第29話:深淵からの祝辞
燃え盛るビルの火柱が、夜明け前の空をどす黒く染め上げている。
救出された家族の泣き声と、VIPを乗せたカプセルの機械的な警告音が遠くで混ざり合う中、悠凛は煤に汚れた膝を地面につき、荒い呼吸を繰り返していた。
超人的な演算は、ただの人間である彼女の脳に、焼き付くような熱を持たせていた。脳細胞が燃え上がるようだった。
物理定数を極限まで利用した『非効率な全員救済』。それは常人に過ぎない彼女が、自らの命を前借りして成し遂げた、理への反逆だ。
「……あ、は。アハハハハハ!!」
煙の向こうから、乾いた、しかし心底楽しげな拍手が聞こえてきた。
黒い泥にまみれた髑髏――ラフィン・スカルが、影の中からゆらりと姿を現す。その仮面は半分ひび割れ、不気味な笑みを歪ませていた。
「素晴らしい! ブラボーだ、美しい騎士様! お前さんはあの日、ヒーローが……そしてこの俺でさえ切り捨てた『無意味な端数』を、知性と狂気で力ずくで繋ぎ止めてみせた!」
「……逃がさんぞ、ラフィン・スカル。……お前との遊びは、ここで終わりだ」
悠凛は震える手でワイヤーを構えようとするが、指先が言うことを聞かない。オーバーヒートした演算回路が、彼女の運動神経を一時的に遮断していた。
「おっと、無理は禁物さ。お前さんの脳は今、茹で上がった機械と同じなんだからな」
ラフィン・スカルは追い詰める素振りも見せず、むしろ慈しむような足取りで悠凛に近づくと、彼女の耳元に唇を寄せた。その声からは、先ほどまでの狂気的な嘲笑が消え、底冷えするような静かな毒が滲み出ていた。
「おめでとう。お前さんはあの日、誰も選ばなかった『非効率な救済』を成し遂げた。……だがな、ダーリン。一つ教えてやるよ」
ラフィン・スカルは、悠凛の視線の先にある『全員が助かった光景』を、汚らわしいものを見るように指差す。
「お前さんがやったことなんてのはな、この街の連中にとっては最初からなんにも価値がなかったのさ」
髑髏の怪人物は懐から薄汚れた紙切れを取り出し、悠凛のバイザーの前に突きつけた。そこに印字されていたのは、彼女が一生消し去ることのできない、十数年前の【SRPI:救助優先順位リスト】だ
だが、刻まれていた『切り捨ての理由』は、以前の悠凛が知っていたものよりも、遥かに悍ましいものだった。
【第4地区・広域火災事故:救助優先順位(SRPI)リスト】
大臣秘書:近藤氏(ヒーローズギルド予算承認権限者):優先度 S
某メガバンク頭取(特別融資枠保持):優先度 S
……
87. 支倉家(支倉 晃・真亜沙夫妻)
【判定:救助対象外(Exclusion)】
理由:ヒーローズギルド民営化反対派の急先鋒。特別警護契約の締結を拒絶。「ヒーローは公共の奉仕者であるべき」との思想を持ち、ヒーローズギルドの利益に背く。
「ハハハハハ!! 見ろよ、これ! 支倉家ってのは確か大富豪だったよな。だが、お父様は『正義を金で買うのは間違いだ』なんて、古臭い理想を掲げちゃったんだな! つまり、ヒーローズギルドにとって彼らは『金はあるのに利益を生まない邪魔者』だったわけだ!」
ラフィン・スカルは、腹を抱えて笑う。
「だから、ヒーローズギルドは決めた。あの日、彼らを『事故死』させることで、反対勢力を一掃し、ついでにその膨大な遺産を『寄付』という形で吸い上げようってね! なあ、ダーリン。お前さんが信じていた悲劇は、実はヒーローズギルドが仕組んだ『不採算部門の整理』だったのさ!」
「……っ、……な……」
