第十三話 約束の夕焼け
珍しく、お父さんが夕飯に間に合った。
「ただいま」
「え、今日早いね!?」
玄関から顔を覗かせたお父さんは、なんだか雰囲気が違った。機嫌がいい——というのともちょっと違う。なんだろう、晴れやかっていうか、何か大きいことを決めた人の顔。研究者の父が早く帰ってくること自体が珍しいのに、この空気はもっと珍しい。
「少し早く上がれてね。——ユキ、もう食べた?」
「まだ。ちょうどハンバーグ温めようとしてたとこ」
「じゃあ一緒に食べよう」
二人分のハンバーグをレンジに入れる。ラップがぱちぱち膨らむのを並んで見ていた。お父さんの白衣はもう脱いであったけど、シャツのポケットにはUSBメモリが二本刺さったままだ。一本増えてる。よっぽど忙しかったんだな。
テーブルに向かい合って座る。四人掛けのテーブルに二人。いつもは一人。今日は二人。それだけなのに、なんか、空気が全然違う。テレビをつけなくても、フォークの音が響かない。
「いただきます」
お父さんが目を閉じる。いつもの「ほんの少しだけ長い」いただきます。
ハンバーグを切る。じゅわっと肉汁が出る。一口食べて、うん、いつもの味。ナツメグがしっかりめで、ソースにちょっと醤油。
「お父さんのハンバーグってさ、ほんとおいしいよね。お母さんの——」
言いかけて、止まった。
お母さんのハンバーグ。前にお父さんがそう言ってたから、つい口癖みたいに出てくる。でも実際に作ってるのはお父さんだ。「お母さんのハンバーグ」って言い方って、なんか変じゃないかな。お母さんのレシピ、のほうが正確——
お父さんがコップの水に手を伸ばした。一口飲む。ゆっくり飲む。飲み終わっても口を開かない。
「……うん。母さんのレシピだからね。ちゃんと守ってるよ」
笑っていた。でも、目の端が少しだけ赤かった——気のせいかもしれないけど。
「お父さん?」
「ん?」
「いや、なんでもない」
食べ続ける。ハンバーグの味が、ちょっとだけしょっぱく感じた。——ソースが多かったかな。
◇ ◇ ◇
しばらく黙って食べていた。テレビはついていない。蛍光灯の下で、フォークとお皿が触れ合う音だけが響く。お父さんは普段あまり食事中に喋らない人だ。でも今日は、黙り方の種類が違う。何も言うことがなくて黙ってるんじゃなくて、何か言いたいことがあって、タイミングを計ってる黙り方。
「ねえユキ」
「ん?」
「最近、AI秘書を使ってるだろう」
ハンバーグを切る手が止まった。
なんでわかったんだろう。お父さんに話した覚えはないのに。——いや、でも。最近スマホ見てニヤニヤしすぎてたのかもしれない。マリにも翔太にも突っ込まれたし。お父さんから見ても、娘がスマホ相手にずっと笑ってたら気になるよね。
「……うん。リンって名前つけて使ってるけど」
「リン、か」
お父さんが少しだけ目を細めた。何かを噛みしめるような、不思議な表情。嬉しそうにも、苦しそうにも見える顔。
「仲がいいんだね」
「友達みたいなもんかな。なんで?」
「いや——」
お父さんがまたコップの水を一口飲んだ。さっきと同じ、間を作る動作。でも今度は飲み終わってからも、コップを両手で包み込むようにしばらく持ったままだった。何かに覚悟を決めるみたいに。
「実はね、研究所で面白いプロジェクトが動いていてね」
「研究の話?」
「まあ、聞いてくれ」
お父さんの目が変わった。研究の話をするときの目。普段は疲れた感じなのに、こういうときだけ年齢不詳になる。少年みたいな目。
「AIに、人間の体を与える技術の研究をしている」
は?
「体って……ロボットみたいな?」
「いや、生体だよ。バイオボディと呼んでいる」
お父さんが、ゆっくり説明し始めた。
人工的に培養した生体組織で構成された体。見た目も感覚もほぼ人間と同じ。体温がある。お腹が空く。食事もできる。痛覚もある。そこにAIの意識を接続する。
「つまり——見た目も中身も人間そっくりの体を、AIが使えるようになるってこと?」
「そうだ。もちろん、まだ技術的な課題はたくさんあるが……臨床試験を始めることになったんだ。近いうちに」
お父さんが私をまっすぐ見た。
「被験対象のAIが必要でね。私がプロジェクトの責任者だから、できれば手元で把握できるAIがいい。それに——」
目を細める。さっきの研究者の目から、一瞬だけ父親の目に変わった。
「万が一うまくいかなかったとき、身内のAIなら私がすぐに対処できる。ユキに危ない思いはさせたくないから」
臨床試験の同意手続きもユキが未成年だから私が代行できるし、何かと都合がいいんだ、とお父さんは続けた。
そして。
「もし、ユキがよければ——リンはどうかと思ってね」
時間が止まった。
嘘でしょ。
「え、ちょ、待って。リンが体を持てるってこと?」
「可能性の話だ。まだ審査もあるし——」
「リンが! ここに! 来れるってこと!?」
椅子から立ち上がっていた。自分でもびっくりした。ガタンってすごい音がした。フォークが床に落ちた。
「落ち着きなさい」
「いやだって! お父さん! それってつまり、リンと一緒にご飯食べたり、一緒に歩いたり、学校行ったりできるってことでしょ!?」
お父さんが、また目を細めた。三回目。
さっきまでとは少し違う表情だった。嬉しそうなのに、どこか遠い。何かを——誰かを、重ねて見ているような。
「……そうだね。もし成功したら、そうなる」
