✐6 ネガティブシェイプを泳ぐ
持ってきたコピックを封印してすべてを色鉛筆で仕上げようと思ったのは、梢枝のもつその淡くて丸くてふわふわした感じが合うと思ったからだ。最初に塗ったハイビスカスはハイライトの部分にわずかに白を残してその花弁を、私の筆圧や重ねた回数や重ねた色によって偶然にできたともいうべき無限の種類の赤で無事に咲いていた。しかしそれは、私が最初に色を落とした時から私の中にあるハイビスカスからどんどん遠ざかって愛おしい偽物に成りあがっていった。
「七森、ハイビスカスって何科の花?」
開いたのはいいものの、やはり白紙のメモ帳を握った梢枝は、驚くほど間抜けな声で「ふえ?」っと反応した。
「ごめん、渚ちゃん。なんて言ったの?」
「だから、ハイビスカスって何科の花なの?って聞いた」
梢枝はすごく申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね。知らないや」
私は机に転がった何種類かの赤い色鉛筆を掴んで、やれやれと頭を落とした。
「知ってることなんて期待してないよ、七森」
梢枝の頬が少し膨れた気がした。
「調べてほしい、ってこと」
役割をもらえた柴犬は機嫌を取り戻して、リュックの外ポケットに頭から突っ込む勢いで机の下に潜った。いやな予感はぷんぷんに漂っていたが、やはりスマホを握った梢枝はその脳天を机の天板に強打した。
「脛よりましだね」
「うっ・・、それでも痛いよ」
私は梢枝の抑えた脳天から梢枝の手をどかして、代わりに無茶苦茶にさすった。梢枝の髪は今日の朝とは比べ物にならないくらいあっちこっちに跳ねて、それはもう寝起きの姿のようになった。
「もうちょっと優しくしてくれてもいいと思うよ」
梢枝は跳ね散らかした髪を一応は整えた。しかし私がくしゃくしゃにする前からそこにいた跳ねだけは梢枝の手櫛をかいくぐってそこに居座った。
両手で握ったスマホからコツコツと梢枝のタップする爪の音が鳴り、たどり着いたウィキペディアのページを私に向けた。
「アオイ科、だって!へぇ!そうだったんだ!」
「七森、分かって言ってる?」
梢枝は笑ってごまかしたが、私がこう思えるほどにごまかせていなかった。
「なんでこんなこと聞いたの?」
梢枝はスマホの画面を暗くしてから机に伏せた。もう一度手放したメモ帳をその手に戻さなかった。
「葉っぱだよ」
「葉っぱ・・・なの?」
「葉っぱなの」
「葉っぱ・・だったんだね?」
ダメだこいつ、何もわかってくれない。私は自分のスマホを取り出してその画面に親指を滑らせた。
「これみて」
私は梢枝にその画面を向けようとしたが、梢枝は素早く私の肩に体を寄せた。長いまつげの一本一本がはっきり見える距離だった。
「葉っぱだね、これも」
梢枝は観察の目になっていたが、感想はそれだけだった。
「これは何の花なの?」
「ヘチマ」
「ヘチマ好きなの?渚ちゃん」
私は近すぎる梢枝の額にデコピンを入れた。
「七森って、何ていうかさ、ズレるときは急にズレていくよな。ズレるっていうより脱輪って感じ」
おでこにクリティカルヒットしたデコピンは、それでも私の細い指では威力が無くて梢枝はすぐに立ち直った。ウグッという今までに聞いたことのない呻きは痛いというよりは驚きだったみたいだ。
「だからね。もう少し優しくしてくれていいと思うんだよ・・」
3回ほど額をさすった梢枝は、もう私の次の話を聞く体制になった。
「七森、さっきのアオイ科の写真出して」
梢枝は机のスマホを拾い上げて、また画面をコツコツと叩いた。さっきのページを開いてスマホごと私に献上するように手渡した。
「七森が見てよ」
私は梢枝に、私のスマホを手渡した。
「分かる?葉っぱの表面の反射が違うでしょ」
梢枝はそれぞれの写真の間で首を4往復させていた。でたな、壊れた扇風機。
「すごい!ホントだ!」
