表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/24

第12話:結実する噂

 その噂は、静かに、しかし確実に帝都中に広がっていた。


「ねえ、知ってる?」


 ミルクホールの片隅で、若い女性が声をひそめる。


「最近出るっていう、“黒い怪人”」

「黒い怪人?」


 向かいの友人が首を傾げる。


「なにそれ。英雄ヒーローなの? それとも悪党ヴィランなの?」

「なんか……普通のヒーローとは違うんだって」

「どう違うわけ?」


 言葉を探すように、少し考える。


「ヒーローなんだけどヒーローじゃないみたいっていうか」

「だから、どう違うのさ」

「助けられた人が言うにはね……すごく怖かったって」


 笑いながら言う。


 だが、その笑いはどこか引きつっていた。


 ――別の場所。


「……ああ、奴か」


 包帯を巻いた男が、静かにつぶやく。救急処置室のベッドの上だ。


「助けられたんですか?」


 看護師の問いに、男は少しだけ黙り込む。


「……分からない。気づいたら、何もかも終わっていた」


 記憶は曖昧あいまいだ。暗闇。何かが動く気配。


 そして、音もなく誰かが倒れていく。


「でも、確かに俺は助かった」


 その事実だけは、はっきりしている。


「ただ……」


 言葉が、止まる。


「あれは……ヒーローなのか?」


 誰にともなく、そう呟く。


 すると、ベッド脇にいた少女が声を上げた。


「ヒーローだよ! ウーティスはこの街のヒーロー!」

「ウーティス?」

「あの人が自分でそう言ってた」

「でも、あれは……いや、お前がそう言うなら、きっとそうなんだろう」


 男は娘の頭を優しくでた。


 ――ネット上。


《また出たらしいな、例のやつ》

《未登録ヒーローな》

《動画見た? 動きヤバいぞ》

《でもさ、やり方エグくない?》

《犯罪者相手なら別にいいだろ》

《いやいや、俺らが巻き込まれたらどうすんだよ》

《むしろ被害減ってるって話じゃん》

《ヒーローって感じしないんだよな》

《分かる。なんか淡々と処理してるって感じ》

《怖すぎて笑えん》

《でも正直、あいつが一番仕事してない?》


 意見は、皆バラバラだった。


 称賛と、不安。肯定と、拒絶。


 どちらも、確かに存在している。


 ――そして。


「……噂になっておりますね」


 支倉邸。


 広いリビングで、メイドのセレスがタブレットを差し出す。


 そこには、無数の書き込みや記事が並んでいた。


「ええ」


 ソファに腰掛けた悠凛ゆりは、それを一瞥いちべつする。


 特に驚きもない。


「想定通りかしら」

おおむねは」


 セレスは淡々と答える。


「評価は二分されています。『有能だが危険』『効率的だが非人道的』」

「的確ね」

「称賛もございますが……恐怖の方が強いようです」

「恐怖?」


 その言葉に、悠凛の瞳が曇る。


「……そう」


 セレスは彼女の様子を見てわずかに眉を動かした。


「悠凛様。むしろちょうどいいのではございませんか?」


 セレスは静かに微笑んでいた。


「ちょうどいい?」

「ええ」


 タブレット端末の画面を伏せる。


「お嬢さまは別に好かれる必要はございませんので」


 その言葉は、あまりにもあっさりとしていた。悠凛も思わず呆気に取られる。


「……すごいことを言うわね、貴女」

「そうですね。では、少し訂正させていただきます。お嬢様は人に好かれてください。ですが、の存在は好かれる必要はございません。むしろ人々から恐れられているのは好都合です」


 セレスは悠凛の肩に手を回す。


「恐れられているということは犯罪の抑止にはなっている、ということですから」


 理屈としては、正しい。だが――。


「……その分だけ間違いなく反発も強まるわ」


 悠凛が静かに言う。


「ヒーローというのは、本来は人々に“安心”を与える存在だもの」

「ええ。結果的にお嬢様はその逆をしてらっしゃいますね」


 セレスの声色には迷いがない。


「それでも――」


 窓の外を見る。穏やかな街並み。


 だが、その裏で何が起きているかを、二人ともが理解している。


 セレスの伸ばした手が悠凛の白くて細い指を絡めとる。


「このやり方でしたら、お嬢様の手は助けを求める誰かに届きます。そうではないですか?」

「……そう。そうね。だったら、それでいいわ」


 その言葉は静かで、どこか諦めにも似ていた。 

 

