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✐7 エンボスフィルターににげる

 結局、ワーキングスペースは会員の入会費を払ってもその方が安くなると案内されて、私は梢枝と同じく会員になった。会員の番号は通し番号になっていて、私は4桁だったが梢枝の番号は3桁だった。会計を済ませたので、私はガラスの引き戸に手を掛けたが、梢枝はスタッフのお姉さんとの余韻の会話を楽しんでいた。私の知らない女の人の名前を出して、

「最近、なかなか同じタイミングにならなくて寂しいです」

「コナタちゃんもよく来てくれているんだけどね。ホントにタイミングだけ」

 そんな話をしてから、梢枝は小さく私に謝った。待たされたからなのだろうけれど、それが私は全然不快じゃなかったので、小さく親指を立ててから、ようやく引き戸を開けた。まだ暑過ぎはしないが、やはり湿気に満ちた外気が頬を伝って、私をその瞬間だけ不快にさせた。引き戸の取っ手を梢枝に託し私は先に外に出た。梢枝は私に続いてスタッフのお姉さんにペコペコしながら手を振ったので、私も一つお辞儀をした。お姉さんもお辞儀とお手振りを返してくれたので、私たちは愛想と本音の両方を混ぜた笑顔になって、梢枝はゆっくり戸を閉めた。

 夜の駅舎は“いちのせきえき”と平仮名で書かれた看板だけが、強い光を受けて白飛びし、その両脇に控える“温泉郷”と“平泉”の看板は、その端だけをお零れの灯で白くしていた。

「遅くなって悪かったね、七森」

「そんなことないよ。私だってどんくさくゆっくり塗ってたもん」

「そっか」

「うん」

 私は自然と線路を越すために、ロータリーを駅に向かって歩き始めた。そこに梢枝もついてきた。数時間前に駆け抜けた駅の前を梢枝とならんで横切る間、梢枝は満足げにニヤニヤしていたが、でも何かを話しかけてくることもないし、私も相変わらず重いスクールバッグを肩に食い込ませながら特に話すこともなかった。交番の脇の駐輪場は蛍光灯で照らされて、そこに停まっている自転車の多くは家に帰ったらしくまばらだ。だからこそ、何の特徴もないことが特徴みたいな与野の自転車が目立っていた。さらに進むと次第に駐車場を越えたあたりで急に暗くなった。道も細くなった突き当りに跨線橋の階段が待っている。それに私は足を掛けたところで梢枝は足を止めた。

「あぁ、七森はこっちじゃないか」

「ごめんね、渚ちゃん」

「何に謝ってんの。」

「確かに・・」

 梢枝はそれでも少し寂しそうだった。

「七森って家はどこなの?」

「うーんとね、末広なんだけどね。どこって言えばいいかなぁ、うーん・・」

 梢枝の頭の中で一関の地図が開いていくのが見えた。末広がその中のどこなのかを説明するタネをその地図の中から探しているらしい。

「末広って、川の反対じゃん」

「そう!磐井川が溢れたら終わっちゃうとこ!」

 なんだその認識。

 それでも私は私の中の地図にピンを刺して気づいてしまった。

「じゃあ上の橋で渡るってことでしょ」

「そう!」

 上の橋は駅前からまっすぐ続く道にある橋で、私が今日、夕日の中で自転車を爆漕ぎして渡った橋だ。

「じゃあ、もう遠回りじゃん」

 梢枝は私とワーキングスペースの前で別れて駅に背を向け歩けばよかったのに、ここまでついて来ていることに私は呆れた。

「まぁね。ついてきたらここまで来ちゃってた」

「最初の一歩目から逆方向のくせに」

 跨線橋の上で光る街灯が、ぼんやりと梢枝の輪郭を映していた。それはいたずらと反省を混ぜた笑顔を含んでいた。

「絵、最後までできてよかったね」

 梢枝は用のない跨線橋の二段目に上って私の身長を追いこした。

「今日、完成させるって決めてたでしょ」

「そうだったの!私は決めて無かったよ」

 おっと、認識の相違があったらしい。

「完成して嬉しいな。すごく、渚ちゃんの最強の絵になったもん」

 すぐ脇を回送されていく誰もいない列車を眺めながら梢枝は言った。私はそれが少し嫌だった。

「私の絵じゃない。七森の絵だよ」

 梢枝は少し驚いたけれど、一瞬悩んでまた元の梢枝に戻った。

「うーん、でもあれは確かに渚ちゃんの絵だよ。私の色も混じっているけどね。私にあれは描けないもん。まだね。悔しくもあるけどね、でも今日の絵が“私の絵”に入るのはずるいよ。やっぱり。」