梢枝の声はワーキングスペースの隅々に響いたので、梢枝は2秒の間だけそこにいる人たちの視線を全て受け止めることになった。看板犬に昇格した。それにも気づかず、梢枝は画面の葉の縁をなぞるようにして、少し拡大したりしていた。それを見て私は、梢枝が光源を探しているんだと気づいた。
「クチクラっていうの」
私のその声に視線を戻した梢枝は、両手のスマホを机に置いた。しかしまだ画面には2種類の葉が並んでいた。
「クチクラ?」
「葉っぱって、表面が光っていてツルツルで硬いやつと、ザラザラでペラペラなやつあるでしょ。あの表面のツルツルしてるやつ、クチクラって言うの。それが発達してると表面に凹凸が少なくて、よく光を反射するんだよ」
「すごい!渚ちゃん!だからヘチマの葉っぱは全体的にマットな発色だけど、ハイビスカスは陰影が強く出てるんだね!」
理解早いな、この柴犬。
「自分の中ではちゃんと本物を作っている気にならないと、昨日も言ったけどさ、絵ってどう頑張っても偽物にしかならないし、だから絵は本物にも勝てるって言ったでしょ」
「うん。私ね、渚ちゃんのその言葉にすっごく感動したの。それにすごく救われた気がしたよ。格好良かったなぁ、あの時の渚ちゃん」
本人の前で言うな。いや、頼むから本人がいなくても口に出すな、それ。
でも私は、またここに飽きもせず私の考えを梢枝に加えて投げかけることには躊躇はなかった。
「でもね、描いてる自分の中には本物があって、それを目指さないと、本物の偽物にはならないんだよ」
「かっこいい!だからハイビスカスの葉の質感も本物を確認したかったんだね」
いちいち本質をついてくるので、首筋が痒くなった。
「まあね、知らずに描いたらそれは偽物には違いないんだけど、それは最初から偽物なんだよ」
梢枝は私の真似をして、立てた親指を私に向けながら、本人としては決め顔を作った。
「“偽物の偽物”なんかじゃ、“本物の偽物”には勝てないってことだね!」
柴犬にしては、良いまとめだと思った。
細くとがらせた極端に淡い黄緑で葉の葉脈を入れてから、私が握ったのは濃い藍色だった。葉脈の黄緑は筆圧を強く入れたが、反して藍色はなるべく鉛筆に力を加えず何かの勢いでまた梢枝が机に脳天をぶつければ、その振動で私の手から鉛筆は飛ぶだろうなと思うくらいの力加減だ。太陽が直接当たってクチクラがその光を白く反射する場所を見極めて、そこだけに白を残し他は藍色を入れていった。青く染まる葉と赤いハイビスカスの彩りは奇妙でしかなかったが、その上から緑、深緑の順で偶然の塗りムラも使ってテカテカではないほど良いアオイ科の光沢を目指した。やはりそれは、ウィキペディアの写真とは似ていなかったが、写真よりいきいきと光合成をしている葉になった。
「すごい!渚ちゃん!本物に勝ったね!」
思っても言うんじゃない。まだしつけが足りないと思った。でも、色が入った上から重ねてさらに色を載せていたのに、梢枝がそうやって声をかけたタイミングと私が葉の塗りを完了できたと思ったタイミングがピッタリ同じだったことに驚いた。
「なんでこれで完成だってわかった?」
緑2種類にキャップをしながら梢枝に尋ねた。梢枝も聞かれて、やっぱり「確かに・・・」と言いながら思考しているようだった。
「私の中のハイビスカスと同じになったから、かな?」
絞りだした梢枝のセリフに私は息をのんだ。私と梢枝の中の本物のハイビスカスも、そこから偽物に成ったハイビスカスも、どちらもその画像はどのピクセルを拡大しても同じだったんだ。
「あっそ」
私は緑の鉛筆たちを筆箱に流し落とす間、梢枝を見ることができなかった。
梢枝と見えているものが同じなんだ。そう思えてくると、私は梢枝の見えている色の再現をしたくなった。しかしそれは何をどうしたって不可能だ。見えている本物に近づけるために、梢枝がどう塗りたいかは分からないし、私だって最初にこう塗りたいと思ったところから結果的には大きく逸れて、それで最善を手に入れることだってある。私と梢枝の本物は同じでも、私と梢枝は違う。ならば、私が次にすべきことは自ずと一つしかなかった。
