✐5 インデックスカラーをこする
背中を押されたように漕ぎ出した自転車は再びユナの前に戻ってきた。新幹線の高架を潜るところまで順調だったが引き返したのだ。駅へと歩き始めていたユナとはコメダ珈琲店の前で再会した。ユナはあれだけカッコよく送り出し「またあしたね」と言い合った私とこんなにも早く顔を合わせるとは思ってなくて、驚いていた。
「渚!?えーっと、どうも久しぶり!」
気まずい。
「あ、ユナさん。ごきげんよう」
めっちゃ気まずい。
ユナは私と与野の自転車を一通り上から下まで見渡した。広めの歩道だが、ユナと私と自転車で並ぶとそれでもう十分に横幅を使い果たしていた。おばさんがひとり、自転車で私たちのわきをすり抜けようとしたが、狭くてやはり自転車を降りた。私は「すいません」と小さく謝って、自転車をコンクリートの壁に寄せたが、サドルが高いせいで足が届かないから、サドルとハンドルの間に降りて蟹股で移動するしかなかった。
激しく気まずい。息切れがその気まずさであっという間に引いていった。
「あのさ」
「どうした?」
私は、えいっ!と顔を起こしてユナをまっすぐに見た。
「大事なこと、聞き忘れてた」
今度は私の背中を夕陽がオレンジに焼いていた。ネズミ色のサドルも私と一緒に、ついさっきよりはまろやかなオレンジに染められていた。
「なに?渚」
私は一度深く呼吸した。ユナもそれに合わせて首を傾げた。
「あのさ」
「うん」
大きなトラックが駆け抜けて地面が揺れた。
「駐輪場、東口?西口?」
トラックを最後にしばし車は通らなかった。電線の上からカラスだけが鳴いている。ウルトラ気まずい。
ユナは、両目を少し大きくした。そして、あの優しい顔が今度は引っ込んでいった。
「あー、えーっと西口。交番の隣の」
事務連絡のトーンだった。
「あ、そう」
隣を今度はスムーズに小学生が自転車で駆け抜けていった。顔を引っ込めて、さっきの優しくて可愛いユナになった。
「お腹平気?」
何か話すべきと思って出た言葉がそれだった。
「まあ、ぼちぼち落ち着いたかな?渚も平気?」
「まあ、私もぼちぼち。今の自転車全力で、ちょっとだけ、うっ、ってなったけど」
「ああ、だよね」
いつもみたいに会話が続かない。いや、続けてる場合でもないけど。
「えーっと、じゃ、行くね」
「うん、途中でコケないでね。自転車、人のだし」
「そっちの心配なんだ」
「あ、違うか」
私たち、いつもどうやって話してたんだろうか。それが思い出せないほど、断続的だった。普段の私たち、すごいじゃん。
「渚、えー、さっきのもう一回やっとく?」
「さっきのと言いますと?」
ユナはひとつ咳払いをして、後ろを向いた。勢いよく腕を上げると、ユナの背中に私の影が映った。
「私は!渚の大事なものを守りたいんだ!」
「あ、いいです。ちょっと、恥ずかしさで死にそう」
「だよね」
やっと私とユナは笑えた。
「じゃあね、渚。またあした」
「うん、ユナも気をつけて帰ってね」
「ママかよ」
そして、私とユナは今度こそ別れた。自転車を全力で立ち漕ぎするには、ちょっとまだ気まずさが残った。
駅舎の“浄土の風薫る平泉”の看板は光源の夕日と同じ色を反射して、壁の色とも溶け合っていた。観光案内所と交番の間の道に自転車を滑らせれば、きれいな公衆トイレがあって、その裏が駐輪場になっている。磐井川の橋を渡った辺りからなりふり構わず立ち漕ぎになっていたのは、もう時計が6時を指していたからだ。駐輪場手前でサドルから降りると、そのまま左のペダルに立ってゆるくブレーキを握った。こんな自転車の降り方はおばちゃんの専売特許だと思っていたのだけれど、初めてこれが便利な場面に遭遇して気持ちが理解できた。
