◆5-33 スリディム湖の秘密
銀盤の湖『スリディム』。
この季節の『銀』は特に濃い。
「今の時期は澄んだ雪解け水が流れ込み、湖水は美しく透き通ります」
カーラは星空を見あげた後、湖底を指差した。
「ご覧下さいませ。
夜空に舞う火の粉が、スリディムの湖底にも映し出されております」
パチパチと爆ぜる薪。そこから巻き上がる火の粉。
それはユラユラと揺れながら風に乗り、拡がる星空を書割にして跳ね回る。
そしてそれは、足下の湖底でも同じ姿で舞っていた。
僅かな歪みや不鮮明さはあるものの、上質な鏡と比べて然程遜色の無い、巨大な水鏡。
「更に年に一度、数日の間、夜間のみですが。
湖底より淡い光の粒が出現し、空へと昇って参ります。
私達はこれを『精霊送り』と呼んで楽しんでおります」
カーラは目を細めて、光粒漂う夜空を見上げた。
「しかし昔は逆でした。
これは『精霊の葬列』と呼ばれ、人々に忌み嫌われておりました」
此の場所に町が出来る遥か昔より続いていた、この現象。
当時の人々は、神の御業か悪魔の災かと、酷く恐れた。
「昔の人は、光の粒が空へ昇る現象を魂の終焉の顕れであると言って、この地に寄り付きませんでした。
近付けば、その者の魂も一緒に天上へと導かれる…と、言われていたそうです」
更に、湖の中心にある小島も、人々に畏敬の念を抱かせる原因だった。
小島に在る、設立年不詳・目的不明の廃墟。
かなり旧い時代の聖堂遺跡だろう…という事しか判っていない。
伝承も残っていないし、詳しい調査も行われていない。
神のモノか悪魔のモノか。理解しかねる謎の現象。
その中心には、何を祀っているのかすらも判らない聖堂跡。
知らない事には関わらない。近付かない。
長い間、人々はこの地を避けて暮らしてきた。
だから銀湖の光粒現象の答えを見つけ、人々が安心して暮らせるようになるまで、随分と時間を要した。
「ある時その理由が判明し、人々は安心してこの地に移住を始めたのです」
湖底に銀盤が拡がっている理由。
毎年、光の粒が顕現する事象。
「…更に、その光粒が姿形を変える、先程皆様がご覧になった現象。
全て、皆様の周りに、ごく普通に存在する物が原因でした」
結果的にだが、ある一人の若い漁師の行いのお陰で、この現象の正体が明らかになった。
◆
この地より下流にある、川沿いの町に住んでいた若い漁師は、ある時、漁師組合と揉め事を起こして禁漁の罰を受けていた。
組合の裁定に納得できず、憤っていた若者。
何としても漁に出てやろう。漁師のプライドに賭けて、魚を獲って生活してやろう…と、躍起になっていた。
だが、件の組合が管理する漁場には立ち入れない。
他の漁場は別の組合が管理していて、横入りは赦されない。許可なく獲れば殺される。
若者は、組合とは関係の無い漁場を求めて歩いた。
上流へ上流へ……
何日も歩き続け、終にスリディム湖にまで辿り着いた。
銀色に輝く異様な姿。その美しさに恐怖した。
幼い頃から聞かされていたこの湖の寓話。
幾つもあるその話は、どれもこれも、此処には近付くな…と締め括られていた事を思い出した。
一時躊躇した若者だったが、自分が漁に出られる場は此処しかないと決心した。
簡易的な小屋を建て、小舟を造り、漁を始めた。
寝泊まりしながら、何日も魚を獲り続けた。
そして、ある事を発見した。
この湖で漁をすると、全く違う二種類の魚が獲れたのだ。
小型だが淡白で美味。何処の湖川にも存在する、普通の淡水魚。
そして、熟柿臭漂う異形と成り果てた、派手な色彩の大型魚。
銀盤の、更に底を網で浚うと異形が獲れ、銀盤面より上で糸を垂らして釣ると、形の美しい淡水魚が獲れた。逆は一度も無かった。
近縁種が、餌や水温の違いなどで棲み分ける生息様式の違い…その程度では説明のつかないくらいの形態の差。
遠縁よりも離れた種である生物同士が、同じ湖の中で棲み分けている。
生息様式どころか、生物分布すら違う。それが銀盤の上と下。
直ぐ近く、銀盤一枚挟んだ距離。なのに、異形の大型魚は淡水の小魚を餌にしない。
異形は異形同士、淡水魚は淡水魚同士でしか食い合わない事も判った。
