19.かわいいタヌキだから、許してしまうのだ
夏休みが始まって一週間。最初の日曜日の朝一に、私は世菜先輩と学校の近くの図書館で待ち合わせていた。
「世菜せんぱーい」
自転車で図書館に行くと、先輩が駐輪場の入口で待っていた。
急いで自転車を停める。
「暑いんだから中で待っててくれて良かったのに」
「俺も今来たところだから」
そう言ってふにゃっと笑う先輩は、私服姿でなんだか新鮮だ。
紺色の五分袖の前開きのシャツの中に白いシャツ、ボトムは黒いデニムだ。
似合っているかどうかで言えば、花丸だった。
「……先輩、意外と太いですよね」
「太ってるかな……?」
先輩はショックそうな顔でお腹をさすった。
「そうではなくて。腕とか脚とか、筋肉あるなーって」
「まあ、毎日土いじりしてるし、自転車で通ってるからね」
そりゃそうなんだけどさ。
でも、なんていうか、太くて血管が浮いた腕や、筋張って大きい手とか、いいよね。
普段は幅が広めのスラックスかジャージだから気づかなかったけど、先輩は太腿も意外と太い。
それに、私服で並ぶと、思っていたよりも先輩は背が高かった。藤也がたしか百八十ちょっと。それよりは低いけど、私より二十センチ近く高くて、そわっとする。
「えっと……私服は制服とはまた違って、悪くないですね、みたいな……」
いいと思いますとは、恥ずかしくて言えないから誤魔化した。
「もー、暑いから中に入りましょう! 宿題しなきゃ」
「あのさ、暑くて転びそうだから手をつないでもらってもいい?」
「いいですけど、なんですか、その苦しい言い訳」
「言い訳なしに手をつないでって言えないから」
先輩は情けない顔で私に手を差し出した。
駐輪場から図書館まで大した距離じゃないし、手は汗でベタベタだけど、それでも先輩がそうしたいなら、私としても吝かではないです。全然。
手を取って図書館の入り口に向かうと、先輩が私を覗きこんだ。
「花菜ちゃんの服もかわいいね。すごく似合ってる」
「そ、そうですか?」
「うん。いつもの制服もかわいいけど、今日もとてもかわいい。もっと上手く褒められたらいいんだけど」
私は衿付きで袖がひらひらしたシャツに膝上丈のキュロット。無難なキレイめなのは完全にママの趣味だ。
髪は先輩がくれたお土産に入っていた、ハイビスカス柄のシュシュでまとめていた。
「えっと、大丈夫です。伝わってます」
「そう? 抱えて持って帰って二十四時間かわいがりたいくらいかわいい」
「それはちょっと気持ち悪いです」
「ごめん、本音が隠せなかった」
本音なのか……。
突っ込みたかったけど、その前に図書館に着いた。中に入るとエアコンが効いて涼しい!
「わー、気持ちいい」
「生き返ったわ。自習室って二階だっけ」
「先に読書感想文の課題図書探していいですか?」
「俺も探す」
一緒に本棚に向かうと、すぐ手前に読書感想文コーナーができていた。小学校から高校までの課題図書やおすすめの本が並んでいる。
「あ、これ……先輩、手を離さないと本が取れないんですけど」
「やだ」
「ヤダじゃないんですよ。宿題しにきたんですから。また帰りにつないであげますから」
「絶対つないで」
「子どもか……?」
なんとか先輩の手を離して、本を選んだ。
戦後の植林についての本があったから、それにした。
先輩も、似たような砂漠地帯の植林と保水についての本を選んでいた。
借りたら、二階の自習室で宿題だ。
端の席に、先輩と向かい合わせで座った。
先輩たちからレポートを借りて学校でコピーさせてもらったものを持ってきたから、なんとかなるはずだ。
「えっと、古典が枕草子か和泉式部日記か紫式部日記のどれかの感想文……国語と漢文もそれぞれレポート必須とか! 数学が、なにこれ、好きな数式とその理由……? 何言ってるの?」
「数学は毎年それだね。考えるな、感じるんだ」
「なんでしたっけ、それ」
「燃えよドラゴン」
「先輩、映画好き?」
「別に。弟が好きで見てるから、面白そうだったらチラ見するくらい」
「弟いるんだ?」
「兄と弟がいる。この服は兄から借りてきた」
「ふうん。センスのいいお兄さんですね」
「兄の服全部もらってくる」
「追い剥ぎじゃないですか」
どうでもいいことを話しながら、まず古典の教科書をめくった。枕草子にしようかな。春は曙、夏は夜。いいことを言う。私も冬の朝に畑の霜柱を踏むのは大好きだ。
パパが大河ドラマ好きで、昔の紫式部が主人公のドラマを見ていたから、ついそれで絵面が浮かんでしまう。
ざっと枕草子の内容と時代背景を書いて、私の好きなところや同意できること、よく分からないことを書いて、最後にそれっぽくまとめておしまい。
数学はどうしよう。数式に好きも嫌いもない。
顔を上げたら先輩が真面目な顔でシャーペンを走らせていた。