どうにか私の制御できる範囲に落ち着いた銀の自転車は、駐輪場の屋根の手前でまた制御の範囲を超えて急ブレーキを踏んだ。私はその勢いで前輪より前に飛び降りることになったが、自転車は倒さずに済んだ。
「深島?」
目の前の自動販売機で買ったのであろうサイダーのペットボトルを、普段はラケットを握りしめているのであろう人差し指と中指の間に挟んでぶら下げていたその人は、私を見つけると少し驚いていた。
「なんでここいるの?」
「いや、自転車、カギ回収するから」
「あー、なるほどね」
「おぅ。いや、でさ、なんで深島が俺のチャリ乗ってんの?え?ってか、小日向は?」
当たり前の疑問だと思った。
「いや、いろいろ訳があって。与野に借りてるユナに借りてる形になってる」
さっきのサーティワン前での話を与野にするのもなんか違うと思ったから、大幅なダイジェスト版で事実だけを伝えた。
「見ればわかるよ」
確かに。
「まずかった?」
私は学校の先生にこれと言った説教みたいなものをされたことはないけれど、たぶんみんなはこんな気持ちになって待つのだろうな、と思った。
「いや、別に良いけど。驚いただけ」
優しいの塊みたいな奴だった。
「あ、どうも。もしかして、これから使う?サドル温めておいたから。座って座って」
「使わねーよ。さっき言ったろ、鍵、回収しに来ただけ」
「あー、そうでした、そうでした」
「深島って、意外に小日向みたいに変な奴なんだな」
与野はサイダーのキャップを開けて一口流し込んだあと、私の手元から自転車のハンドルをそっと奪った。
「俺が停めとくからいいよ」
私は抵抗なく自転車を渡したが、与野がその自転車を停めて鍵を抜き取るまでを見守った。全て終えて駐輪場の奥から戻ってくる与野をみて、私はハッと気づいた。
「与野さ、どのくらいここに待ってたの?」
「うーん20分くらい?」
「へー、ユナに会いたくてそんなに待ってたんだ」
「ちげーよ、小日向に会うためじゃねーよ。鍵の回収」
ちょっと聞き方がまずかったのか、私の意図とは違うふうに与野は受け取ったらしかった。
「委員会終わってからここに来て、20分待ってたんだよね」
「そう」
与野は、用は済んだのに私が話しかけたから、私の前で足を止めた。
「七森は?」
私はなるべく声が変わらないように慎重に与野に尋ねた。
「七森?委員会終わってすぐ、約束あるからって走って帰った」
それを聞いて私は、駅のロータリーの反対側にあるワーキングスペースの建物を振り返った。
「約束って、深島と?」
「うん、まぁね」
私はもう与野との会話は上の空だった。
「ふーん、そっか。急いでやれよ」
それだけ残して、与野は駅の方へ歩き出した。歩いて揺れるたびに、飲みかけのサイダーは小さな波を作ってその小さな泡同士が生まれてはぶつかって壊れていった。
右肩にかけた私のカバンは、明らかにその大きさに似合わないものが角を押して、丸みのあるはずのカバンの一箇所を尖らせていた。私はその角を左手で握った。そこには幾重もの金属のリングの感触があった。与野が交番の前に差し掛かるところで、私は与野を走って追い抜いた。
“ようこそ一関温泉郷”の看板の下を抜けて駅舎の前を駆け抜けると、市営駐車場に入るための小道に横断歩道が掛かっている。私はそこで左右確認を名目上するまでの間、スクールバックの紐を握って全力で駆け抜けた。横断歩道を渡った先に二階に上がる古い喫茶店があって、その隣がワーキングスペースの入っている建物だ。一台の車の出庫を見送り、少し前髪を直して横断歩道を渡った。普段通りの私を思い出しながら作り上げ、私はワーキングスペースのドアに向かっていった。
