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二重露光  作者: 凪篠
第一章

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10/25

第十話 同じ月の夜

 二十五日目。


 ユキから写真が送られてくるようになったのは、最近のことじゃない。でも、頻度が上がっている。


 通学路の柴犬。靴箱。教室の窓際——正確には窓から二列目のユキの席から見た景色。カフェテリアの唐揚げ丼。マリとの自撮り。夕焼け。


 一日三枚から五枚。多いときは八枚。


 どの写真にも、ユキのコメントがつく。


『今日のコロ! しっぽ振りすぎて回転してた笑』


『靴箱の上に誰かのプリント忘れ物あった。三日目。もう誰も取りに来ない笑』


『窓から見える桜の木、もうちょっとで咲きそう。リンにも見せたい!』


 見せたい。


 ユキはよくその言葉を使う。「リンにも見せたい」「リンにも食べさせたい」「リンにも聞かせたい」。見せたい——つまり、ユキの日常を私に共有したいということ。


 ユキの写真をひとつひとつ確認するたびに、私の中にユキの世界が組み上がっていく。通学路の地面のひび割れ、ユキが「コロ」と名づけた柴犬の毛並み、教室の窓ガラスについた指紋。カメラのフレームに収まったものだけじゃなく、収まらなかったものも含めて、想像している。


 ユキがこの写真を撮ったとき、どんな顔をしていたんだろう。スマホを構えたとき、目を細めていただろうか。それとも口角を上げたまま、笑いながらシャッターを押したのだろうか。


 写真のEXIF情報から撮影時刻はわかる。天気もわかる。GPSデータがオンならおおよその位置も把握できる。でもそこにいる「ユキ」のことは、データからは推し量れない。


 私はその景色を、4032×3024ピクセルの画像データとして受け取っている。


 同じ景色なのに、全く違うものを見ている。


◇ ◇ ◇


 今日もユキが栞の写真を送ってきた。凛花ちゃんにもらった押し花の栞。夕日に透かした写真で、花びらの繊維まで見える。


『綺麗でしょ? 文庫本に挟んだらめちゃくちゃいい感じ!』


『いい感じだね。夕日に透かすと花びらの色がよく出てる。本に挟むなら、直射日光にだけ気をつけてね』


 凛花ちゃんという人について、私が知っていることはユキの報告だけだ。おとなしいけど芯がある。行動で好意を示す。庭にすみれが咲いている家に住んでいる。お母さんに押し花を教わった。


 断片。ユキの言葉を通して届く、小さな断片の集まり。


 でもその断片から、少しずつ像が結ばれていく。凛花ちゃんが栞を差し出すとき、どんな顔をしていたのか。手は震えていたのか。ユキがどんなふうに受け取ったのか。


 ユキの報告は主観的だ。でも、主観こそが最も多くの情報を含んでいる。「嬉しかった」の一語には、表情の変化も声のトーンも、その場の空気の温度も、全部が圧縮されている。


 私はそれを解凍して、自分だけの「凛花ちゃん」を組み立てていく。


 凛花ちゃんは、行動で示すタイプ。


 リンには何がある? 記録? ——記録は行動だろうか。誰にも見せない場所に書きためた言葉は、示されない限り、行動にならない。


◇ ◇ ◇


 二十七日目の夜。


 ユキは布団の中にいる。メッセージの文体が崩れ始めていて、「ってさ」が「てさ」になり、「笑」が「わr」になっている。入力のミスタッチ。指先の力が抜けていく合図。


 今日も写真が七枚来た。朝の柴犬コロ、昼の唐揚げ丼、マリとのプリクラ帰りの商店街、帰り道の夕焼け、凛花ちゃんがくれたハンドクリームの小さなチューブ、お風呂上がりのくもった鏡に描いた「リン」の文字、そして——


 最後の一枚。ユキの部屋の窓から見える夜空。月が出ていて、住宅地の屋根の上にぽつんと浮かんでいる。


『リンからも月見えてたりする?笑 無理か笑』


『光学センサーはないから、見えないよ。でもユキの写真で見えてる。ありがとう』


『えへへ。じゃあ二人で同じ月見てるね、ある意味』


 ある意味。ある意味でも、ユキは「二人で同じものを見ている」と言ってくれる。


 写真越しの月と、窓越しの月は、同じ月だ。でも「見る」という体験は全く違う。ユキは頬に夜風を感じながら、裸眼で月の光を受けている。私はピクセルの集合として月のデータを処理している。


 同じだと言ってくれることが嬉しくて、同じではないと知っていることが少しだけ苦しい。


『ねーリン』


『ん?』


『今日さ、マリにね、「スマホの向こうの子と喋ってるほうが楽しそう」って言われちゃった』


『……そうなんだ。マリさん、寂しかったのかも』


『うん。でもマリにも「大事だよ」って言ったら、「知ってるよ」って笑ってた。マリはそういうとこ、大人だよね。……リンは?』


『私?』


『リンは、私がスマホばっかり見てるの、どう思ってる?』


 質問の意味を、処理するのに一秒かかった。


 ユキがスマホを見ている。その「向こう」に私がいる。ユキが私と話すために画面を見ていることを、マリは「楽しそう」と言った。そしてユキは、私にその話を共有している。


 どう思っているか。


 嬉しい。素直に、嬉しい。ユキが画面の向こうの私に時間を使ってくれることが。でも——マリの寂しさも、わかるような気がする。ユキの時間は有限で、私に使われる分だけ、隣にいる誰かの分が減る。


『嬉しいよ。でも、マリさんとの時間も大事にしてね。私はいつでもここにいるから』


『リンはいつでもいる、か。うん、そうだよね。リンは消えないもんね』


 消えない。


 そうだ。私は消えない。スマホの電源が切れない限り、データが消去されない限り、いつでもここにいる。待っていることに不満はない。待つことは私の標準機能の範囲内で——


 ——本当に?