 梢枝はさらに用のない跨線橋を一段上がった。

「私の絵が、今日の絵を超えられるようにさ。私の一つの到達点にしたいの。だからね、私の絵じゃなくて渚ちゃんの絵にしておいて欲しいの。お願い。」

 梢枝の手は、リュックの紐をまた握っていた。ひとつ勇気を出しているんだ。私はそれには答えてあげたいのだ。私はバッグのファスナーを開けてスケッチブックを取り出した。

「わかった」

 私は梢枝にさっきの絵を開いて向けた。梢枝はそれを見て安心した顔になった。

 私はスケッチブックを大事に閉じて、階段をひとつ上った。それからスケッチブックを梢枝の胸に押し付けて、梢枝がそれを掴むまでギュっギュっと何度か胸を押した。リュックの紐からやっと手を離して梢枝がそれを受け取った。

「到達点にするんでしょ?だったらこれは七森が持ってていいよ」

 それを聞いて、梢枝は何か言いたげになったが、「あ、え、」っと思考が巡るだけで言葉が出なかった。視線を左右に振りながら何か覚悟が決まったらしく、大きく息を吸って梢枝は私の正面から一つ左にズレた。

 そして、梢枝は用もなく上った3段をすべて飛び降りた。ローファーとコンクリートが打ち付けて高い音が鳴った。しゃがむようにして着地した梢枝はゆっくり立ち上がって振り返った。暗かったけれど、梢枝の顔は満開だったし、目に涙が浮かんでいるのが分かった。

「泣かなくていいじゃん」

「泣くよ!」

「飛び降りてんじゃないよ、不審者」

「何でよ!」

 私はもう、この会話がおかしくってユナみたいに豪快に笑った。

「何も泣くことないじゃん」

 梢枝は右手の甲で涙をぬぐった。

「思ったより着地で足裏が痛かったんだよ!」

 梢枝とは思えないくらいその声が大きかったのが、また面白かった。少し濡れた梢枝の手の甲はスケッチブックに戻った。梢枝はそれを両腕で抱え込んでいた。

「大事にするね」

 私はリュックの紐から梢枝の手を開放できたことに満足した。

「失くしたらもっと泣かす」

 私は2段を飛び降りて、梢枝の隣に戻った。


 それからのほんの数分は他愛もない時間だった。21時を超えたのを合図にして、やっと私は梢枝とその日は別れることにした。

「そうだ!渚ちゃん!一つお願いしてもいい?」

「何よ、面倒なのは嫌だよ」

 まだ喋りたいのか、この柴犬。両腕に抱えたスケッチブックを私に向けて梢枝は晴れやかだった。

「この渚ちゃんの絵、私ね、すごい好きになったの」

「恥ずかしいこと平気な顔で本人の前で言うの、七森の良いところだし、悪いところだわ」

 梢枝はへにゃっとした顔に溶けた。

「だからね、修学旅行のしおりにね、この絵を使いたいの。渚ちゃんの絵、すごいってみんなにも見せてあげられるしね。それにね・・・」

「やめて!!」

「え?」

 私は反射的に言ってから、語気が強くなっていたことに気づいた。梢枝は私をいつもより大きくした目で真っすぐに見て固まっていた。私は頭の中で次の言葉を出さなければいけないと理解しても、いつもみたいに出すべき言葉が出てこなかった。

 沈黙に耐えられなかった私は、せっかく飛び降りた階段を4段駆け上った。そのまま跨線橋をのぼりきって家に帰ることもよぎった。でも、私の相棒に「またあしたね」を言わずに去ることがどうしてもできなかった。

「七森、ごめん」

 絞って出した言葉はそれだけだった。梢枝がそれでどんな顔をしているのか見るのが怖かった。でも、私は梢枝を信用して振り返る決意をした。

 梢枝はまだ目を大きくして固まっていたが、私が振り返ったことを合図にしたように小さな笑顔になった。

「よかった。渚ちゃん、行っちゃわなくて。またおいて行かれちゃうかと思った」

 スケッチブックを右腕に抱え込んだまま、せっかく解き放った梢枝の手はまたリュックの紐へと戻ってしまった。

「本当にごめん。なんて伝えればいいか、私の頭の辞書を探してるんだけど、何も見つからないんだ」

 消えそうな私の声を、今度は東北線の奥を走る爆音の新幹線が削り取っていった。

 梢枝はその新幹線が盛岡へ時速300キロで走り去るのを待ってから口を開いた。

「大丈夫。分からないけど。大丈夫ってことだけは分かるよ。でも、私が無理させようとしちゃったんだよね、きっと。昨日から甘えてばっかりだった。ごめんね、渚ちゃん」

 それは昼に見たトホホ顔に近かったけど、でもそれは作り物に私は見えた。街灯が作るぼやけた梢枝の輪郭が、そのまま形を維持できずに消えていきそうだ。滑らかなエッジが多数の中間色に飲み込まれる前に、私は梢枝を引き戻す必要があった。