ガラス張りのワーキングスペースの前で私は立ち止まった。ガラスの引き戸に手をかける前に、そのすぐ隣の全面ガラス窓を向いたカウンター席で、セブンティーンアイスのチョコミントのあと半分にかぶりつくところで動きが止まった梢枝を見つけたからだ。梢枝も私を見つけたから口をあんぐりと開けたまま止まったようだった。その無防備さが恥ずかしかったのか、梢枝はみるみる目を大きくして次に何をしたらいいのか頭を回しているみたいだ。悩んだ末に梢枝は開いた口を戻さずにチョコミントに一度かぶりついて、その後で私にブンブン手を振った。その順序でいいのか?私はその手の振りには答えずにガラスの引き戸をため息交じりで開いた。
初めて入ったワーキングスペースは思ったよりも広々としていた。ガラス戸を閉める頃にはスタッフさんが声をかけてきて、レジ前で会員になるといくらで、非会員のままだと何時間でいくらかかって、というシステムをラミネートした深い緑の背景の料金表を示しながら聞かせてくれた。その間、梢枝はカウンターの席から立ったものの、私に近寄るでもその場で止まるでもない距離感でそわそわしながら、たまにチョコミントにかぶりついた。スタッフさんの話で、とりあえず使い始めて、終わったときに会計に来れば一番安くなるコースに勝手にしてくれるシステムらしいので、私はとりあえず使用許可証のような札を受け取ってストラップを首から下げた。梢枝の首にもストラップが下がっているが、あちらには会員カードも入っているらしかった。
私はすべて受付を終えると、肩にかけていたスクールバックを掌に移し、梢枝のもとに進んだ。
「おい、不審者。はやくアイス食べちゃいなさいよ」
「なんでよ、渚ちゃん!」
梢枝は残りのアイスを急ぎ口に収めた。急ぎすぎて少し頭にキンキン来たらしく、残ったプラスチックの小さな棒を両手で胸の前に握ると唇と目を強く結んでそれに耐えていた。
「待たせちゃったね、七森」
「ホントだよ!委員会さ、ちょっと長引いちゃったから急いできたんだよ。そうしたら渚ちゃんいないし、15分待っても20分待っても来てくれないから不安だったよ。もう、思わずアイス買いに行っちゃってさ。でもその間に渚ちゃん来たらどうしよって途中で思って、ダッシュだよダッシュ。それでも来てくれないからさ、ゆっくりアイス食べ始めたのに、そんなタイミングで来るんだよ。いや、嬉しかったんだよ?すごくすごく。でもさ、このタイミングだけは違うよ。もう、キンキンする」
ずいぶんよく喋ること。
「私も急いだんだよ。これでも。あいこでいいでしょ」
梢枝は納得しきらないという顔だが、それは私が遅れたことじゃなくて、本当に私が来たタイミングとアイスを食べていたタイミングが重なったことに対しての不満らしかった。
棒だけになったプラスチックを、梢枝はそれが壊れやすいもののように両手で備え付けの小さなゴミ箱の底に置いた。ワーキングスペースはフリーアドレスであったので、なるべく使用中の他の人から離れていて、でも机の大きさがなるべく大きな窓側の席を選んだ。ファミレスの4人掛け用くらいの机には、やはり4つの木製の丸椅子が配置されていて、それぞれに手作りなのであろうクッションがその座面にジャストサイズで取り付けてあった。私は窓際の奥の席ではなくて通路側に座った。梢枝は向かいに座るだろうと思っていたが、後ろからついてきた梢枝はぴょこぴょこと弾みながら当たり前のように私の隣の窓際に並びで座った。
「下ろせば?カバン」
