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第15話:鏡合わせの絶望

 地下基地の医務室。まばゆいほどの無機質なホワイトライトの下で、悠凛は白いシーツに身を横たえていた。


 肋骨を固定する包帯が巻かれるたびに、肺の奥を刺すような鋭い痛みが走る。


 だが、その痛みをなぞるセレスの指先は、驚くほど熱く、潤んでいた。


「……あ、っ……」

「声を出してもよろしいのですよ。ここには、貴女と私しかいないのですから」


 セレスは、悠凛ゆりの傷跡にそっと唇を寄せた。


 それは治療の続きか、あるいは新たな刻印か。悠凛は混濁する意識の中で、自分がセレスという深淵に、一歩ずつ、しかし確実に沈んでいくのを感じていた。


 この痛みは、生きている証だ。そして、自分が誰かの『所有物』であるという、残酷なまでに美しい証明だった。


 ――その光景から十数キロメートル離れた、帝都の掃き溜めのような安アパート。


「……クソがっ! なんで、なんで俺がこんな目に……!」


 狗道くどうは、酸鼻を極める悪臭に満ちた部屋で、安酒の瓶を壁に叩きつけた。


 かつてのきらびやかなパワードスーツも、数百万人のフォロワーも、今はもうない。


 手元にあるのは、液晶が割れたスマートフォンだけだ。画面には、今もなお彼を罵倒し、嘲笑あざわらうコメントが滝のように流れ続けている。


『無能リーダーのヘヴィ・レイン、今日も酒浸さけびたりか?』

『支倉お嬢様を捨てた罰だな。一生泥をすすってろ』


「黙れ……黙れ黙れ黙れぇ!!」


 工藤は吐瀉物にまみれた床にいつくばり、虚空に向かって叫んだ。


 かつての英雄の面影はどこにもない。脂ぎった顔、充血した瞳、震える指先。


 彼の絶望はただただ醜く、腐臭を放っていた。


 ――セレスが悠凛の胸元に耳を当て、心音を確認しながらささやく。


「……坊ちゃま。狗道様のバイタルデータが、予定通りの『臨界点』に達しました」


 悠凛は薄く目を開き、天井のライトを見つめた。


「そう……。人間は、全てを失った時、最後に『憎しみ』という名の麻薬に頼るものよ。……彼も、もうすぐその麻薬に手を出すわ」

「ええ。そして、その売人が、今まさに彼の玄関を叩いています」


 ――ドンドンドンドン。


 狗道の部屋の扉が、不気味なほど正確なリズムで叩かれた。


「……誰だ。警察か? それとも借金取りか!?」


 狗道が怯えながらドアを開けると、そこには仕立てのいいスーツを着た、影のような男が立っていた。


 男のスーツの胸元には、この世界の『正義』そのものであるヒーローズギルドのシンボルを模したタイピンが光っている。


「狗道様。……貴方に、最後の『チャンス』を差し上げに参りました」


 男の声には、感情が一切こもっていなかった。


 だが、その手には一本の黒い流体が入ったアンプルが握られている。


「これは……?」

「再起の鍵です。これを打てば、貴方は失った名声も、力も、そして自分を裏切った支倉悠凛への復讐も……全てをその手に取り戻せる。シュバルツ理事長は、貴方のような不遇な才能を決して見捨てはしません」

「復讐……。支倉悠凛に、復讐……」


 狗道の濁った瞳に、どす黒い火が灯った。


 それが、自分を破滅へと導く禁忌の誘いであることも、誰かの計画の一部であることも、今の彼にはどうでもよかった。


「よこせ……。それを、俺に、よこせ……ッ!」


 狗道が、獣のような形相でアンプルに飛びつく。男は冷酷な笑みを浮かべ、それを差し出した。


 ――地下基地で、悠凛はセレスの腕の中で小さく呟いた。


「……計画通りかかったわね」

「はい、坊ちゃま。これで役者は揃いました」


 セレスは悠凛の髪を指でき、その額に深い接吻せっぷんを落とした。


「さあ、最高の舞台を整えましょう。……世界が、偽りの光の真実を知り、貴女という『闇の騎士』にひれ伏すその日のために」


 悠凛は痛む胸を押さえながら、静かに目を閉じた。


 セレスは、悠凛の寝顔を見下ろしながら思考を巡らせる。


 彼女の目論見通りならば、あの場に現れるのは“帝都No. 1ヒーロー”ジャスティス・レイの使者であるはずだった。


 正義の裏側にいる何者かは暗躍し続ける『闇の騎士』の存在を目障りに感じているはずだ。


 落ちぶれた狗道のような駒がいれば、利用してそれを排除しにかかるだろう。


 相手が狗道ならば例え襲ってきたとしても無力化する手段はいくらでもある。悠凛が負傷して戦えない状態であったとしても何も問題はない。


 あとは、芋づる式に狗道から裏の存在についての情報を引きずり出せばいい。


 その、はずだった。


 だが、いまがたの男はジャスティス・レイではなくヒーローズギルドの最高責任者、シュバルツ・S・シライシの名を出した。


 これが、何を意味するのか。


 単にシュバルツ理事長の名を隠れ蓑に使っているのか。ジャスティス・レイとシュバルツ理事長は共謀関係にあるのか。それとも。


 負傷のせいで思考が鈍っているのか悠凛はまだこのことに気付いていない。


 本来ならばすぐにでも知らせて計画の修正をするべきだが――。


 セレスは黙ったまま眉間に深い皺を寄せた。


 そして、眠っている悠凛の頬にそっと手を添える。


「……どうか今はおやすみなさいませ、お嬢様。せめて良い夢を」


 セレスは何も告げずにただ口づけを一つ落とした。

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