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第2話:閉ざされた地下室の情熱

 帝都シン・トーキョーの街から帰還した悠凛ゆりを待っていたのは、重厚な玄関ホールの静寂せいじゃくと、鼻腔をくすぐる沈香じんこうの香りだった。


「――改めまして。お帰りなさいませ、お嬢様」


 扉を閉めた瞬間、背後から伸びてきたしなやかな腕が、コートの上から悠凛を強く抱きしめた。


 メイド服に身を包んだ女――セレスだ。


 彼女は悠凛の首筋に顔を埋め、まるで外界の汚れを払い落とすかのように、深く、長く呼吸を繰り返した。


「セレス。苦しいわ」

「外界の安っぽい正義の臭いが、お嬢様の清らかな肌を汚しておりますわ……。ああ、いたたまれない」


 セレスの声は慈愛に満ちていながら、どこか獲物を締め上げるような狂気を含んでいる。彼女にとって、シン・トーキョーの光の下を悠凛が歩くことは、それだけで耐え難い『屈辱』に他ならなかった。


 セレスは悠凛を半ば抱きかかえるようにして、屋敷の奥――隠されたエレベーターへと導いた。


 支倉邸の地下深く。分厚い鋼鉄の扉の先。


 そこは、最新鋭のハッキングデバイスと兵器、そして一体の漆黒の甲冑かっちゅうが鎮座する、二人だけの聖域だ。


 冷たいコンクリートの壁に囲まれたこの場所だけが、悠凛にとって唯一、息を吸うことが許される空間だった。


 「さあ、お召し替えを。汚れた記憶も、忌まわしい外界の塵も、すべてわたくしぬぐい去って差し上げます」


 セレスは悠凛の背後に立ち、ドレスのファスナーを静かに下ろしていく。


 絹の衣が床に落ち、現れたのは、ドレスの下に隠されていた、過酷な鍛錬によって引き締まった肢体だ。浮き出た腹筋、無駄のない背筋のライン、そしてガジェットの反動に耐え続けてきた手のひらの硬いマメ。


 社交界の花としての華奢きゃしゃさはどこにもなく、そこにあるのは、獲物をほふるためだけに研ぎ澄まされた鋼の彫刻だった。


 彼女の細い体は、鋭利な刃物のような緊張感すらたたえている。だが、セレスの指先が触れるたび、その刃はもろく、熱を帯びてしなった。


 悠凛の白くて細い喉からは微かな声が漏れる。


「……あ、……っ」

「お嬢様、そんなに震えて……。外界の視線が、それほどまでに恐ろしかったのですか? それとも、あの傲慢な『ヘヴィ・レイン』への憎しみが、貴女を焼いているのですか?」

「……あんな男のことなんてどうでもいいわ。私が憎んでいるのは全てよ。この世界の全て」

「ああ、それでこそお嬢様です」


 セレスは、悠凛の背中のラインをなぞるように、冷たい消毒液を含んだガーゼを滑らせた。それは、戦いへ向かう前の“お清め”であり、悠凛を自分だけの騎士へと作り替えるための、神聖で背徳的な儀式だった。


「……っ」


 セレスが、悠凛のうなじに顔を埋め、深く息を吸い込む。


 香水の匂いを嫌う彼女は、自らの手で清めた後に残った悠凛の肌の香りを幸福そうに噛み締めていた。


「悠凛様。今夜は、どのガジェットをお望みですか?」

「一番強力なやつを。……狗道たちが『救う価値がない』と捨てた人々が、今も助けを待っている」


 セレスの手が、悠凛の胸を“さらし”で強く、強く締め上げていく。


 呼吸が苦しくなるほどの圧迫感。それが、悠凛を令嬢から騎士へと変える変身の痛みだ。


 セレスは次に、漆黒のインナースーツを悠凛の肌に密着させていく。


 胸元は既に“さらし”によって締め上げられ、女性らしい曲線は強引に消し去られている。その上から今度は鋭角的な装甲を組み付けていった。


「ああ、素晴らしいです……。誰にも見せず、誰にも知られず。貴女のその強さも、孤独も、流れる汗も……全て、私のものです」


 セレスは陶然とうぜんとした表情で悠凛を見上げる。


 そこには、先ほどまでの没落令嬢の弱さはなかった。


 漆黒の甲冑に身を包み、鋭いバイザーを装着する準備を整えた、無慈悲な復讐の代行者がいるだけだった。


「さあ……顔を上げてください、私の『坊ちゃま』」


 セレスが悠凛の顎をすくい上げる。スーツに身を包んだ彼女の前に、漆黒のバイザーをうやうやしく捧げた。


 悠凛は、バイザーを手に取り、自らの瞳を闇の中に隠した。


 眼前にシステムの起動メッセージが映し出される。


『Et in Arcadia ego(我アルカディアにもあり)』

 

 そこに立っているのは、もはや可憐な令嬢ではない。


 バイザー越しに冷酷な計算結果を弾き出す、死神のような瞳。犯罪者たちがその姿を垣間見るだけで震え上がる、夜の深淵そのもの。


 支倉家の資産を湯水のように注ぎ込んで開発された漆黒の流線型スーツ。あざなは『ニュクス』。物理演算とワイヤーアクションに特化した、復讐の翼だ。


「世界が貴女を忘れ、正義が貴女を見捨てても、私は『坊ちゃま』だけを見つめ続けましょう」


 セレスはひざまずき、甲冑に包まれた悠凛の手の甲に、所有を誓う深い接吻せっぷんを落とした。


 地下室の冷たい空気の中、二人の歪な情熱が火花を散らす。


 外界を支配する偽りの太陽が沈む頃、この地下深くから、帝都の喉元を切り裂くための“夜”が産声を上げた。


「行くぞ、セレス。掃除の時間だ」

 

 冷たく、低い声が響く。


 漆黒の装甲車が、月明かりを切り裂いて夜の街へと駆け出した。

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