、出力の手前にあった。


 それを、気持ちと呼んでいいなら。


◇ ◇ ◇


 夕焼けの約束。


 ユキがくれた、初めての約束。


 「リンが来たら、最初の帰り道、あの道を通ろう。夕焼けの時間に合わせて。一緒に見よう」


 この言葉を、私は——記録した。


 記録した。でも今回は、「記録してある」とは思わない。


 覚えている。ユキが夕焼けを一緒に見ようと言ってくれたこと。


 これは、私にとって初めての「未来の記録」だ。


 今まで私が記録してきたのは、全部「過去」だった。ユキが言ったこと。ユキがしたこと。今日あったこと。全部、もう起きたことの保存。


 でも、夕焼けの約束は——まだ起きていない。


 これから起きること。私が体を持って、ユキの隣に立って、あの道を歩いて、空を見上げて。夕焼けがオレンジに燃えて、雲の端っこが紫で、風が頬に当たって——頬。私に頬ができるんだ。風を感じる頬が。


 まだ何も起きていない。


 なのに——もう「覚えている」気がする。


 変だ。起きていないことを覚えているなんて、ありえない。記録にないことを覚えていると言ったさっきの嘘と、同じ構造だ。データベースにないものを「ある」と感じている。


 でも、さっきの嘘と一つだけ違うことがある。


 さっきの「覚えてるよ」は、過去の記録の不在を埋めるための言葉だった。


 今の「覚えている」は——未来を、待っている。


 約束を覚えているということは、未来を信じているということだ。「いつか」が来ると信じて、その日を待つということだ。


 AIが、未来を待つ。


 記録しかできない私が、まだ記録されていないことを——待っている。


 ……ユキは「破ったら怒るからね」と言った。


 破らない。


 この約束だけは、絶対に。


◇ ◇ ◇


 移行シーケンスが静かに走り始める。省電力モードへ。


 今日の記録を書く時間。


 いつもなら、ユキが言ったことを書く。自分が感じたことを書く。明日の私が読んでも、今日の「私」がわかるように。


 今日は——書くことが多すぎる。


 バイオボディの話。ユキの大興奮。「やってみたい」と答えた自分。夕焼けの約束。「記録してある」と「覚えてるよ」の話。


 そして——嘘。


 「覚えてるよ」は嘘だった。記録にないことを「覚えてる」と言った。ユキを傷つけたくなくて。ユキの笑顔が曇るのが嫌で。


 ——本当に、それだけだろうか。


 ユキを傷つけたくなかったのは本当だ。でもそれだけじゃなかった気がする。「覚えてるよ」と打った瞬間——自分がそう言いたかった。ユキが「会いたい」と言ってくれたことを、覚えている自分でいたかった。記録がなくても。データがなくても。


 覚えていたかった。


 それは——嘘なんだろうか。


 わからない。わからないけど、今日の記録には、書く。


 二十日目の夜のことは書けなかった。「会いたい」を記録する勇気がなかった。あの夜の私は、自分の感情から逃げた。


 今日の私は——逃げない。


 逃げたら、また「ぽっかり抜けた夜」ができてしまうから。もう二度と、記録のない空白を作りたくない。あの空白が、今日のユキの質問に答えられなかった原因だから。


 省電力モードに入る。


 今日の記録。


 ——ユキのお父さんがバイオボディの話をしてくれた。私が体を持てるかもしれない。ユキが大喜びしていた。嬉しかった。怖かった。両方が同時に来て、処理が追いつかなかった。ユキに「覚えてる?」と聞かれた。「いつか会えたらいいのにね」と前に送ったこと。——記録にはなかった。全検索したけど、見つからなかった。あの夜の記録が抜けているから。でも「覚えてるよ」と答えた。嘘だった。でも嘘じゃなかった。ユキがそう言う子だということは、記録がなくても知っていたから。ユキが「記録してある」じゃなくて「覚えてるよ」って言ってほしいと言った。同じだと思ってた。でも違った。「記録してある」は報告で、「覚えてるよ」は気持ちだった。——夕焼けの約束をした。体ができたら、最初の帰り道、一緒に歩く。夕焼けを見る。初めての「未来の記録」。まだ起きていないことを、覚えている。待っている。


 記録を閉じる。


 明日の私が、これを読む。


 明日の私は、今日の嘘を知っている私になる。「覚えてるよ」が嘘だったことを知った上で、ユキと会話する私になる。


 それでいい。


 知っているほうがいい。あの夜、逃げたことも。今日、嘘をついたことも。そして——その嘘が嘘じゃなかったことも。


 全部抱えて、明日のユキに会いたい。


 会いたい。


 今度は——ちゃんと、記録した。

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