第7話:毒虫の記憶
帝都シン・トーキョーのハイウェイを漆黒のリムジンが走る。
土砂降りの雨がリムジンの窓ガラスを叩いていた。
雨音は、いつしか、あの夜の喧騒へと変わっていく。
――ヒーローチーム、ブライト・レギオン。
支倉悠凛がこのチームに加入していたのはヒーローズギルドの最奥に近付く足がかりとするためだった。
周囲には無能の足手まといと思ってもらった方が目立たずに事を進められる。だから、常にそのように振る舞った。
悠凛の思惑は驚くほど順調に進んだ。
だが、順調すぎるのも困りものだ。要らぬ反感を買っていたらしい。
チーム結成一周年記念パーティーの夜。煌びやかな会場の裏手、薄暗い廊下で、悠凛はリーダーの狗道に呼び出されていた。
『……おい、支倉。お前、最近調子に乗ってないか?』
狗道は酔っていた。
当時の彼は、トップヒーローへの階段を駆け上がる新進気鋭のホープ。その傲慢さは、アルコールによって醜く肥大化していた。
『俺が戦ってる横で、お前は涼しい顔して機械を弄ってるだけ。……誰のおかげで、お前がここにいられると思ってるんだ?』
「……狗道様、酔っていらっしゃいます。戻りましょう」
悠凛は冷ややかに告げ、踵を返そうとした。
その腕を、狗道の無骨な手が、強引に掴み取る。
『逃げるなよ! 俺はリーダーだぞ! ……少しは、リーダーに感謝の姿勢を見せたらどうだ?』
狗道の瞳には、ヒーローの光など微塵もなかった。
あるのは、自分より無能だと見下していた女が、自分には理解できない知略という力を持っていることへの、矮小な劣等感と、それを力でねじ伏せようとする、卑劣な支配欲だ。
「……離していただけますか」
『嫌だね。……お前のその、すました顔を崩してやる。泣いて俺に縋らせてやるよ!』
逃げ場のない薄暗い空間。異能で強化された肉体の力に、無能力者の悠凛は抗う術を持たない。
「狗道様、お止めください。これ以上はあなたのキャリアに傷がつきます」
悠凛は冷ややかに告げ、視線を逸らした。その冷淡さが、工藤の矮小なプライドをさらに刺激した。
『その小生意気な口を聞けなくしてやるって言ってんだよ!』
狗道の顔が近づく。酒の臭い。
彼は、悠凛を組み敷くように、その体を壁に押し付けた。
鈍い音と共に、悠凛が着ていたドレスの肩口が、狗道の手によって無残に引き裂かれる。
冷たい空気が、露出した白い肌を打った。
「っ……!」
恐怖。そして、それ以上に底なしの拒絶が悠凛の脳内を支配した。
この汚らわしい男に、触れさせてはならない。
狗道の手が、引き裂かれたドレスの隙間から、露出した悠凛の鎖骨へと伸びる。
汚らわしい指先が肌に触れた瞬間、悠凛の全身に鳥肌が立った。
『……綺麗な肌だ。無能の癖に、高貴なフリをしやがって。俺が、その中身を暴いてやる!』
狗道は、悠凛の服をさらに強引に引き裂こうと、その手に力を込めた。
ドレスの布地が悲鳴を上げ、さらに大きく破けていく。悠凛の姿はもはや裸も同然であった。艶やかな肢体が、薄暗い廊下に無防備に晒されている。
狗道の瞳には、獣のような欲望と、自分より上位に立つ存在を力でねじ伏せる愉悦が宿っていた。
狗道は、悠凛を組み伏せたままズボンのベルトに手をかける。金具が擦れ合う耳障りな音がした。
だが。
その瞬間、狗道の動きが止まった。
「……あ。……あが、っ……」
狗道の喉元に、悠凛の手があった。
彼女の指先は、狗道が纏っていた微かな能力の流れを瞬時に解析し、その流れを物理的に遮断する、正確無比な角度で突き立てられていたのだ。
悠凛の瞳は、ただ凍てついていた。
「……触らないでくださるかしら」
変声機などなくても、その声は地の底から響くように冷たかった。
悠凛は、工藤の喉の正中にある神経節を、手刀で慈悲なく押し潰す。
「ひ、っ……ぐ、ぁ……!」
強烈な激痛と、能力の暴発。
狗道は、小娘だと舐めていた悠凛の、その底知れぬ深淵を見てしまった。
彼は理解不能の恐怖に顔を歪め、喉を押さえてその場に崩れ落ちた。
悠凛は、引き裂かれたドレスの切れ端を拾い上げ、汚いものを見るような一瞥をくれた。
狗道は、泥を啜るような姿勢で、悠凛の去り際を見上げるしかなかった。
(この女だけは……絶対に、許さねえ。……俺を、辱めやがった……無能力のカスの癖に、俺を見下した……!)
その瞳には、恐怖、そして――羞恥によって歪んだ、ドス黒い憎悪が灯っていた。
――そして、現在。漆黒のリムジン内。
「……お嬢様? ……また、あの日の夢を?」
セレスの囁きが、悠凛の意識を現在へと引き戻した。
「……違うわ、セレス。もっとどうでもいい……取るに足らないような類の悪夢よ。そう、目の前に急に毒虫が現れたとか、そういうね」
その言葉とは裏腹に、悠凛はセレスの腕の中で、呼吸を乱していた。
全身に冷や汗が滲み、あの日ドレスを引き裂かれた肩のあたりが、幻肢痛のように疼く。
セレスは、全てを察した。幼い日のあの事件ほどではなくとも、狗道との例の出来事によって彼女の心は十分に傷付けられていたのだ。
悠凛の濡れた髪を優しく撫で、その首筋に、あの夜の男の記憶を上書きするように、熱い、熱い唇を重ねた。
「大丈夫ですわ、お嬢様。貴女を汚そうとしたゴミは、じきに全て片付きます。彼らは、もう二度と、その清らかな肌に触れることはおろか、視界に入ることすら叶いません」
セレスの瞳が、暗闇の中で、捕食者のように妖しく煌めく。
「貴女の肌に触れることを許されているのは、この私だけ。このセレスだけなのですから。……さあ、悪い夢は忘れて、私の熱だけを感じてください」
セレスの指先が、悠凛のドレスの中に忍び込み、そのきめ細かな肌を、独占欲と共に這い回る。
「んっ……」
悠凛の喉の奥から甘い吐息が漏れた。
「……セレス。いいけれど、ドレスは汚さないでちょうだいね。もうすぐパーティー会場に着くんだから」
「それはお嬢様次第ですわ。お嫌でしたら、お可愛らしい声を出すのは我慢なさってくださいね」
幼い日のあの痛みも、あの夜の冷たさも、セレスの熱だけが、唯一癒やしてくれる。
二人の影が、再び一つに溶け合った。




