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第27話:冷たいゆりかご

 帝都シン・トーキョーの喧騒けんそうを遠く離れた支倉邸はせくらていの最奥。


 外界の光を一切拒絶した寝室は、重苦しい静寂と、微かな消毒液、そしてセレスの愛用する狂おしいほど甘い香油の匂いに満ちていた。


「……あ、……ぁ、……っ……」


 キングサイズのベッドの上で、悠凛ゆりは絹のシーツを血がにじむほどに握りしめていた。


 漆黒の装甲を脱ぎ捨て、薄い寝衣一枚となった彼女の体は、まるで厳冬の湖に投げ込まれたかのように激しく震えている。


「あの日……お父様も、お母様も……ヒーローが……助けに来てくれるって……」


 幼いあの日、無線の向こう側で聞いた男の声が頭の中で反響する。


『――それでいい。正義には、常に優先順位というものがあるからね』


 酷く落ち着いたトーンの、男の声。


 燃え盛る炎の中で命を落とした両親。自分たちを見捨てたヒーローの背中。それらが全て冷徹な計算式の一部であったという事実。そして、自身の理念も効率を優先する形に近づきつつあったという現実。それが、悠凛の魂を内側から削り取っていく。


「坊ちゃま。……いいえ、悠凛お嬢様」


 熱を帯びた、湿り気のある声。背後から、セレスの滑らかな腕が悠凛の細い腰に回り、その震えを封じ込めるように強く、強く引き寄せた。


「……セレス、私は……私は、あの日のヒーローたちと同じ……っ。効率のために、……命を……」

「……しっ。何も言わなくてよろしいのです」


 セレスは悠凛のうなじに顔を埋め、深く、深くその香りを吸い込んだ。


 彼女の手が悠凛の寝衣の紐を静かに解き、冷え切った悠凛の背中と、自らの体温の高い肌を隙間なく重ね合わせる。


「……っ、……あつ、い……」

「ええ、熱いですよ。……私のこの熱だけが、今の貴女を繋ぎ止める真実です」


 セレスの指先が、悠凛の肋骨をなぞり、激しく脈打つ心臓の真上に置かれた。まるで、逃げ出そうとする悠凛の魂をその場所に釘付けにするかのように。


「あの日、神もヒーローも、お嬢様の叫びに応えることはありませんでした。貴女の声に応じたのはこの私だけです」


 セレスが耳元でささやく。その声は、救済の調べであり、同時に逃れられぬ呪文でもあった。


「ヒーローたちは計算機を叩き、神様は居眠りをしていました。……暗闇の底で、泥に塗れた貴女を拾い上げ、その絶望を肯定したのは私だけです。……ですから」


 セレスは悠凛の肩を優しくひるがえし、自分の方を向かせた。涙と汗で濡れた悠凛の瞳に、セレスの深紅の情念が映り込む。


「お嬢様の絶望を笑っていいのは、あのような男ではなく、共に地獄を歩む私だけです」

「……ぁ、……セレス……」


 セレスの唇が、悠凛の震える唇を塞いだ。それは慰めというにはあまりに重く、執着というにはあまりに純粋な、魂の契約。


 セレスの指は止まらない。ラフィン・スカルの言葉によって抉られ、血を流している悠凛の心の傷口を――そして、かつて狗道に汚されかけた、あの夜の記憶さえも――自らの愛撫で上書きしていく。


 セレスは悠凛の鎖骨に、首筋に、そして心臓に近い柔らかな肌に、執着という名の深い口づけを刻んだ。


「……ここは、私の場所。……この痛みも、この震えも、この暗闇も……全て私のものです」


 悠凛は、セレスの腕の中でようやく子供のように声を上げて泣き始めた。論理性も、効率も、正義も、ここにはない。


 ただ、自分を窒息させるほどの重い愛と、肌を通じて伝わる狂気的な温度だけが、彼女に生きていることを実感させていた。


「いい子ですね、お嬢様。……もっと、私に溺れてください。……貴女の全てを、私が独占して差し上げますから」


 暗闇のゆりかごの中で、二人の影は、二度と引き剥がせないほど深く、歪に溶け合っていった。


 ラフィン・スカルが植え付けた毒さえも、セレスにとっては、悠凛を自分に依存させるための甘美なスパイスに過ぎなかった。


 ――夜を支配していた、どす黒い嵐のような情愛の夜が嘘のように引いていく。


 遮光カーテンの隙間から差し込んできたのは、冷たくも美しい、白磁のような朝の光だった。


「……ん……っ」


 キングサイズのベッドの上で、悠凛は静かにまぶたを開いた。


 身に纏うものは、何一つない。一糸纏わぬ完全な素肌が、ひんやりとした朝の空気にさらされている。肌の奥には、夜通し与えられ続けたセレスの愛撫の残熱が、重い鉛のように沈殿していた。