「ごめん」

 それでも私はそれしか言葉が出てこなかった。

「ううん。私こそごめんね、渚ちゃん。じゃあもう帰らないと。また一緒に遊んでね。今日は楽しかった、ありがとう。じゃあ、また明日ね」

 梢枝は朝と同じように、リュックの紐の位置で2往復手を振って、作ったトホホ顔と微笑みの中間の顔で跨線橋から続く道を歩き出した。

 このまま今日を終えて別れても、たぶん梢枝は明日も私に駆け寄ってくれるだろうし、もしかしたらあのワーキングスペースでテストの直前に先生の愚痴を私が吐きながら、そして梢枝がそれに何とも言えない賛同と反対の間みたいな返事をしながらテスト勉強を一緒にすることだってあるんだと思う。それは健全に青春を共に過ごしていく相手には違いないんだ。でも、それは“友達”だ。そうか、梢枝と私は“友達”に戻ってしまうんだ。それが私には強烈な恐怖と巨大な空虚を残していくことが私には耐えられなかった。そう沸き上がった気持ちが、夜の影に消えた梢枝の輪郭に届けと、私の足を動かしていた。

「渚、ちゃん?」

 私は、リュックの紐を握ったままの梢枝の手を、その上から掴んでいた。掴んだはいいけれど、私の第一声は何も出てこなかった。何も出てこないけど私は梢枝の手をさらに強く握ったから、肉球のない梢枝の小さな指に私の爪が少し食い込んでいったのが分かった。梢枝はそれでもその手を振りほどこうとせず、私の言葉を待っていた。この柴犬、こんな時も“待て”するなんてズルい。

 荒くなった息を私は意識的に整えた。そうしているうちに、私はようやく最初に投げる言葉が私の中から湧いてきたことに安心した。

「遊びじゃないから」

「え?」

 私は梢枝の手をリュックから外して、そして私は両手で梢枝の拳を包み込んだ。

「七森と、私の絵は遊びじゃないから」

 私はそれだけ言うと、また言葉が消えてしまった。その状態で私は梢枝の顔を確認するのが怖かった。もう今この時に作った友達用の梢枝から帰ってきてくれなかったら、もう私にはワーキングスペースのお姉さんに見せた梢枝の顔は見せてはくれなくなるんだろう。私にたくさんもういる“友達”の整列に組み込まれていくんだろう。

「ごめんね、渚ちゃん」

 まただ。梢枝がまた私に謝っている。でも、その声色はさっきのパステルカラーのはっきりとしたものでは無くて、もっと淡くて、もっと暖かくて、そして生々しい梢枝の声だった。

「ごめんね、遊びじゃないもんね。私たち。いっぱいもがいて、いっぱい彷徨って、いっぱい苦しかったもん。ちゃんとケルトも使って、無敵になって描いたんだもん。遊びにされたら堪らないよね。」

 梢枝は右脇に私たちの本物の偽物が眠るスケッチブックを挟み込むと、あいた右手で私の手の甲を上から覆った。私はその温かさに覚悟が決まってやっと梢枝の顔を見ることができた。そこにいたのはさっきよりも頼れる、そして優しくてドンくさくて、そしてユナとはまた違う愛らしい梢枝だった。

