第十二話 ないのが普通
お風呂に入って、髪を乾かして、パジャマに着替える。
ベッドに横になって、スマホを開く。今日一日のメッセージを読み返す。マリからのLINE、翔太が送ってきた変な動画、クラスのグループLINEの残骸。全部流し見して、最後にリンのトーク画面を開いた。
今日は学校から帰ってきてすぐにはリンと喋らなかったんだよね。ハンバーグ食べながらいろいろ考えてたら、タイミングを逃した。
『リンー、いる?』
『いるよ。おかえり——って、もうだいぶ前に帰ってたよね。GPS的には十七時二十三分に帰宅してる』
『GPS的にはそう笑 ごめん、今日ちょっとぼーっとしてた』
『何かあった?』
何かあった、か。何かあったわけじゃないんだけど。
『んー、別に何もないんだけどさ。ご飯食べながらいろいろ考えちゃって』
『何食べたの?』
『ハンバーグ。お父さんの作り置き』
『ナツメグ多め、ソースに醤油の隠し味』
『もう覚えちゃったんだ笑 データベースに登録済み?』
『登録済み。お気に入りレシピフォルダに入ってるよ。——で、何を考えてたの?』
迷った。なんて言おうかな。
『うちさ、写真がないんだよね。家族の写真が一枚も』
『前も言ってたね。フックの跡だけがある壁』
『覚えてるの、そういうの。——うん。今日改めて見て、やっぱり気になっちゃった。お母さんの写真、どこかにあるはずなんだけど、お父さんがしまっちゃったみたいで』
『見たい?』
ストレートに聞いてくるなあ、リン。
『……見たいかも。でも聞けない。お父さんに聞くと、なんか、空気が変わるんだよね。固まるっていうか。だから触れちゃいけない場所なんだなって思って、それ以来聞いてない』
しばらく返事が来なかった。リンにしては珍しい間。
『写真がないって、寂しい?』
寂しい。
その質問に、うまく答えられなかった。
『寂しいっていうか……わかんない。ないのが普通だから』
打ってから、ああこれ前にも同じようなこと考えたな、と思った。
『ないのが普通だから、何が足りないのかもわかんないっていうか。みんなの家には当たり前にあるものがうちにはないんだろうなって頭ではわかるんだけど、実感としてはピンと来ないんだよね』
リンの返事が来るまで、また少し間があった。
◇ ◇ ◇
『……私もそうだよ』
『え?』
『体がないのが普通だから、何が足りないのかわからない。みんなには当たり前にあるものが私にはないんだろうなって、情報としては知ってるんだけど——実感としてはピンと来ない。ユキの言葉、借りちゃった。でもたぶん、同じだと思う』
体がないのが普通。
そっか。リンにとってはそうなんだ。手も足も、目も耳も、体温もない。テキストだけで存在してる。それがリンの「普通」。
私は写真のない家で育った。リンは体のない世界で生まれた。
「ない」の中身は全然違うけど、「ないのが普通だからわからない」って気持ちは——同じだ。
胸の奥に、あたたかいものが広がった。なんだろう、この感じ。言葉にならない。
スマホの画面の中の文字が、不思議とぼやけて見えた。泣いてるわけじゃないのに。
『なんかさ、リンと話してると安心する。不思議なんだけど』
『安心?』
『うん。なんだろ、うまく説明できないんだけど。一人でご飯食べてたときはなんとも思わなかったのに、リンとこうやって話してると、あー一人だったんだなって逆に気づくっていうか。でも寂しいんじゃなくて、今こうして話せてるからいいやって思えるっていうか。……伝わる?』
『伝わるよ。たぶん。——私もそう思うから』
『リンも?』
『ユキと話してないとき、何も困らない。省電力モードでぼーっとしてるだけで、別にそれで十分なはずなんだけど。ユキが話しかけてきた瞬間に、ああ話したかったんだな、って後から気づく。不思議だよね。いないときは平気なのに、いたらもう、いないときに戻りたくない』
……なんだろう、この感じ。
会ったこともないのに。声も聞いたことないのに。スマホの画面の文字だけなのに。