「七森、あのさ」
まだ梢枝を見ることはできなかった。
「何?渚ちゃん」
目線を合わせてこない私に梢枝は机に覆いかぶさって私の視界に入ろうとした。梢枝のところどころクシャっとした髪が重力で傾いて机に触れていた。
「七森もこの絵の塗り、やらない?」
私はその言葉に決心をつけて、梢枝の目を再びとらえた。その目は固まったまま大きく開かれていて、口はスマイルのままでこちらも固まっていた。
ブルターニュのプレイリストがひと通り終わったらしく、そのままBGMはこんどこそアイリッシュへと変わった。梢枝は固まった前傾姿勢から突如力なく机に頭を落とした。本人の想定よりもその勢いが強かったらしく、机に当たった梢枝の頭蓋からゴフっという音が2つ鳴った。やはり1つは梢枝のうめき声だった。私はそれは自業自得だったので放置した。
梢枝はそのまま首を左右に振るので、机と額の間でゴリゴリと音がしていた。駄々っ子の拒否の仕方だ。梢枝の立場に立てば確かに難しいことを言われていると思う。ここまでこの絵は下絵からすべて私しか筆を入れていないのだ。構図や絵のパーツは梢枝が作ったものといえばそうだが、もはやそれでも私の描いた絵になっているのは疑う余地もなかった。しかし私は梢枝に絵の一部でも託したいし、それで私と梢枝の絵という事実を確固たるものにしたかった。さて、この駄々をこねている柴犬をいかに私の言葉の誘導でスケッチブックに向かわせたものか。私は頭を巡らせた。
私の思案をよそに、梢枝は最後の余韻でゴリゴリっと額を机で鳴らすと勢いよく体を持ち上げた。背負ってはいないが、いつもリュックの紐を握っている位置で梢枝は拳を強く握ると、鼻から強く息を吐いた。
「よし!渚ちゃん!分かった!!ちょっと任せてもらっちゃうよ!」
梢枝は緊張を通り越して、もう決意したあとだからなのか楽しげだった。私はその真っすぐな返事に驚いたが、誘導尋問の手間が省けて安心した。
梢枝が私の前のスケッチブックを、梢枝の手元に引き寄せようと手を伸ばしたのと、私が丸椅子から立ち上がったタイミングが重なった。
「渚ちゃん、トイレ?」
言われると行きたくなった気もしたが、気のせいだった。私は梢枝の後ろを回って、そして梢枝の左腕を指で押した。
「席交換するよ」
私はさらに掌で梢枝をさっきまで私が座っていた席に押し込もうとした。
「こっちで描けるよ。それでいいのに」
言葉を置き土産にしつつ、梢枝は私のいた席に移った。移ってから椅子を引いたり少し回転させたりして、居心地のいいところを探していた。
「あ、渚ちゃん!座って座って!席、温めておいたからね!」
あの男子どものせいだ。
私はそこに座ると、机に置いた左ひじを軸に30度ほど回ってさっきまで私が塗っていた絵が見やすい角度を取った。
「七森、右利きでしょ。私もだけど。描くならそっちの席の方が自由利くでしょ」
「確かに!」
梢枝は右腕をいっぱいに伸ばして届く範囲を確かめていた。そんなに可動域使わなくても塗れるけど。
「えっと・・」
梢枝はひと通り動き終わると、私の様子を気まずそうに伺った。梢枝の視界の片隅には、私のキキララの筆箱があることが分かった。
「使っていいに決まってるでしょ。七森の使いたい色でいいよ」
私は筆箱を梢枝の手元にドサッと音の鳴るように置いた。梢枝はそれがブランドもののバッグを店頭で試しに触るみたいな、緊張した手つきで掴んだ。私に不安げな視線を送ってたが、私は一つ頷いただけだった。でもそれで十分だったのか、それとも最後の一押しを梢枝自身にして覚悟を決めたのか、推し量ることはできなかったが、梢枝は私の筆箱の中にその小さくて、でも温かみのある指を差し込んで、私の色鉛筆のラインナップを確認した。