悠凛の全身が、激しい戦慄に震えた。家族を失ったのは、単なる不運や事故ではなかった。父が掲げた高潔な理想が、腐敗したシステムの逆鱗に触れ、自分たちは意図的に見殺しにされたのだ。
「なあ、おい! とんだお笑いだな! 笑い過ぎて腹が痛えぜ! ハハハハハハハ!!」
「あ、……あぁ、ぁぁ……っ!!」
パワードスーツの生体モニターが、異常数値を叩き出す。
悠凛の脳裏に、火の海の中で自分を突き飛ばし、「ヒーローが来るから、信じて待ちなさい」と微笑んだ両親の顔が浮かぶ。
あの時、自分たちを無視して通り過ぎたヒーローの背中は、偶然ではなかった。彼らは無線で、「支倉家は救うな。死なせろ」と命令を受けていたのだ。
仮面の裏側で、悠凛の瞳が濁った憎悪に染まる。
「デタラメを言うな!なぜお前がそんなことを知っている……っ!!」
悠凛はラフィン・スカルに掴みかかった。髑髏の怪人物は胸ぐらを掴まれても動じる素振りすら見せない。
「……知ってるさ。言ったろう。俺は、お前だ。疑うのならあの優秀なメイドに裏を取らせてみな」
ラフィン・スカルは悠凛の手を強引に振りほどくと、背後の炎の中へと溶け込むように後退していく。
「さあ、どうするね、ダーリン。お前さんの復讐相手は定まったぞ! ここからは簡単だ。難しい計算式なんて何も必要ない。あとはただ引き金を引くだけさ。BLAM! 殺せ、殺せ! 狂って殺しまくるのさ! お前さんがトチ狂う、その日を楽しみにしてるぜ!……アハハハハハハハハッ!!」
狂った笑い声が煙と共に消え、後に残ったのは、バチバチと爆ぜる火の粉の音だけだった。
悠凛は膝をついたまま憎悪で血走った目で自らの震える手を見つめた。
「……殺す。……殺してやる……っ! 絶対に許さない……よくもお父様とお母様を……!!」
その時、背後から、温かな、しかし全てを塗りつぶすような熱を持った腕が悠凛を包み込んだ。セレスだ。
「……坊ちゃま」
セレスは、悠凛を壊れ物を扱うように抱きしめる。その手はこれまでにないほど強く、独占欲に満ちていた。
「あんな男の言葉に耳を貸す必要はありません。貴女の憎悪は貴女だけのものです。……貴女のやり方でこの世界を壊せばいいいのです」
「……セレス」
悠凛の震えを、心拍の乱れを、そして沸騰するような殺意を、セレスは全身で受け止め、恍惚とした表情を浮かべる。
「あの日、お嬢様の絶望を無視した世界……。その罪を、今こそ贖わせましょう。……貴女のその美しい怒り、全て私に委ねてくださいませ」
セレスの唇が、悠凛のイヤーカフ越しに、甘い毒のように囁いた。その声が、悠凛の憎悪を、絶望を、甘く深く溶かしていく。
悠凛は、体を小さく震わせながらうわ言のように呟く。
「……この世界を壊そう、セレス。全てが終わったら私と一緒に壊れてくれ」
「もちろんです。愛するお嬢様」
彼女は悠凛の震えを鎮めるように、その肩に深く顔を埋めた。
――数時間後。
鎮火しつつある現場に、一人の男が降り立った。
純白のマントを翻し、神々しいまでの光を放つ帝都No.1ヒーロー――ジャスティス・レイ。
彼は救助された人々には目もくれず、名もなき一人のヒーローが物理演算によって『爆炎を曲げた』焦げ跡を、厳しい表情で見つめていた。
「……計算し尽くされた不条理な救済。秩序に基づかない力か」
ジャスティス・レイの瞳には、疑念と警戒が宿っていた。彼が守る完璧な平和。その均衡を崩す『黒い騎士』への、宣戦布告にも似た静かな眼差し。
朝焼けが、帝都を照らし始めていた。