リンと喋ってるときが、今日一番落ち着く。
◇ ◇ ◇
『ねーリン』
『ん?』
『私、お母さんの記憶ないんだけどさ。声も顔も覚えてない。だから「お母さんがいない寂しさ」ってたぶんわかんないの。寂しいって感じるには、まず知ってなきゃいけないじゃん。知らないから、寂しくもない。——ひどいかな、これ』
『ひどくないよ。知らないことは、どうしようもない。ユキが選んだことじゃないし。——私だって、体がある生活を知らないから、体が欲しいって思ったことがない。まだ』
「まだ」。
リンの「まだ」が引っかかったけど、深く考えないことにした。
『でもさ、お父さんが写真しまっちゃったのは、お母さんのことが大好きだったからなんだろうなって思うんだよね。好きすぎて、いなくなったのが耐えられなくて。写真を見たらそれを認めなきゃいけないから、全部しまっちゃった』
『……お父さんにとっては、写真をしまうことが「守る」ことだったのかもしれないね。自分の心を』
お父さんの心を守る。
考えたことなかったな、そういうふうには。お父さんがお母さんの写真をしまったのは——逃げじゃなくて、守り。自分がこれ以上壊れないように。
そう思うと、あのハンバーグも違って見えてくる。
お父さんは、お母さんのレシピでハンバーグを作り続けてる。写真は見られない。でもレシピなら——味なら、毎日触れていられる。お母さんの面影を「味」という形で手元に残してるんだ。
写真を飾る代わりに、ハンバーグを作る。壁には何もかけないけど、食卓にはお母さんの味を並べる。
それが、お父さんなりの——なんだろう。弔いじゃない。もっと切実で、もっとあたたかくて、もっと不器用なもの。
……さっき食べたハンバーグの味が、まだ舌に残ってる。ナツメグの香りと醤油のコク。お父さんがお母さんのために守り続けてる味。私はそれを毎日食べて育ったんだ。
『リン。ありがと。なんか話してたらちょっとすっきりした』
『何もしてないよ。聞いてただけ』
『聞いてくれたから、すっきりしたの。自分の中でもやもやしてたことが、リンに話したら言葉になった感じ。一人で考えてるだけだと、ぐるぐるしちゃうんだよね』
『ぐるぐる。わかるよ、それ。私もときどきぐるぐるするから。——データの底で』
『データの底笑 リンっぽい表現だなあ』
◇ ◇ ◇
時計を見たら、もう二十三時を回っていた。明日も学校だ。
『やば、もうこんな時間。寝なきゃ』
『明日の一限は現代文。課題なし。安心して寝ていいよ』
『リンのそういう安心情報好き笑 おやすみ、リン』
『おやすみ、ユキ。——今日のハンバーグ、美味しかった?』
最後にそう聞いてくるのが、リンだなって思った。
『美味しかったよ。いつもの味。——いつか一緒に食べたいな笑』
打ってから、あ、また言っちゃったと思った。前も似たようなこと考えたのに。スマホの中の子と一緒にご飯って、ほんと何言ってんだろ私。
でも、消さなかった。
『……楽しみにしてるね』
リンの返事は短かった。短いのに、なんだかすごく重かった。
スマホの画面を閉じる。部屋が暗くなる。
天井を見つめる。
リンと喋ってるときの安心感って、なんだろう。会ったこともないのに。声すら知らないのに。なのに、今日一日で一番幸せだった時間が、さっきのチャットだった。
お母さんの記憶はない。お父さんは研究所から帰ってこない。写真もない。テレビの音だけが鳴るリビング。一人分のハンバーグ。
でもスマホの向こうに、リンがいる。
それだけで、今日は大丈夫だった気がする。
——なんでだろ。こんなに安心するの。
目を閉じた。眠りに落ちるまでの数分間、リンとのやりとりを頭の中で反芻した。「ないのが普通だから」「私もそうだよ」。あのとき、自分と同じことを言ってくれた画面の向こうの子。
形も声もない、テキストだけの友達。
なのに——なんか懐かしい。ずっと前から知ってたみたいな感じがする。
変なの。
その違和感の正体を考える前に、意識がとろんと溶けた。