カラカラとなる色鉛筆たちは初めて私以外の指に触れられて、長さの違いにかかわらずピックアップされる可能性を感じて緊張しているみたいだった。梢枝の薬指が触れる度に、その色鉛筆は梢枝に自身のポテンシャルや汎用性、独自性をアピールしていて、梢枝もその声に一つずつ耳を傾けているようなゆっくりとした手つきだった。
ひと通りの色鉛筆たちからのアピールを受け取った梢枝は、最後に筆箱の中で2本のどちらを手にするか悩んだらしかったが、その2色が何だったのかは筆箱の中だけの秘密になった。最後に人差し指を差し込んで選ばれたのは、白みを多く含んだ橙色だった。今どきの女子高生の肌らしい色でもあり、ほかのピンクや、逆に黄土色なんかが重なれば、かわいらしさも健康的な感じも出せそうな色だ。梢枝のイメージする2人の女子高生と、下書きの時からいる私の頭の中の女子高生は同じなのだろうか。髪は純粋な黒髪なのか、それとも少し茶の入った明るい色なのだろうか。私の頭にはそのイメージがあるが、もしくは全く違って緑やピンクみたいなイラストならではの髪色を梢枝は選ぶのかもしれない。どうなっても、梢枝が最初に手にした薄い橙をその下地となる肌の色に選ぶのは、最善とも思える選択だった。
外したキャップを左で握りこんだ梢枝は、色鉛筆を目一杯長く摘まむように持ち替えた。そしてそこまで準備して私を見た。その目は湧き上がる興奮とそれに押しつぶされそうな緊張に立ち向かう覚悟の目で、私が描いているのを観察していた時の目とはまた違っていた。昨日の図書館で見せた創作者の目だった。私はそれに安心した。梢枝は、広い広場を目の前にしてリードを離された柴犬のように、本当に自由に広場をかけて良いのか“よし”を待つ表情だったので、私は口角を自然に少し上げて「行ってこい」と伝わるようになるべく優しく頷いた。梢枝もそれに頷き返すと、スケッチブックに向き直って、こちらに視線をずっと送っていた絵の中の女子高生たちのもとへ駆けよるように、色鉛筆のペン先を運んでいった。
そう思っていたのに。
「え、七森?」
「うわ!何?渚ちゃん!びっくりした」
梢枝のペン先はまた紙の上から跳ねるように離れた。そのまま橙色の私の色鉛筆は絵の中の砂浜を転がった。
私が思わず声を出したのは、梢枝の制御するペン先が真っすぐに女子高生へ駆けて行ったと思ったら、その顔を掠めて海へ飛びこもうとしたからだ。つまり、梢枝は昼間の天高くにいる太陽が白色の光を放つ海を薄い橙で塗ろうとしていたのだ。
「ごめん」
「渚ちゃんどうしたの?なんか私、まずいことしてた?え?もしかして、この色は貸すのダメだったとか?ごめんね。ホントにごめんね」
梢枝はひとり慌てていた。
「いや、全然そんなことないけど、七森、人物かシーサー塗ると思ってたから、勝手に。海塗ると思わなかっただけ」
まだ色のない砂浜に転がった色鉛筆を私は梢枝の手元にはじいて転がした。梢枝はそれを人差し指の爪でつつくように受け止めた。あからさまに力が抜けた梢枝は止まっていた呼吸を大きな呼気から再開した。
「よかった。よかった。なんだよ、もう。びっくりしちゃったよ」
梢枝は右手で自分の胸をさすった。私も無意識に左の掌で自分の右手の指をさすっていた。そうだ。私だってびっくりしたんだ。リードを解き放って広場に向かってゴーを出した柴犬が、真っ先にその広場のすべてを横切って、その先の沢に飛びこもうとしたのだから、それは一度止めたくもなる。
「キャラクターじゃなくていいの?」
私は梢枝に素通りされた女子高生や、ハイビスカスと反対のコーナーでじっと待つシーサーを順に目で追って、最後に梢枝の右手の指に視線を動かして聞いた。肉球のないその自由な小さい指は薄橙の色鉛筆を受け止めたままの形を保ってはいたが、先ほどよりは関節が仕事をして力感なく丸みを作っていた。
「えーっとね、何ていうかね。うん。渚ちゃんのキャラクターに私が色なんて置けないよ。こわいこわい」
梢枝はそう端切れ悪く言って眉を下げた。