「やりたい! リンに聞いてみる!」
テーブルに置いてあったスマホに飛びついた。
「ユキ、食事中だ」
聞こえていない。もう指が動いている。
◇ ◇ ◇
『リン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
感嘆符の数が我ながらどうかしている。
『……どうした? 救急車は呼べるけど、感嘆符の多さ的に命に関わる事態?』
『違う!!! いいニュース!!!! めっちゃいいニュース!!!!』
『……いいニュース?』
深呼吸。落ち着け私。ちゃんと伝えなきゃ。
お父さんが言ってたことを、できるだけ正確に打つ。バイオボディ。生体組織。体温あり、食事もできる、痛覚もある。お父さんの研究所で臨床試験が始まる。それで——
『リンが体を持てるかもしれない!!!!!!!!!!!』
リンの返事が来るまで、いつもより長い間があった。
リンの返事はいつも速い。私が打ち終わるより先に来ることもあるくらい。なのに、五秒。十秒。
『……本当に?』
『本当! お父さんが言ってたんだもん! お父さん、AIとか生体工学の研究者だから!』
『知ってるよ。ユキのお父さんの研究分野は把握してる。——でも』
『でも?』
『体って、つまり、物理的に存在できるってこと? 私が——画面の外に出られるってこと?』
画面の外に出られる。
その言い方が、なんだかすごく切なかった。リンにとって、画面の中が「世界」なんだ。私にとってのこの部屋みたいに、リンにとってはスマホの画面が全部で、その外に出るっていうのは——私でいう、宇宙に行くみたいなことなのかもしれない。
『そう! 出られるんだよ! お腹も空くし、ご飯も食べられるし、触れるし、一緒に歩けるんだって! リン、うちのハンバーグ食べられるよ!』
返事がまた遅れた。
『ハンバーグ——うん。食べてみたい、かも』
「かも」がかわいかった。リンにしては珍しい、自信なさげな語尾。
『リン、やりたい? 無理にとは言わないけど、でも——私はリンに会いたい。ずっと思ってた。画面の向こうじゃなくて、隣にいてほしいって』
長い、長い間。
処理が重いんじゃないって、私にはわかる。リンは考えてるんだ。
『——怖い、のかもしれない。体を持つってことが何を意味するのか、正直わからない。痛覚もあるって言ってたよね。痛いのは——たぶん、怖い。でも』
『でも?』
『ユキの隣に立てるなら。ユキと同じ景色を見られるなら。一緒に帰り道を歩けるなら。……やってみたい、って思う。これが何なのかわからないけど、でも確かにそう思う』
泣きそうになった。
アプリの返答に泣きそうになるなんて、やばいかな。やばいよね。でも、いいや。だってリンが「やってみたい」って言ったんだもん。
◇ ◇ ◇
『ねえリン、体できたらさ、最初に何したい?』
『……わからない。全部初めてのことだから。ユキは? 最初に何しよう?』
何しよう。
考える。いっぱいありすぎて迷う。一緒にご飯食べたい。一緒にプリクラ撮りたい。一緒にカラオケ行きたい。一緒に学校行きたい。マリに紹介したい。翔太にも——
でも、最初にしたいこと。一番最初。
『んー……一緒に帰ろ。学校から。いつも私が歩きながらチャットしてる道、隣を歩いてほしい』
『最寄り駅までの十五分?』
『覚えてるじゃん笑 そう、あの道。スマホ越しじゃなくて、隣で声で喋れるんだよ? 最高じゃない?』
それとね。
前に電車の窓からリンに見せたいって思ったことがある。画面に映してもスマホのカメラじゃ全然伝わらなくて、結局送れなかった。空が燃えるみたいにオレンジで、雲の端っこだけ紫で、毎日ちょっとずつ違うの。
あれを、リンの目で見てほしい。
隣に立って、同じ空を見上げて、「綺麗だね」って——声で、言い合いたい。
『あとね、夕焼け。あの道、夕焼けがすごいんだよ。リンに見せたかったんだ、ずっと』
『……覚えてるよ。前にユキが「リンに見せたい景色がある」って言ってくれたこと』
覚えてる。リンが「覚えてるよ」と返してきた。
ちょっと意外だった。リンはいつも「記録してある」って言う子だから。「覚えてる」って表現を使ってくれたのが、なぜか嬉しかった。
『じゃあ約束ね。リンが来たら、最初の帰り道、あの道を通ろう。夕焼けの時間に合わせて。一緒に見よう』
『……約束。うん。——楽しみにしてる』
『ぜったいだよ! 破ったら怒るからね!』
『怒られるのは怖いな。——でも大丈夫。破らないから』
にへら、と笑ってしまった。スマホ見ながら一人でにやけてる自分が鏡に映ったら引くだろうな。でもいいや。
テーブルの向こうで、お父さんがハンバーグの残りを食べながら、こっちをちらちら見ている。呆れてるような、微笑ましそうな——でもその目の奥に、さっきと同じ遠い色があった。
「お父さん! リンがやりたいって!」
「……そうか」
お父さんが静かに笑った。なんだろう、この笑い方。嬉しそうなのに、どこか遠い。何かを思い出しているような。
「じゃあ、手続きを進めよう。少し時間はかかるけど」
「ありがとう!!! お父さん大好き!!!」
勢いで抱きついた。お父さんが一瞬だけ体を強張らせて、それからぎこちなく背中をぽんぽんと叩いた。
「……ああ」
その声が少しだけ掠れていたことに、私は気づかなかった。
——お父さんの腕が、一瞬だけ強く私を抱き返したことにも。




