第31話:雨のあとの雫
ジャスティス・レイが去った後の応接室には、彼が放っていた清冽な空気の残滓が、皮肉なほど白く、濁りなく漂っていた。
「……っ、はぁ、……っ」
悠凛は、自らの肩を抱くようにして車椅子の上で震えていた。
ジャスティス・レイの言葉は、狗道の罵倒よりも、ラフィン・スカルの嘲笑よりも鋭く彼女の心臓を穿っていた。彼が本物のヒーローであればあるほど、あの日、地獄の中で彼のような光を待ち続けていた自分たちが、どれほど無残に切り捨てられたのかという事実が、毒となって全身に回る。
「……お辛いのですね、お嬢様」
背後から忍び寄る、熱を帯びた影。セレスの細くしなやかな指先が、悠凛の凍りついた項に触れた。
「あの方の放つ汚らわしい正義の匂いが、この部屋に、そしてお嬢様の肌にこびりついています。……全て洗い流して差し上げましょう」
――邸内にある、大理石造りの浴室。溢れる湯気と、セレスが選んだ狂おしいほどに甘い香油の匂いが、外界の全てを遮断する聖域を作り出していた。
「……あ、……セレス……」
悠凛の薄い寝衣が、セレスの手によって滑り落ちる。露わになった白い肌には、前回の激闘で負った微かな打ち身や、神経接続の負荷による赤みが、痛々しく、しかし美しく浮かび上がっていた。
セレスは、ずぶ濡れになった自分のメイド服さえ厭わず、悠凛と共に広い湯船へと身を沈めた。背後から悠凛を抱き寄せ、その華奢な肩に、自らの濡れた肌を密着させる。
「……怖いのですね。あの方の光が、あまりに誠実で……あの日、貴女が求めていたもの、そのものだから」
セレスの唇が、悠凛の耳たぶを優しく食む。悠凛は、吐息を漏らしながら、セレスの腕の中で胎児のように身を丸めた。
「……ええ。……憎ませて、くれれば……楽だったのに……。あんなに真っ直ぐ、……独りにしたくないなんて……っ」
「いいのです、お嬢様。……あの方の正義は、あの方のものです。……ですが、お嬢様が流した涙も、あの夜の絶望も、そして今こうして震えている熱も……全て私のものです」
セレスの手が、お湯の中で悠凛の腹部から胸元へと、執拗に、しかし慈しむように這い回る。それは、ジャスティス・レイという他人が残した気配を、自らの執着で一寸の隙もなく塗り潰していくお清めの儀式だ。
セレスは、悠凛の首筋に深く顔を埋め、吸い付くように愛撫を刻んだ。
「……あの日、空から降りてこなかった『光』……。世界が救わなかったというのなら、私たちが奪い取ってしまえばよろしいのです」
セレスは悠凛の顔を自分の方へ向け、その濡れた瞳をじっと見つめた。そこにあるのは、メイドの献身を越えた、共犯者の、あるいは捕食者のような昏い煌めき。
「あの日、届かなかった光を……私たちが、自分たちの手で手に入れましょう。……あの方を引きずり下ろすのか、あるいは、あの方さえも私たちの計算式に取り込むのか。……お嬢様、貴女なら、その『博打』に打ち勝てるはずですわ」
「……私たちの、光……」
悠凛の視界が、熱い湯気と、セレスの放つ独占的な情愛で白く塗り潰されていく。
あの日、自分を救わなかった世界。ならば、その世界が誇る最高の光さえも、自らの足元に跪かせる。
「……ええ。……そうね、セレス。……あの人に、教えてあげましょう。……管理された安全の中に、……私の、私たちの居場所なんて、どこにもなかったことを……っ」
悠凛は、セレスの首に細い腕を回し、その唇を求めた。お湯の熱さと、二人の体温、そしてドロドロとした執着が混ざり合う。
雫が、悠凛の頬を伝い、湯船の波紋へと溶けていった。震えは、いつしか止まっていた。
代わりに戻ってきたのは、ジャスティス・レイという光をさえも利用し、世界を再構築しようとする、冷徹で苛烈な鼓動。
「さあ……お帰りなさいませ、私の坊ちゃま。……今夜も、貴女の闇を、私が誰よりも愛でて差し上げます」
湯気に包まれた密室内で、二人の影は、より深く、より歪に、一つに重なり合った。