ふわふわの髪がエアコンの風で揺れていて、前髪の向こうにたまに見える茶色の丸い目が、透けるようにキラキラと光っている。
もうちょっと、見せてほしいな。
「花菜ちゃん?」
「あ……すみません」
つい手を伸ばして、先輩の前髪を避けていた。
「どうしたの」
「先輩の目が見えなかったから、髪を避けちゃいました」
「見たかった?」
「ちょっと。でも、あとでいいです。この意味不明な宿題をしないといけないので」
先輩の顔から目をそらした。
数式についてのレポートは毎年同じって言ってたから、先輩たちのレポートを見せてもらおう。
「それ、別に好きなのはないって書いても大丈夫だよ」
「そうなんですか?」
「うん。去年の三年生の先輩……の知り合いがそう書いて、ちゃんと理由とか今まで習った数式についても書いたら満点だったって聞いた」
「知り合いの知り合いかあ」
「まあ、そっちの方が大変だと思うけど」
先輩は苦笑して、私の手元のレポートを指した。
「俺は集合と論理のことを書いた。いいよね、分かりやすくてきれいな式ができる」
正直全然意味が分からなかった。
何言ってるんだこの人。
藤也や桔花、蓮乃みたいに頭が良ければ分かるのかもしれない。
単に私が数学にも数式にも何の興味もないから分からないんだろうけど。
「世菜先輩。私には全然意味が分からないので、そういうことを書こうと思います」
「いいと思う」
先輩は微笑んで、自分の宿題を再開した。
なんやかんや手を動かして、気づいたら昼を過ぎていた。
「だー、終わった! 古典と数学のレポート、終わった!」
「お疲れさま。俺も化学と日本史がだいたい書けた」
「お腹空いちゃいました。先輩、お昼どうしますか?」
「適当に食べて帰ろうかと思ってた。花菜ちゃんも一緒に食べませんか?」
「はい!」
ノートや教科書、借りてきた本をカバンに突っ込んで席を立った。
自習室を出ようとしたら、先輩に腕を掴まれた。
「手、つないで」
「甘えん坊なんですか?」
「そうだよ。つないで」
「いいですけども」
先輩の手はエアコンに当たっていたからかひんやりした。
でも図書館から出たら、暑い!
駐輪場で自転車にまたがって、お昼を食べに行く。この間はメックに行ったから、今日はソイゼだ。
先輩はドリアとハンバーグのプレート、私はスパゲッティとサラダ。
「……先輩、意外と食べますよね」
「そう? 男子高校生ならこんなもんじゃない? 友達と行くと、もっと食べてるよ。これにピザとサラダを足したりする」
「女子だと、たぶん私がたくさん食べる方ですよ。あ、デザート頼んでいいですか?」
「いいよ。そういえば、ここでデザート食べたことないや」
首を傾げる先輩に、デザートのメニューを向けた。
「もったいない! じゃあこのジェラートとプリンのセットにしますから、一緒に食べましょう」
「あーんしてくれる?」
「それ、いつも言ってるんですか?」
「生まれて初めて言った。違うな、保育園のときに、嫌いな野菜を食べさせてもらうときに言ったかも」
「私は保母さんですか」
「ううん、世界一かわいい女の子だと思ってます」
先輩はいつものようにふにゃっと笑った。
なんだ、この人。
甘えてるのはそうなんだろうけど、情けないことを言うかと思えば、私のこと好きなのかな? みたいなことを言ってきて、よく分かんないし面倒な人だ。
かわいいからって、つい許しちゃうのがダメなのかも。
「先輩、タヌキみたいですよね」
「全部本心です」
「そうじゃなくて、顔が」
「顔!?」
「世菜先輩はタヌキみたいで、かわいいね」
「褒められるかなあ」
「褒めてます。かわいいから、私は大体のことを許せちゃうんです」
先輩は「どういうことだ?」と困った顔になった。
罠にかかって動けなくなったタヌキみたいでかわいいから見ていたら、デザートが運ばれてきた。
昔、藤也のお母さんの花音さんも「顔がよければ大体のことは許せるよ。藤乃さんはすぐメソメソするし、無愛想でお客さんとのコミュニケーションに難があるときもあるけど、たぶんあの顔の良さで乗り切ってるときがある」って言っていたし。
……だから、先輩を好きな女子が写真を使って遠回しに私にマウントするなんて、間抜けなことされたんだけど。
まあいいんだ。次やったら、先輩ごと切るか、本人を直接潰すから。
食べ終わったら解散……って思ったけど、先輩は家まで送ってくれた。
「私、まだレポート残ってるから、また一緒に勉強してもらってもいいですか?」
「いいよ。次はティラミス食べたい」
「わかりました。じゃあまた明日、学校で」
手を振ったら、先輩はその手にちょっとだけ触れて走っていった。
ついパパや柚希に見られていないか、周りを確認してしまった。
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