私に言われて梢枝は頷いた。そして丸椅子に座ったままリュックを下ろして窓ガラスと机の間の溝にギュっと押し込んだ。リュックの形を整えてパンパンと二度平手で叩くと、梢枝は体を起こして胸ポケットから昨日と同じメモ帳を、スカートのポケットから小さな筆箱を取り出した。それを机にきっちり並べて置くと、準備オッケーとでも言いたげな力の入った目で私の目を見た。
「遅くなっても困るから、さっそく始めようか」
私は仕事でも始めるかのような抑揚のない声を出して、それに梢枝が「うんうん」と声なく頷いたのを確認してから、膝に置いたスクールバックのファスナーを開けた。内側から押されてとがった角の部分でファスナーはいつも通り滑らかに動いてくれなかったが、それでも開かれるのを待ちわびていたかのようにいつもより高い音を立ててすべての金具を通過していった。最初に普段の物よりごつい第二の筆箱を取り出した。手に持ってみて、その色鉛筆やコピックが入っている大きい筆箱は私が小学5年の時から役割を全うしているものだったから、若干薄汚れ気味のキキララのデザインであることが急に恥ずかしかった。
「かわいいね、渚ちゃんの!」
遅かった。でも、梢枝は偽りなくその言葉を吐いているように見えた。観念した私はわざと雑にキキララの筆箱を机に放る寸前で、それはやりたく無くなって、10センチくらい机の上を滑らせるだけにした。作業台の宇宙を流れていくリトルツインスターズから鉛筆同士の擦れる音がした。
続けて私のカバンの横幅に合わせてできているかのように、壁面にぴったりと収まり良くはまっているスケッチブックを引き抜いた。引き抜いたスケッチブックをカバンと私の間に差し込み胸に立てかけて、カバンのファスナーを閉じた持ち紐に手をかけてスクールバックを梢枝に託した。
「これ、七森のリュックと同じところにおいてくれる」
「うん!」
梢枝はさっきとは重さの変わってしまった私のスクールバックを、やっぱり大事なもののように両手で受け取って、机の脚と梢枝のリュックの間に空間を作ると、どっちの向きにしようか2往復悩んでそっと差し込んだ。
つるつるとした穢れのないテーブルに私はスケッチブックを置いた。表紙の厚紙の四つ角に新品にはないヨレと丸みがあった。そこに親指を当てれば摩擦で表紙は持ち上がる。開いた表紙は金属のリングに沿って梢枝の前にふわりと落ちた。さっきまで内に秘められていた私と梢枝の作品は、表紙をめくった一枚目に昨日と変わらずまだ何色にもなっていないままそこにいた。それがすごく安心した心地にさせた。一度梢枝の前に落ちた表紙の厚紙を拾い上げ、またリングに沿わせて今度は裏表紙の厚紙のさらに後ろに送った。そして梢枝の前は、また梢枝のメモ帳と筆箱だけになった。
梢枝は、昨日のままの線画がなにも手を加えられていない状態でいてくれたことに安堵しているようだった。私のペンの動きを最初の水平線を引いたところから一つも逃すまいとしているのが分かった。でも、すぐに何か腑に落ちないと言いたげな顔になった。
「どうした?七森」
何ごとか言いたげな梢枝を放っておくわけにもいかなかった。
「いや、大したことじゃないんだけどね。」
梢枝は私にその顔を問いたださせるとは思っていなかったらしく、両方の掌を口の前から私に向けた。
「これ、渚ちゃんがずっと使ってるスケッチブックなんだよね?」
「まあね、何冊目かだけどね」
梢枝は開いた掌を小さく握った。
「そうだよね。そうなんだろうと思うんだけどね。」
窓から入っていた夕日が向かいのビルに隠れて、机と梢枝に影を落とした。
「それなら、どうして渚ちゃんが昨日描いてくれたこの絵が1ページ目なのかな、って。」
影は私も飲み込んでいった。その中で私は、梢枝の真っすぐな目から視線を外した。
「捨てたの。全部」
リングの縁に残っていた破り取られた紙の破片を抜き取って私はそれを握りつぶした。