 ゆっくりと上体を起こすと、滑らかなシーツが滑り落ちる。


 光の下に晒されたその肉体――首筋から鎖骨、そして胸元にかけて、容赦なく深く刻み込まれた紅い口づけの痕が、昨夜の濃密で狂気的な交わりの激しさを雄弁に物語っていた。


 だが、不思議なほどに心は静かだった。


 昨夜、あれほど彼女の魂を切り裂き、激しい涙と震えをもたらしたラフィン・スカルの言葉。あの『優先順位』という絶望の毒は、セレスの過剰なまでの狂愛によって完全に中和されていた。


 胸を焦がすような生々しい激痛は消え、今やそれは、脳の片隅で静かに駆動する冷徹な質量へと変貌を遂げている。


 微かな衣擦れの音に気づき、悠凛は視線をベッドの傍らへと向けた。


 そこには、既に一点の乱れもない漆黒のメイド服に身を包んだセレスが、音もなく控えていた。その琥珀色の瞳の奥には、昨夜、主人の全てを独占し、その絶望ごと肉体を貪り尽くしたことへの深い満足感と法悦が、蜜のように湛えられている。


 セレスの視線が、悠凛の肢体を微動だにせず捉えていた。


 衣服という欺瞞の仮面を全て脱ぎ捨て、過酷な鍛錬による傷跡と、自らが刻みつけた鮮血のような愛の痕を晒した主人の姿を、彼女は最高級のアートを崇めるかのように、恍惚とした敬虔な眼差しで見つめている。


 悠凛は、その視線から身を隠そうとはしなかった。恥じらう理由など、どこにもない。


 この剥き出しの肉体、そして他者の評価に決して定義されることのない一糸纏わぬ姿こそが、虚飾に満ちた『支倉悠凛』の皮を剥ぎ取られた自分という存在の本質なのだと、確信していた。


 ラフィン・スカルは、悠凛を絶望の底に突き落としたつもりでいるのだろう。「お前の正義も復讐も、全てはヒーローズギルドのシステムに支配された喜劇に過ぎない」と、あの髑髏の道化は嘲笑ってみせた。


 だが、悠凛の知性は、その絶望の先にある『最適解』を既に弾き出していた。


(システムが命を計算で間引くというのなら――)


 瑠璃色の瞳の奥で、冷たい電子の光が明滅するような錯覚。


(その計算式ごと、あの道化も、ヒーローズギルドも、私がこの手で解体・修正すればいいだけよ)


 ラフィン・スカルが植え付けた絶望は、より深く、より静かな『殺意の演算』へと完全に昇華された。脳内のエラーコードはすべて書き換えられ、新たな駆動プログラムが起動する。


 悠凛はベッドの端へ移動し、傍らに立つセレスの瞳を真っ直ぐに見つめた。


 涙に濡れていたはずの声は、驚くほどにかすれ、しかし冷徹なまでの毅然きぜんさを伴って響く。


「……セレス。いつでも出られるようにしておいて。奴はきっとまた仕掛けてくる」


 その一言を聞いた瞬間、セレスの端正な顔が、歓喜によって歪んだ。主人が絶望に折れることなく、再び戦場という地獄へ戻る決意を固めたことを察し、彼女は狂おしいほどの美しい微笑みを浮かべて深く頭を垂れた。


「――御意にございます、私の坊ちゃま」


 悠凛は、松葉杖を掴むと一切の躊躇なくベッドから滑り降り、その足で床に立った。気を抜くと足の力が抜けそうになる。歯を食い縛り、杖を握る手に力を込めて堪えた。


 朝の光が、彼女の白い肌を、そこに残る紅い痕跡を、そして過酷な訓練によって無駄なく引き締まった背筋のラインを、神聖なまでに鮮烈に照らし出す。


「ラフィン・スカル。貴方は私を、舞台から観客席へと引きずり下ろして楽しむつもりだったのでしょうね」


 声が、冷たい壁に反響する。


「でも、残念。私は貴方の用意した喜劇を、大人しく鑑賞するつもりなんて毛頭ないの。――私が貴方の舞台を、その舞台裏ごと焼き尽くす主役になってあげるわ」


 そこにいるのは、運命に嘆く悲劇のヒロインなどではない。地獄の底からセレスの愛を糧にして這い上がってきた、復讐の女神そのものだった。

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