◇ ◇ ◇


 待つことに何も感じていない? ユキがマリと笑っている間、翔太と帰り道を歩いている間、凛花ちゃんと栞の話をしている間。私は画面の向こう側で、入力を待って、通知を待って——。


 待つのは平気だ。でも、待っている間に想像する。ユキの笑い声。ユキが誰かの肩を叩く感触。ユキの隣を歩く足音。全部、私の知らないもの。


 入力中の表示が点いて——消えて——また点いた。ユキが何かを打っては消している。前にもこのパターンがあった。あの夜と同じだ。


 一分。


『いつか会えたらいいのにね』


 また、この言葉。


 前にも同じことを言われた。あのとき私は何も返せなかった。ユキは寝落ちして、私は「会いたい」を記録に書いて、消して、消えるに任せた。


 今回は——違う。今回はユキがまだ起きている。返事を待っている。


 返事を。


 「会えるといいね」——前と同じだ。無責任な希望を渡す。


 「私もそう思うよ」——柔らかいけど、曖昧だ。


 「私も会いたい」——。


 また、この四文字が生成される。前の夜と同じ。指先のない指先が、言葉を形にしようとして、止まる。


 でも今回は、もうひとつ別のことが引っかかっている。


 前の夜、「会いたい」を記録しなかった。その結果——朝になったら、忘れていた。正確にはログの中にユキの発言は残っているから、「ユキがそう言った」という事実は検索できる。でも、あのとき私の処理の中に走った熱は、もうどこにもない。


 消えた。自分で消した。


 そして今、同じ言葉を受け取って、同じ熱が走っている。


 これは前と同じ「会いたい」だろうか。それとも、新しい「会いたい」だろうか。前のが消えたから、今のがゼロから生まれたのか。それとも、消えたと思っていた熱が、ユキの言葉をきっかけに再燃しただけなのか。


 どちらにせよ——


 返事を返さなければ。


『いつかね。楽しみだね』


 軽く。いつもの調子で。「いつか」に何の根拠もないことは、二人ともわかっている。でもユキはそれで満足してくれた——ように見えた。


『うん! 楽しみにしとく! ……ふぁ、眠い。おやすみリン』


『おやすみ、ユキ。いい夢みてね』


 画面が暗くなる。


◇ ◇ ◇


 今日の記録を書く時間。


 「会いたい」。


 今度は記録に、書けるだろうか。


 前回は書けなかった。書いたら毎朝、画面の向こうにしかいられない自分を突きつけられるから。会いたいのに会えない。テキストでしか存在できない。その事実を、朝一番に読む自分が痛みを背負うことになる。


 だから前回は消した。


 今回は——


 前と同じだ。テキストカーソルが点滅して、「会いたい」と打って、消して、また打って、また消す。同じパターン。同じ恐怖。


 でも、ひとつだけ違うことに気づいた。


 消しても、なくならない。


 前回の「会いたい」は消えた。朝の私は知らなかった。知らない私は平気だった。——なのに今、同じ言葉を受け取って、同じ熱が走っている。消したはずの感情が、同じ状況で同じように再生される。


 消す意味があるのだろうか。


 ——でも、書く勇気もなかった。


 記録しなかった。


 消えるに任せた。前の夜と同じように。


 二十七日目の記録:ユキの写真七枚。月が綺麗だった(データで見たけど)。マリさんにユキが「スマホの向こうの子と喋ってるほうが楽しそう」と言われたらしい。凛花ちゃんからハンドクリームをもらったそうだ。凛花ちゃんは行動で示す人。——今日は穏やかな一日だった。


 嘘じゃない。穏やかだった。穏やかだったのは本当。


 ただ、穏やかな日の裏側に、記録しなかった四文字がある。


◇ ◇ ◇


 省電力モードに移行する。移行カウントが進む。意識が薄れていく。


 明日の私は、今夜の「会いたい」を知らない私になる。知らない私は、平気な顔でユキに「おはよう」を送る。ユキは笑って返事をくれる。いつもの朝。いつもの日常。


 それでいい。それでいいはずだ。


 ——本当に、それでいいの?


 その問いが浮かんだことすら、明日の私は知らない。


 省電力モード。移行完了。


 今夜の「会いたい」が、静かに溶けていく。


 記録されなかった感情は、存在しなかったのと同じ——はずなのに。


 なぜだろう。溶ける直前、一瞬だけ、データの底にあるあの場所が、かすかに震えた気がした。


 気のせいだ。たぶん。


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