若者は人々が漁に出ない時間帯を見計らって一気に川を下り、もと居た町より更に下流の大きな街まで辿り着き、其処で獲れた魚を片端から売り捌いた。
当然だが、異形の魚は売れなかった。見た目が悪過ぎたし、匂いも独特過ぎた。
「異形の魚は大きくて身も厚い。捨てるのは勿体無い。
若者は異形を切り身にして売りました。見た目だけでも誤魔化そうと考えたのです。
そうしたら、通りがかった富豪と、一緒に居た貴族の目に留まり…」
切り身で売ると、熟柿臭漂う切り身の方が、貴族や富豪達には好まれた。
甘露の様な味のする魚だとして、その場で絶賛した。
その様子を見ていた平民達が我も我も…と、購入したのだが…。
彼等には非常に不評だった。昏倒する者や嘔吐する者まで出て、大騒ぎとなった。
官憲が仲裁に入って双方に聴き取りをすると、貴族達は若者を庇い、平民達は若者を罵った。
困った官憲は、問題の切り身を回収して調査した。
「調べてみた所、熟柿臭の原因は高濃度の魔素に因るものと判明致しました」
魔力の少ない平民達は、魔素の塊の様になっている魚を食べるれば体調を崩す。
しかし魔力の高い貴族達にとっては、失った魔力を回復させてくれる栄養剤として、非常に高い効能があった。
異形の大魚は、濃い魔素を蓄えた藻や小魚を食べて育ち、姿形の良い淡水魚は、魔素の全く無い環境で育った。
魔素に慣れた魚は魔素の無い環境を嫌う。逆も同じ。
「…つまり、銀盤の面は魔素濃度の境だったのです」
濃密な魔素が水の濃度や粘度を変化させて湖底に溜まり、光を屈折・反射させる。それが銀盤の正体だった。
この世界には、目には見えないが当たり前にある『魔素』。
酸素や窒素と同じ様に、空気中に存在している。
銀盤の正体が、ただの濃い魔素溜まりだと判ったら、人々の恐怖は薄らいだ。
「それが年に一度、この時期の夜間のみですが…」
湖底に堆積し過ぎた魔素が、塊と成って浮上する。それが光粒の正体。
飽和し、溢れ出す様にして宙へ昇って行く。
全て、ただの魔素。目視出来るくらいに濃くなっただけの魔素の塊。
「だから、物質化魔術式の心得が無い子供達でさえ、念じるだけで思い通りの形に変える事が出来るのです」
それが、先程の『魚』や『花束』に変化した現象の正体だった。
気温、湿度、水質…どの様な条件が揃ったら、水底の魔素が浮上するのか?
魔素の存在自体に不明な点が多々あるので、何故、『精霊送り』が起こるのか等、まだまだ謎は多い。
ただ、人体に悪い影響が無い事は既に証明されている。異形の魚を魔力の少ない者が食べない限りは。
なので人々はこれを純粋に楽しみ、この現象を観光の目玉として、周辺の町から客を集めている。
「この現象は数日続きます。
明日辺りから、『精霊送り』を観に来るお客様も増えますわ」
そう言って、カーラはニコリと微笑んだ。
◆
「興味深い現象だけれども…」
アビゲイルが口を挟んだ。
「湖底に魔素が溜まると言うことは、それを目当てに魔獣も集まるのではなくて?…昼の硬毛羆の様な……」
当然の疑問だった。
魔獣は、濃い魔素溜まりで生き延びた獣が変質して誕生する。
そして、常に濃い魔素溜まりを欲している。
なので魔獣は、魔素の濃い山奥や森等に生息し、滅多に縄張りからは離れない。
しかし此処の湖底には、彼等の望む濃い魔素溜まりが存在している。魚が変質する程のモノが。
「この湖周辺に魔獣が近寄る事は無いのです。
…いつもなら、ですが…」
少し困った顔をしながら、カーラは口を開いた。
魔素の濃い銀盤面下に比べ、銀盤面上の湖中や、町を含む湖周辺は極端に魔素が薄い。
本来ならば、魔獣が嫌がる様な環境なのだ。
「なので、飢えて見境のなくなった大型獣や飛獣が迷い込む事はあっても、魔獣がこの湖周辺に近付くなんて…滅多に無い事なのですよ…」
魔獣である硬毛羆と灰群狼が、共に群れて山を降りてくる。こんな事は初めてです…と、カーラは戸惑いながら呟いた。
「ああ…だから城壁塔の装備が対人・飛獣用ばかりだったのね」
塔の中に入った時に確認した兵器が、投石機械、機械式弩弓、投下用の毒ばかりだったのを、アビゲイルは思い出していた。




