第20話:見捨てられた背中
崩壊した倉庫の瓦礫の下から、絶望的な悲鳴が上がった。
「あ、ああっ……! 助けて、誰か!」
逃げ遅れた作業員たちと、その家族数名が、ひしゃげた鉄骨の檻に閉じ込められている。
そのすぐ側を、巨獣カリュブディスの結晶の棘が、容赦なく地面を穿ちながら通り過ぎていく。
狗道のバイザーには、救助を求める生体反応がはっきりと赤く点滅していた。
「リーダー! 三時の方角、生存者です! 瓦礫をどかさないと、次の咆哮で衝撃波に巻き込まれます!」
メンバーの一人が叫ぶが、狗道はそれを一瞥すらしない。彼の瞳に映っているのは、カリュブディスの眉間――『手柄』という名の標的だけだ。
「放っておけ! たかだか数人の命を救って何になる! この化け物の首を獲らなきゃ、俺たちのキャリアは完全に終わるんだよ! 火力を一点に集中させろ!」
「で、ですが……!」
「逆らうんじゃねえ! 俺こそが正義だ!!」
狗道が放った不安定な重力弾が、カリュブディスの足を止めることもできず、虚しく爆ぜる。その余波で、閉じ込められた人々の上にさらに瓦礫が降り注いだ。
彼らにとって、民間人はもはや『守るべき対象 』ではなく、自分たちの再起を邪魔する『ノイズ』に過ぎなかった。
逃げ場を失った家族の頭上に、巨大な結晶の破片が降りかかる。
「もう終わりだ……」
誰もがそう確信し、目を背けた瞬間。
――空気を切り裂く、鋭い音が響いた。
暗闇から伸びた数条の漆黒のワイヤーが、カリュブディスの放った結晶を空中で絡め取り、凄まじい張力で粉々に砕いた。
「な……んだ、あれは……?」
狗道が呆然と見上げた先。
崩れたクレーンの先端に、月光を背負って立つ影があった。
漆黒の甲冑。流線型のシルエット。そして、深紅に光る単眼。
麗しい令嬢としての面影を完全に消し去った、闇の執行者――『最終装備ニュクス・レクイエム』をその身に纏った支倉悠凛であった。
『坊ちゃま、心拍数が上昇しています。……このまま活動を継続するため肋骨の固定ユニットを最大出力で稼働させます。後で死ぬほど痛むでしょうが、耐えてください』
セレスの冷徹な声が、悠凛の脳内に直接響く。
「……構わん。やるぞ」
悠凛は、重力に従うように垂直に落下した。
着地の衝撃をナノマシンが吸収し、彼女は音もなく瓦礫の檻の前へと降り立つ。
「な、何だ貴様! 邪魔をする気か!」
狗道の怒号を無視し、悠凛はひしゃげた鉄骨に手を掛けた。
『ニュクス・レクイエム』の出力が瞬時に沸騰する。本来、数十人がかりでも動かせない重量の鉄骨が、軋んだ音を立てて持ち上がった。
レクイエムによって痛覚は遮断されているため損傷したままの肋骨も一切痛むことはない。だが、肉体に無理を強いているという実感だけが体中に滲んでいた。厭な冷や汗が流れる。
悠凛は鉄骨を支えたまま声を振り絞った。
「……今のうちに、逃げるんだ」
変声機を通した、地の底から響くような低音。
救出された作業員たちは、ヒーローとは程遠いその禍々しい姿に怯えながらも、必死で安全圏へと走り出した。
悠凛は、いくら怒声を浴びせられても狗道の方を振り返ることはない。
ただ、その背中が雄弁に語っていた。
人々の叫びを無視し、己の虚栄のために力を振るう者。
そして、闇に潜みながらも、守るべきもののために命を削る者。
どちらが本当の優先順位を理解しているか、その静かな背中が突きつけていた。
「貴様ぁ……! お、俺を無視するなぁ!!」
狗道が逆上し、重力波を悠凛の背中へ向けようとした瞬間。
『坊ちゃま、これ以上のノイズは不要ですね。管理者権限により、対象の照準補正を強制遮断します』
セレスが指先一つで、狗道の攻撃を空の彼方へと逸らした。
「……民間人の救助は完了した。あとははカリュブディスを始末するだけだ。一旦そちらに戻るぞ」
悠凛は最後の一人を救い出すと、巨大なワイヤーを射出し、再び闇の中へと消えていく。
残されたのは、自分の攻撃すら制御できず、守るべき人々にも見捨てられた、惨めな『元英雄』の姿だけだ。
カリュブディスの咆哮が、皮肉にも狗道の絶叫をかき消すように鳴り響いた。




