第26話:泥濘の鏡
帝都の廃材置き場。降りしきる雨が鉄錆と混ざり合い、足元をどろどろとした黒い泥濘へと変えていた。
『ニュクス』の鎧を身に纏った悠凛がその姿を現すと、ラフィン・スカルは興味を失ったように檻を開放した。閉じ込められていた男たちが這うようにして逃げ出す。
髑髏の仮面を被った怪人物――ラフィン・スカルはおもむろに銃を構えた。逃げ惑う男たちの背中を目掛けて鉛玉を見舞う。髑髏の仮面の奥から耳障りな哄笑が響いた。
「ハハハハハハ!」
「貴様……!」
黒い甲冑『ニュクス』が、闇の中で鈍く光った。悠凛は、目の前で軽薄にステップを踏むラフィン・スカルを、殺意の籠もった精密な演算で追い詰める。
「ようやく会えたな、ダーリン! 愛しい人よ! お名前はなんて言うんだい? 『名無し』じゃあセクシーじゃないよな。ああ、待った。名乗らなくていい。……街の人にインタビューしてみよう」
髑髏の怪人物は懐から女の子の人形を取り出す。そして、裏声で腹話術の真似事を始めた。
「ウーティス! あの人はウーティスって言うのよ! 私を助けてくれたの!」
瞬間、怒りが沸き上がった。悠凛が初めて夜の街に舞い降りたあの日。助け出した少女の顔が脳裏に浮かぶ。
「あの少女に何をした!!」
「そう怒りなさんな! ちょいとインタビューをしただけだ。……だが、熱が入りすぎて少し怖がらせちまったかもな。今頃はパパの胸で泣いてたりして」
「ターゲット捕捉。誤差、0.02ミリ。一撃で仕留める……!」
変声機を通した低い声と共に、悠凛の背中から放たれた極細のワイヤーが、ラフィン・スカルの退路を完全に断つ。彼女の動きに無駄はない。最短距離、最小出力、最大効率。それは狗道たちを破滅させた時と同じ、完璧な処刑のプロセスだった。
だが、ラフィン・スカルはワイヤーが首筋をかすめ、鮮血が舞ってもなお、仮面の奥でケラケラと笑い声を上げた。
「ハハハハ! 素晴らしいね! 完璧だ、ウーちゃん! 見惚れるほどに『効率的』だよ!」
ラフィン・スカルはわざとらしく拍手をしながら、ぬかるみの中に尻餅をついた。悠凛はとどめを刺そうと踏み込む。しかし、次の言葉が彼女の指先を凍りつかせた。
「けど、不思議だ。お前さんはあの日、ヒーローズギルドが『効率』を優先して家族を見捨てたことを、あんなに怒っていたじゃないか」
「私の何を知っている……!」
「知っているとも。俺はお前だ」
ラフィン・スカルは泥まみれの手で、自分の胸元を指し示した。
「お前の今の戦い方を見てみろ。周囲の被害を最小限に抑え、敵を最短で処理する。……あの日、現場のヒーローに届いた『VIPを優先しろ』という指令と、何が違うんだい?」
悠凛はラフィン・スカルの胸ぐらを掴む。
「黙れ!」
「お前さんも同じ計算式を使っている。救えるものと救えないものを天秤にかけ、最も『正解』に近いルートを選ぶ。お前が憎んでいるあのシステムと、お前の頭脳、今やそっくりそのまま同じ形をしてるじゃないか。……俺はそいつが残念で堪らん。俺ならそんなやり方はしないね!」
『――坊ちゃま、心拍数急上昇! 脳内神経の負荷が、許容値を超えています!』
イヤーカフから、セレスの悲鳴に近い警告が響く。悠凛の視界に、真っ赤なエラーログが奔流となって流れ出した。
[LOGIC ERROR]
演算プロセスに矛盾を検出。
自己矛盾:100%
「……違う。私は、あんな奴らとは……!」
「違わないね! お前はあの日、ヒーローが切り捨てた『無価値な端数』を、今度は自分の効率のために切り捨てているだけだ。……お前の正義は、あの日お前の家族を殺した『効率』という名の刃、そのものなのさ!」
ラフィン・スカルの言葉が、悠凛の耳奥で鋭い耳鳴りとなって反響する。
「とんだお笑いじゃないか! なあ、おい。早く気づけよ。お前さんのやり方は何もかもが間違っているのさ!」
あの日。燃え盛る家の中で、自分を突き飛ばした母の手。
その尊い犠牲さえも、今の自分の効率的な復讐という計算式の中では、単なる動機付けのデータとして処理されているのではないか?
自分はシステムを壊したいのか。それとも、自分が最も効率的なシステムになりたいだけなのか。
『坊ちゃま! 動きを止めてはダメです! 敵が――!』
セレスの声が遠のく。悠凛の指先から力が抜け、展開していたワイヤーが力なく地面に落ち、泥に埋もれた。
精密だった彼女の演算回路が、自分自身を排除対象として認識し始め、思考が真っ白に塗り潰されていく。
「おっと、バグっちゃったかな? 完璧なマシーンってやつは、矛盾に弱いねぇ」
ラフィン・スカルが泥の中から立ち上がり、悠凛の首元に手を伸ばす。
「なあ、どうして聖人を気取る必要があるんだ、ダーリン? そんなのよりもっと良い方法があるぜ。……お前も俺みたいに狂っちまえばいいのさ!」
その瞬間。
――ドォォォォォォン!!
漆黒の装甲車から放たれた援護の噴煙が、二人の間を切り裂いた。
『……退却しましょう。おのれ、不浄な髑髏男め……!』
セレスの、かつてないほど冷徹で、そして激しい独占欲を孕んだ怒号が響く。
悠凛は、自分の意志ではなく、セレスが遠隔操作で起動した緊急脱出シーケンスによって、闇の中へと引きずり戻された。
――漆黒の車内。
泥に汚れた甲冑を脱ぎ捨てることもできず、悠凛はシートの上で胎児のように丸まって震えていた。
「……セレス。私、……私は……」
「何も言わなくて結構です、坊ちゃま」
セレスは、震える悠凛の頭を自分の胸に強く押し付けた。
その瞳には、悠凛の心を揺さぶったラフィン・スカルへの底知れぬ殺意と、それ以上に、脆くなった主を今すぐどこか遠くへ、誰の目にも触れない場所へ閉じ込めてしまいたいという、狂ったような渇望が渦巻いていた。
「貴女を乱すものは、思想であれ言葉であれ、この私がすべて噛み砕いて差し上げます。……今はただ、私の心音だけを聞いてください。……効率も、ロジックも、ここにはありません」
セレスの指先が、冷え切った悠凛の頬を、まるで壊れた人形を愛でるように這い回った。悠凛の精密な演算回路は、沈黙したままだ。泥濘の鏡に映った自分の姿を、彼女はまだ、直視できずにいた。