 ――裏社会。


「……例の奴、また出たらしい」


 薄暗い部屋。男たちが、低い声で言葉を交わしている。


「近づくなよ。マジで消されるぞ」

「消されるって、殺されるのか?」

「いや……」


 一人が、言葉を濁す。


「それが、分からねえんだよ」


 沈黙。


「殺されはしねえらしい」

「は?」

「でもな……」


 その男は、わずかに顔をしかめる。


「死んだ方がマシだったって顔してるんだよ、みんな」


 空気が冷える。


「……なんだそれ」

「分かんねえよ」


 だが、確かなのは一つ。


「関わらねえのが一番だ」


 誰も反論しない。それが、答えだった。


 だが、その時。


 闇の中で声がした。地獄の底から響いてくるような低い声だ。


「私に関わらないのは不可能だ。お前たちが悪事に手を染めている限りはな」


 悲鳴が上がる。そして、鈍い音。男たちは次々と地面に倒れていった。


 ――その夜。


 仕事を終え、屋敷に戻った彼女は屋上に立っていた。


 重いスーツを脱ぎ捨てた後もどうしても眠ることができなかったのだ。


 風が、静かに吹く。


 遠くに広がる帝都の街の灯り。


 そこに生きる人々。


 彼らは、彼女を知らない。理解もしない。


 ただ、噂だけが広がっていく。


「……怖い、か」


 疲れきった顔で、小さく呟く。


 その言葉に、特別な感情はない。ただの、事実として受け止める。そのはずだった。


「それでもいいわ」


 誰に言うでもなく。


「それで、犯罪が止まるなら……」


 犯罪が減るのならば。誰かが傷つかずに済むのならば。


 それでいい。自分の発した言葉を嚙み締める。


 だが、悠凛の呼吸は静かに乱れ始めていた。


 「はっ、……っ、あ、……ぁ……っ」


 冷たい地面の上でうずくまり、自分の喉を掻きむしる。


 視界が赤く染まった。十数年前の紅蓮の炎が脳裏を埋め尽くす。


 肺に送り込まれる酸素が、熱いすすのように感じられた。


 指先が冷え、意識が虚無へと溶けていく。


 その背後に、静かに立つ影があった。


 「……また、あの日へ行こうとしておいでなのですか」


 影のような静寂が悠凛を包み込んだ。セレスだ。


 彼女は過呼吸で震える悠凛を、背後から無慈悲なほど強く、鉄のかせのように抱きしめた。


「やめ……て、セレス、……熱い、の、……あの炎が、まだ……っ」

「いいえ、熱くなどはありません。今、貴女を焼いているのは私という『現実』です」


 セレスは悠凛のうなじに顔を埋め、震える鎖骨の辺りを、鋭い犬歯で深く噛んだ。


「――っ!? あ、……っ!」


 鋭い痛みが、火花のように悠凛の神経を走る。


 過去の幻影が、その鮮烈な『痛み』によって一瞬で弾け飛んだ。


「……落ち着かれましたか? 汚れた記憶が貴女をむしばむなら、私がそれ以上の刺激で塗り潰して差し上げます」


 セレスの手が、悠凛の薄いシャツの下へと忍び込む。


 冷たい指先が、熱を持った悠凛の肌を執拗に這い回った。それは愛撫というにはあまりに支配的で、暴力的なまでに確かな質感を伴っていた。


「……あ、……ぅ、……せ、セレス……」

「これこそが、貴女の望んだ復讐者の姿。世界に価値を否定され、誰からも見られず、ただ私という支配者だけにその身を委ねる、空っぽの器。……さあ。お清めを続けましょうね」


 セレスは悠凛の耳元で、とろけるような、しかし逃げ場のない声で囁き続ける。


 彼女の指と舌が、悠凛の呼吸を、鼓動を、そして脳内の数式さえも、快楽という名のノイズでき乱していく。


 火の粉の舞う幻覚は消え、代わりに悠凛の視界に映ったのは、自分を覗き込むセレスの、狂おしいほど美しい漆黒の瞳だった。


「……はぁ、……はぁ、……っ。……セレス、……苦しい、わ」

「ええ。その苦しさこそが、今、貴女が生きているという証明です」


 セレスは悠凛の涙を舌ですくい、満足げに微笑んだ。


 悠凛は力なくセレスの腕に身を預ける。


 過去という亡霊から自分を引き剥がしてくれるのは、いつだってこの、毒のように甘く、刃のように鋭いセレスの愛だけだった。


「……ねえ、セレス。本当に恐怖だけで全てが上手くいくと思う?」

「必ず上手くいきますとも。貴女を否定したこの街を、私たちの手で否定するのです」

「……ええ、……そうね。セレス」


 悠凛の瞳から混濁が消え、冷徹な光が戻る。


 街では、噂が広がり続けている。


 英雄か。怪物か。


 その答えは、まだ誰にも分からない。


 ただ一つ確かなのは。その存在が、この街に変化をもたらし始めているということだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