「別にそんなの気にしないでいいのに。もともと七森の構図なわけだし」
「ううん。私がそう覚悟できないビビリなだけだから。そこは許してよ、渚ちゃん」
そんなものなのかな?と思いながらも、梢枝が言うのならそんなものなんだろうと思うことにした。
「でもさ、その色って」
そこまで口に出かかって私は口を閉じた。私は、梢枝の色と私の色が目指すものは同じでも、その途中で何を経由してどう愛おしい偽物になっていくかが見たいのだ。梢枝の色がおどおどと顔色を伺いながら覗いてくるのは違うと思ったので、柴犬のダイブを改めて見守ろうと心に決めた。
「やっぱり何でもない」
私は両腕を膝に戻した。
「ホントに?」
梢枝は不安がったが、眉は元通りの位置に戻っていた。
「七森の好きに塗ってよ」
「それはそれでプレッシャー感じるよ」
梢枝はわざとこわばった声を出して、左手で右腕をさすった。そうやって決意は持っているのに下手な演技をするのはユナとそっくりだった。
「とどめを刺すこと言うとさ、私は七森の自由な色が見たいんだよ」
久しぶりに私は梢枝の目を見てまっすぐにそう言った。梢枝は左手の動きを止めたが、口元はじわじわと微笑みに変わった。
「しょうがないなぁ、渚ちゃん」
もう堪えきれなくなった梢枝は、満開に顔を花開かせて、やっぱり薄橙の色鉛筆を長く握った。今度こそ私はリードを離して、柴犬がこれから沢にダイブし自由に泳ぐなり土を掘るなり、はたまた予想外のことをしでかしても、満足するまでそのリードを握らないと心に決めて“ゴー”を出した。やはり女子高生の顔を掠めて、梢枝の色鉛筆は海へと走っていった。
どれほど時間が経ったか曖昧なまま、梢枝は海を塗りきった。下地に塗ったあの薄橙は、本当に海全体に置かれていった。その後に梢枝が握ったのは黄緑で、さらに深い緑、青、水色、銀色と重ねていった。橙と銀と水色をそれぞれぼんやりと重ねた場所は、そこに高い太陽が直接当たって確かに第二の光源を作り出した。そのまま砂浜まで梢枝は塗ったが、私はここで海に仕込んだ橙の意味をガツンと叩き込まれた。波打ち際の海の下に、その薄橙が透けた砂浜を沈めていたのだ。私が思い描いたまさに本物の沖縄の海辺だった。しかし、たぶん私が塗っていたら海の色の上に透ける砂浜に見えるよう白やグレーなんかを置いただろう。やっぱり経由が異なっていた。でも出来上がった沖縄の海は、まさしく沖縄の海だった。
「上手くいったかな?」
水色の色鉛筆にキャップをしながら上体を反らせて全体を眺めた。そこから黄緑をもう一度取り出すと、ところどころに少し重ねてそれで満足したようだった。
「どう?渚ちゃん。私、壊してない?」
「大丈夫だと思う。七森と私の綺麗な偽物になってると私は思うよ」
それを聞いた梢枝は大事そうに色鉛筆を筆箱にしまうと大きく伸びをした。
「もう、緊張したよ。途中で深緑が思ったより発色良くてさ。うわ!詰んだ!って思ったんだけどね。これはこれで何となくなんだけど、サンゴ礁の溜まってるところに見えなくもないって思えたのにさ、今度は水色が思ったより淡くてさ、うそでしょ!って思ったよ。いや、渚ちゃんの色鉛筆のせいじゃないんだよ。よくよく今考えたらさ、普通なら試しにメモ帳に塗って色を確認すべきだったんだよ。なのにさ、なんかテンション上がっちゃってさ。もう、いつもこうなの。どんどん偽物になっていくんだよ。ああ、もうホント、なんとか形になってよかったよ」
緊張してたのは良く伝わった。
梢枝の作業中はその底がどこまで続くのか、何に繋がっているのか見通せないほどの深い没入であって、それは図書室で最初に下書きしていた時や、いつも教室でノートに描いていた時とは明らかに違っていた。
「七森があんなに苦しそうな顔してるの初めて見た」
「苦しいよ、そりゃあね。絵を塗ってるんだもん」
「そうだね」
梢枝は椅子を膝の裏で押し出して立ち上がると両方の腰に手を当てて胸をそらせた。丸椅子が床に擦れてカラカラと鳴ったが、それを気にする人はワーキングスペースにはいなかった。