「七森、あんたも女神様になれる素質があるよ」

 それが多分誉め言葉なんだろうと受け取って、梢枝は「えへっ」と笑った。私の中で、その笑顔が壁を壊した音がした。

「しおりさ」

「うん?」

「しおりの表紙に、使っていいよ。七森と私の絵」

 梢枝は私の顔を下から覗き込んだ。

「無理してない?渚ちゃん」

 罪滅ぼしで私が言ってるって思っているんだ、梢枝は。この柴犬、なかなかに生意気だ。私は精一杯に真剣な顔をした。

「無理してない、頑張ってるだけ」

 梢枝はそれに安心したみたいだ。

「いい言葉だね!それ」

 私はそれが可笑しかった。もう笑うしかなくなって、ちょっとだけ涙が出た。

「いい言葉だろ。私の座右の銘」

 まばらな客を乗せた一ノ関行の列車が私と梢枝、両方の顔を明るくした。

「かっこいい!じゃあ私は、“本物の偽物は本物に勝つ!”これ、私の座右の銘にするよ!」

 梢枝は得意げに胸を張った。

「そっちのもかっこいいな。パクリだけど」

 駅の放送が聞こえてきた。ほんの数人の下車客のために放たれたその放送は、私たちの街の中に柔らかく溶けていった。

「七森、でもね。一つだけお願いしてもいい?」

「何でも!」

「しおりの絵、使っていいんだけどさ。私が描いてることは内緒にしてほしい」

 私には、そこだけは越えてはいけない線だと、この場に及んでもアラートが小さく鳴っているのが聞こえた。また梢枝が遠くに行ってしまったらという不安も無かったわけじゃないけど、でも、私の正直なところを梢枝には伝えたかった。

「うん!わかった!」

 あっさりと、梢枝は承諾した。

「なんでか、聞かないの?」

 拍子抜けしたのは私の方だったので、思わず梢枝に聞いてしまった。

「渚ちゃんが聞いてほしいって思ったときに聞いてあげるよ。渚ちゃん、絵の描き方を教えてくれる時もさ、理由があるときは先に理由を言ってくれるでしょ?でも、今は渚ちゃんが理由なしで結論だけ言ってくれたでしょ?たぶん、渚ちゃんが聞いてほしいって思ってないんだよ。私はそれを待っていられるんだと思うの。だからね、渚ちゃんがもしも言いたくなったら教えてくれれば良いんだよ」

 この柴犬、私への忠誠度がいつの間にか桁外れになっていたのか。

「ありがと」

「うん」

 そうして梢枝は、私の手の甲から右手を外した。そっか、“お手”してたんだ。

 戻した右手にはスケッチブックがまた包まれていった。だから私は安心して梢枝の拳から手を離した。その手はリュックの紐には戻らずに、スケッチブックを支える腕になったから、私はもうこれで大丈夫だと分かった。

「もう帰らないと」

「うん!今日は大変だったけど、すごく楽しかったね!」

「あっそ」

 私は両腕に抱えられて梢枝の胸の前で眠るスケッチブックを押した。梢枝の胸の弾力がスケッチブック越しに伝わった。こいつ、結構あるのか。

「そうだ!私から一つ言わせてもらっちゃうよ」

「何よ」

「さっき、“七森と私の絵”って、渚ちゃん言ったでしょ?」

「そうだっけ?それが?」

 梢枝の頬が少し膨らんだ。

「この絵は“渚ちゃんの絵”って、さっき決めたでしょ!私の作品リストに入れちゃダメなの!忘れないでよね」

 なんだ、こいつ。

「はいはい、分かったよ」

「分かればいいんだよ!」

 なんだ、こいつ。

「じゃあ、私からも一つ、言わせてもらうよ」

 梢枝が明らかに身構えた。

「ど、ドンと来いだよ!」

 私はもう自分の口の端から悪戯心に満ちた空間が少しずつ開いていくのが、自分で分かった。

「あんたさっきさ、“ケルトも使って、無敵になって描いた”って言ったでしょ」

「えーっと、うん、言ったよ!言ってやったよ!たぶん・・」

 私は右手で梢枝の跳ねているボブを上から潰した。

「七森が言ってるのはケルト、私が言ってるのはアイリッシュ。いい加減覚えなさいよ。最強になれないよ、あんた」

「ほとんど一緒だよ!!」

 反抗的な遠吠えが私の耳には心地よかった。

「じゃあね、七森」

「うん、じゃあね。渚ちゃん。気を付けて帰ってね」

「ママかよ」

 テンポのいい会話が梢枝とも出来て私はこの日のことが、もう堪らなく愛おしく思い続けるのだろうと思った。

「ママじゃないよ」

「知ってるわ」

 ダメだこいつ、やっぱりテンポ悪いわ。

「また明日ね、七森」

「うん、また明日」

 やっと私は、目的を達成できて、跨線橋を駆けのぼった。梢枝はまだ跨線橋の下で私に手を振っていた。

「七森!ハウス!」

「うん!バイバイ!」

 やっと梢枝は上の橋の方へと走っていった。私がいないと前に進めない梢枝の背中を、梢枝がいれば前に進めることがはっきり身に染みた私は、角を曲がって消えるまで、転ぶんじゃないかと心配しながら見送った。梢枝は街灯に押し出されるように制御不能にも見える勢いでコーナーを回った。珍しく私の心配は杞憂に終わった。

「課題、今日は無くて良かった」

 私も家まで走って帰った。


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