第16話:仮面の下の脆さ
地下基地の静寂は、時として地上よりも残酷に真実を暴き出す。
ハイテク機器の規則的な電子音だけが響く私室で、悠凛は白い寝衣に包まれ、ベッドに横たわっていた。
漆黒のパワードスーツも、声を低く変えるボイスチェンジャーも、今はここにはない。
「……あ、……」
悠凛は、水のグラスが置かれたサイドテーブルに手を伸ばそうとした。
だが、指先がわずかに震え、重力に抗うことすらできずにシーツの上へ力なく落ちる。
戦場では数多のガジェットを操り、死神として振る舞うその指が、今はたった一杯の水すら掴めない。
「無理をなさらないでください、お嬢様」
扉の影から現れたセレスが、音もなく歩み寄り、グラスを手に取った。
彼女は悠凛の背中にそっと手を回し、上体を起こす。折れた肋骨が動くたび、悠凛の喉から小さな、掠れた悲鳴が漏れた。
「……ごめんなさい、セレス。情けないわね、私は」
「いいえ。この脆さこそが、貴女の真実。そして、私だけが知ることを許された特権です」
セレスはスプーンで一口ずつ、丁寧に、慈しむように水を悠凛の唇へ運ぶ。
常に完璧な『男装の執行者』として、誰にも隙を見せず、孤独に戦ってきた悠凛。だが、今、セレスを見上げるその瞳には、隠しきれない脆弱さが滲んでいた。
不意に、悠凛の目尻から一筋の涙が溢れ、頬を伝う。
それは肉体の痛みゆえか、あるいは、たった一人で背負い続けてきた『復讐』という重圧の反動か。
「……おや。泣いていらっしゃるのですか? 帝都を震え上がらせる『無銘の騎士』が」
セレスが、酷く甘い、しかし独占欲に満ちた声で囁く。
彼女は指先でその涙を拭い、そのまま悠凛の頬を深く、愛おしそうに撫でた。
「……貴女にだけは、勝てないわ。セレス」
悠凛の声は震えていた。
指先をセレスのメイド服の袖に絡め、縋り付くように握りしめる。
その手の震えは、この数年間、誰にも見せてこなかった支倉悠凛という一人の少女の叫びだった。
セレスはその手を握り返さない。代わりに、悠凛を包み込むように、その細い肩に顔を埋めた。
――セレスの脳裏に、古い記憶の断片が過る。
それは、雪の降る冷たい夜だった。
異能の暴走で親を失い、路地裏で泥を啜っていた名もなき子供の自分。
差し伸べられたのは、神の手ではなかった。
支倉家の令嬢として、まだあどけなさを残しながらも、その瞳に世界への絶望を宿していた幼い頃の悠凛の手だった。
『貴女、名前は?』
「……名前なんて、ない」
『なら、今日から私の「影」になりなさい。私が壊れる時が来たら貴女にも一緒に壊れて欲しいの。そう約束してくれるなら私が貴女を守ってあげる』
傲慢な女だ、と思った。金持ち特有の思考。人をモノか何かだと思っている。
女を忌々しげに睨みつける。
「……それは、私があんたを壊してもいいってことだよね?」
「ええ、そうね。そうしたいならもちろん構わないけれど。でも、私は簡単には壊れないわよ」
女は無邪気に笑った。
この女は、全てを失ってなお気高さを保っている。それが何より気に入らなかった。
――私は、こんなに。こんなにも汚れているのに。
この女を、汚して、壊して、堕として、自分のモノにしてやりたい。
名もない子供だったセレスは、差し伸べられた悠凛の手を取った。
あの時、感じた想い。あれこそがセレスの初恋だったのだ。
セレスにとって、悠凛は自分を拾い上げた『神』であり、同時に、自分が守り、汚し尽くし、最後に独占すべき『獲物』だった。
「……貴女がかつて私を地獄から救い出したように、今度は私が、貴女を『正義』という名の地獄から守って差し上げますね」
セレスが、悠凛の耳元で熱っぽく囁く。
「誰にも、貴女を渡さない。ジャスティス・レイも、狗道も……貴女を傷つける全てを、私がこの手で消し去ります。ですから、悠凛様……」
セレスの手が、悠凛の背中を、まるで鎖で繋ぎ止めるように強く抱きしめる。
「……貴女はただ、私の腕の中で、弱く、美しく、壊れていればいいんです」
「……ええ。……ええ、セレス……」
悠凛は、逃れられない愛着と依存の中で、セレスの香りに身を委ねた。
仮面の下に隠されていた脆い心。
それを唯一暴くことができる共犯者との時間は、痛々しくも、狂おしいほどに甘美だった。
二人の影が、薄暗い部屋の壁で一つに溶け合う。
復讐の旋律が、少しずつ乱れ始めていることもまだ知らずに。