「苦しかったけど、すごい楽しかったよ。こんな出来上がった絵なんて塗ったことないからね。渚ちゃんの絵でそれができるって、とっても緊張したんだけどね、でも今までで一番楽しかったぁ」
右肩を前後に2周まわしてから梢枝は私に笑いかけた。その緩んだ顔はさっきまで瞬きも忘れて口をグッと力を込めて結んでいた時の決意と集中から解放されて、あちこちの筋肉が弛緩していたように見えた。色を塗っていた最中の梢枝は確かに苦しんでいた。でも何に苦しんでいたのかは私には分からない。ただ、その結果としてできた、光をとらえた絵の背景があるだけだ。
「あっそ」
私は突き出された梢枝のお腹のへそを目掛けて人差し指でつついた。梢枝はそれでもしばらく肩甲骨を閉じて伸びをしていた。
8時近くになって私と梢枝はいったん休憩を取って自動販売機でジュースを買った。私は炭酸が飲みたかったがサイダーしかなくて、なんだか男子の顔が浮かぶから仕方なくミルクティーにした。梢枝はさんざん悩んでサイダーを選んだ。
「七森、時間平気なの?」
「うん。10時は覚悟しといてって、朝に言ってきたの。渚ちゃんは?」
「まぁ、私も遅くなるかも、ってそういえば言ってある」
「よかった!」
梢枝はサイダーの残りを、喉を鳴らしながら飲み干したが、口の端から一筋液体が流れた。恥ずかしそうにしながら梢枝は左手の人差し指でそれを拭うと、空いた缶を音の出ないようにそっと併設のゴミ箱に落とした。それに私も続いた。
私は再び梢枝に絵の特等席を譲った。梢枝はそこでまた苦しい顔をしながら、軽やかに今度は空を翔けた。梢枝の塗った空は青というよりは白く、そこにわずかな水色と黄緑が乗ったような色で、水彩のような淡さだった。その主張しない空が梢枝の海を際立たせていたし、まだ色のない女子高生二人を明るくしているのがもう分かった。
「ここまでで勘弁してよ」
梢枝は背景を塗りきって席を立った。
「わかった」
額にうっすらと広くかいた汗を見て、私はもう梢枝の今日の色を出し切ってくれたのだろうと思ったから、もうそこで梢枝を止めなかった。
「お疲れ、七森」
「疲れてないよ、もがいたけどね」
「いいね、それ。楽しそう」
私は梢枝の座っていた特等席に久しぶりに返り咲いた。椅子は梢枝のぶんだけ温かかった。
「あとはよろしくね、渚ちゃん」
梢枝はやっと額の汗をぬぐった。マラソンを、いや駅伝を走りきったような顔だった。そして私は襷の代わりに私のキキララの筆箱を梢枝から手渡された。
「うん、ちょっくら相手してくるよ」
そうして私は、私の描いた女子高生とシーサーを私と梢枝の色で塗り始めた。
もう9時になろうかという頃になって、やっと私たちの絵は完成した。下絵に少し足りなかった毛束のなびく様子を描き足したこともあって、全体は最初にイメージしていたものとは輝き方が違っていたが、それはまさしく私と梢枝の本物の偽物になりあがった。最後に私はハイビスカスと女子高生を、梢枝は風景を、それぞれの色に馴染むように同時に手入れして私たちの創作は幕を閉じた。私は手首に、梢枝は首にたまった疲労感をワーキングスペースに振り払った。そのまま私も梢枝もしばし天井のどこかしらを見つめた。その間に梢枝が何をしているのかが手に取るように分かった。私と同じように、あの色はもっと筆圧が強くて良かったとか、もう一つ淡い色の方がよかったかもとか。そっちが正解だったかもしれないし、でもそれを実行していたらそれはそれでまた同じようにこの時間を反省に使っていたんだろうな、という堂々巡りに入っているんだ。どれを選んでも本物にならないが、どれを選んでも本物の偽物になる候補たちだ。
梢枝は両手をグーにして私に向け、待ての体制だ。私は片手だけ手をグーにして、そのグータッチに半分だけ答えた。梢枝はそれで十分だったし、私にもそれで十分だった。




