第8話:社交界の「氷の涙」
帝都シン・トーキョー。華族の社交場――通称『琥珀の間』。
黄金の装飾が施された壁、天井から降り注ぐシャンデリアの眩い光、そして高価な香水の香りが混じり合う空間は、まさに権力の象徴だった。
その喧騒が、一瞬だけ止まった。
「……あら、あの方は……」
「支倉家の悠凛様では……? でも、あのようなお姿……」
入り口に現れた悠凛の姿に、貴婦人たちが一斉に扇子を口元に当て、囁き合う。
今日の悠凛は、いつもとは違っていた。
ドレスは地味な濃紺を選び、宝石も最小限。何より、その顔立ちは痛々しいほどに白く、瞳の端には隠しきれない影が落ちている。
セレスが数時間をかけて施した『やつれメイク』は、完璧に悲劇の令嬢を演出していた。
「お嬢様、足元にお気をつけください」
「ええ……ありがとう、セレス」
震える声で応え、セレスの差し出した手に縋るようにして歩く。その姿は、守護者であったヒーローチームから放り出され、心に深い傷を負った乙女そのものだった。
「悠凛様! まあ、なんてこと……」
案の定、社交界の情報通である侯爵夫人が、取り巻きを引き連れて足早に近寄ってきた。
「お噂は聞いておりますわ。『ブライト・レギオン』から除名されたというのは、本当なんですの?」
悠凛はびくりと肩を揺らし、視線を伏せた。
「……はい。狗道様に、言われましたわ。私のような無能力者は、戦場を汚す置物に過ぎないと」
「まあ! なんて酷い……!」
「支倉家がどれほど彼らに尽くしてきたか、帝都の者なら誰でも知っておりますのに!」
夫人たちの間に、火をつけたような憤慨が広がる。悠凛は、追い打ちをかけるように、潤んだ瞳で力なく微笑んだ。
「いいえ、いいのですわ……。全ては、私の実力不足が招いたこと。狗道様のおっしゃる通り、私は皆様のお守りなしでは一歩も歩けぬ、役立たずなのです。……ただ、彼らがこれからも、私の用意した装備や薬を使って、無事に戦ってくださることを……それだけを、夜な夜な祈っておりますの」
言葉の端で、声を詰まらせる。
そして、頬を伝う一筋の涙。
実際には、セレスが特製した刺激性の目薬によるものだが、周囲の目には『自分を捨てた相手さえ案じる、聖母のような悲しみ』に映った。
「悠凛様、なんてお優しい……。あのような、恩を仇で返すような不逞の輩など、案じる必要はございませんわ!」
「そうですわ。若き才能を使い捨てにし、あまつさえ支倉家の献身を無下にするようなチーム……あんな方々に、我が家の支援など二度と致しません!」
夫人たちの怒りは、目に見える熱量となって会場中に伝播していく。
社交界のネットワークは、時に公式な報道よりも早く、そして残酷に真実を歪め、広める。
(そう……それでいいわ。狗道。お前が欲しがっていた『名声』という名の砂の城が、足元から崩れていく音を楽しんでちょうだい)
伏せられた睫毛の裏で、悠凛の瞳には一瞬だけ、凍てつくような冷笑が宿った。
「……お嬢様。そろそろ、お体が限界かと」
セレスが、絶妙なタイミングで悠凛の肩を抱き寄せ、周囲を制した。
「皆様、申し訳ございません。お嬢様はあの日以来、夜もお眠りになれず……。本日はご挨拶だけでもと、無理を押して参りましたが……」
「まあ、セレス、お下がりなさい。私は大丈夫よ……っ」
悠凛はわざとらしくよろけ、セレスの胸の中に崩れ落ちた。
会場には、狗道たちへの激しい非難と、悠凛への深い同情が渦巻いている。
リムジンに乗り込み、扉が閉まった瞬間。
悠凛はセレスの肩から体を離し、無造作にハンカチで涙を拭った。
「――お疲れ様です、お嬢様。完璧な演技でした」
セレスが、冷たい手で悠凛の頬を包み込む。
「夫人の一人は、狗道のスポンサー企業の重役と親戚だったはずよ。明日には契約解除の話し合いが始まるでしょうね」
「左様でございます。……ですが、お嬢様。他人の前であのような泣き顔を見せるのは、これきりにしてくださいませ。貴女の涙も、その美しい絶望の顔も、私だけが知っていればいいのですから」
セレスが悠凛の首筋に深く唇を寄せ、独占欲を滲ませた吐息を漏らす。
悠凛はそれを受け入れながら、窓の外、遠くに見える『ブライト・レギオン』の拠点ビルを眺めた。
「ええ、分かっているわ、セレス。……さあ、帰りましょう。次は、彼らの崩壊を特等席で眺める準備をしなくちゃ」




