第5話:死神の産声
這いつくばったリーダー格の男が、震える手で懐から一本の注射器を取り出した。
「待て……待ちやがれ! 俺はまだ負けてねぇ!」
注射器の中には、どす黒い紫色の液体が満たされている。
裏社会で出回る違法能力強化薬――通称『アップグレーダー』。
「調子に乗りやがって……。これさえ打てば……お前みたいな野郎、灰にしてやる!」
男が絶叫し、針を自分の首筋に突き立てようとした。
だが、悠凛は動かない。止めるどころか、仮面の下で冷徹な笑みを浮かべた。
「……打てばいい。その瞬間、お前は終わりだ」
「命乞いか!? もう遅えよ!!」
男がシリンダーを押し込む。
しかし、期待された爆発的な能力の奔流は起きなかった。代わりに起きたのは、男の絶叫――苦悶に満ちた、獣のような叫びだった。
「あ、ぎ……あがぁぁぁっ!? 熱い、体が、中から焼けてる……ッ!?」
男の体から、どす黒い煙が噴き出す。皮膚の下を這い回る血管が、異常な速さで変色していく。
「警告はしたがな」
「な、何だこれ……薬が、暴走して……」
「暴走ではない。仕様だ。そう書き換えたからな」
『はい、坊ちゃま。ナノマシン信号、送信完了です。薬物成分を「神経焼灼剤」へと再構成しました』
悠凛は、のたうち回る男を見下ろす。
「その薬の製造元……辿れば、支倉グループの孫会社に行き着く。極秘に廃棄されたはずの研究データを、お前たちが盗み出し、粗悪に再現したものだな」
「あ、が……あ……」
「今、お前の脊髄に流れているのはもはや薬ではない。能力の源泉となる神経系を、永遠に焼き潰す猛毒だ。命までは奪わない。……だが、お前は二度と火を灯すことも、その岩の腕で人を傷つけることもできない」
悠凛は、完全に物言わぬ肉塊となった男の横を通り過ぎ、少女マリの元へ歩み寄った。彼女の父は、まだ息がある。
悠凛は無言で、救急キットと、一通の封筒を地面に置いた。中には、彼らがこの帝都シン・トーキョーで再起するために十分すぎるほどの、非公式な資金が入っている。
「……お前の父は死ぬような怪我ではない。すぐに救急を呼べば後遺症も残らないだろう。だが、ここにはもうヒーローは来ない。この居住区を出て、二度と戻ってくるな」
少女が何かを言おうとする前に、漆黒の騎士は銀色のコインを取り出した。
「それから、これも。君のものだ」
鈍く光るコインを少女の膝の上に置く。
少女が微かに笑ってお礼をしようとすると、漆黒の騎士の姿は既に消えていた。
――その一時間後。
帝都中央署の門前に、奇妙な贈り物が届けられた。
全身の能力神経を焼かれ、身動き一つ取れなくなった犯罪者グループの面々。
彼らの首には、これまでに行ってきた殺人と収奪、そして――癒着していた汚職警官や、救助を黙殺したヒーローたちのリストが収められたドライブが吊るされていた。
その送り主の名前は、どこにも記されていない。
――支倉邸、地下基地。
重厚なエレベーターの扉が開くと同時に、悠凛は膝から崩れ落ちた。
「……っ、はぁ、はぁ……」
極度の緊張と重圧。
無能力者である彼女が、最新技術という名の鎧を纏って振る舞う強者の演技。その反動が、一気に押し寄せる。
マスクを脱ぎ捨てた悠凛の顔は、真っ白に燃え尽きたように青ざめていた。
だが、地面に倒れるよりも早く。
温かく、しかし逃れられないほど力強い腕が、彼女の体を抱きとめた。
「お疲れ様でした。私の、勇敢な騎士様」
セレスだ。
彼女は悠凛を抱き上げたまま、その首筋に顔を埋め、深く、深く、夜の戦いの残滓を吸い込んだ。
「セレス、離して。今日の活動を分析して……レポートに残さなくちゃ……」
「いいえ。今夜の貴女は、もう私の所有物です」
セレスは悠凛を実験台のようなソファーへ横たえ、うっとりとした瞳で彼女を見下ろした。
メイド服の指先が、悠凛のインナースーツをゆっくりと脱がせていく。
露わになった鎖骨のあたりに、戦いの衝撃でできたと思われる、小さな、紫色の痣があった。
「……あ。……あぁ。また傷を増やして。本当に、貴女という人は」
セレスの指が、その痣を愛おしそうに、そして少しだけ強く、なぞる。
悠凛の体が、痛みと甘美な痺れで小さく跳ねた。
「酷い顔をされていますよ、悠凛様。瞳が、恐怖と興奮で濁っている……。ふふ、誰にも見せられませんね、こんな姿」
「セレス……貴女、また……っ」
「ご褒美の時間です。今夜はたっぷりとお手入れして差し上げます。……朝まで、貴女を構成する全てを、私の愛で上書きしてあげましょう」
セレスがゆっくりと顔を近づける。
二人の吐息が重なり、地下の静寂の中に、濡れた音が密やかに響き始めた。
闇を統べる騎士は、この瞬間にだけ、ただの『一人の少女』へと戻される。
それこそが、彼女が狂気の夜を生き抜くための、唯一の救いだった。