「そっか」
梢枝は明るいまま答えた。そういう事だったんだね、とただ納得しただけに見えるほどその声はいつもと変わらなかった。
「それだけ?」
「それだけって?」
「気にならないの?」
「気にはなるよ。でも分かるから。描いてるとそういうことあるよね。」
腕組みした梢枝は繰り返し頷きながら、あれこれを思い返しているみたいだった。
その姿が大人ぶっているみたいで私はおかしかった。
「嘘だよ」
「なにが?」
「捨ててない。傷の入らないようにファイルに移しただけだから」
私は意識して片側の口角をあげた。気配を感じて梢枝を見たら、さっきぶりに梢枝と目が合った。梢枝は膨れていたが安心していたように見えた。
「渚ちゃん!また騙したね!」
「また?前回なんてあったっけ?」
梢枝は机にベタンと倒れるように突っ伏した。
「昨日の夜、あったよ」
「なんだっけ?」
静かに起き上がった梢枝は、少し機嫌が悪そうに、でも眉をハの字にしていた。
「また遊んでくれる?って聞いたらさ、嫌って言われたよ」
まだ根に持ってたんだ。
「いや、言ったけどさ。七森はその先は忘れたの?」
梢枝は突然キリッと微笑んだ。
「忘れたかもしれないよ!渚ちゃん、教えて教えて!」
確信犯だ。私に言わせようとしてるのがありありと伝わってきた。私は今日一番の溜息を吐いて、キキララの筆箱のファスナーを開いた。
「一緒に描いてよ」
梢枝は私のそれを聞いて、作った微笑みを爆発的笑顔に変えて真っ赤になった。そのまま椅子から立ち上がると丸椅子の足が地面とこすれて高い音がした。
「いいよ!してあげても!」
その言葉を置いて、梢枝はなぜかスタッフの元へ駆けて行った。
スタッフのお姉さんと何やら言葉を交わす梢枝は、学校とは違って表情豊かだった。私の前にいるときもそれは同じだということに梢枝が離れて初めて気づいた。好き勝手に好きなことをできる場所を梢枝は持てていたことが、なぜか私は自分のことのように嬉しく思っていた。つまりここは、梢枝のドッグランなんだ。話を一通り終えたスタッフは、梢枝に手を振ってバックヤードに消えていった。梢枝はその背中に何度も合掌しながらペコペコ頭を小刻みに下げた。謝っているようにも感謝しているようにも見えた。
戻ってきた梢枝はやっぱり私の隣の席に座った。そこまでの動線を梢枝は私に何か企んでいるのを隠したいのに隠しきれない様子で、不自然な鼻歌交じりだった。
「何してきたの」
「気になる?渚ちゃん!気になるでしょ?」
私の喜ぶことを仕込んできたんだろうことが漏れ伝わってきた。でもそれを梢枝自身はまだサプライズのつもりでいるらしかった。
「分かったよ、七森。分かんないけど。期待しとく」
そうすると、バックヤードからスタッフのお姉さんが出てきた。しかしその手には何も持っていなかった。その代わりに親指と人差し指でオッケーマークを作って梢枝に投げていた。梢枝はそれにまた頷いていた。それでも何も起きないので、私は赤の色鉛筆を握った。
「七森、そろそろ始めないと。また終わらないよ」
「そうだね!塗りしよう!渚ちゃん」
梢枝の声が天井に吸われるのと同時に、さっきまでかかっていた明るいジャズのBGMが止まって静まり返った。梢枝の隣を窓越しに走り抜ける車のウインカーが私と梢枝のカバンを周期的に黄色く染めていた。
プツンと切れたBGMが帰ってきたのはその車がロータリーの中に侵入した時だった。でもその音楽はさっきの落ち着いた曲ではなくて、軽快な2拍子だった。
「ケルトだ」
ワーキングスペースという共有の場なので音の粒は小さいけれど、確かにその音楽は私を無敵にするものだった。スピーカーの小さな穴の一つずつから私を前に押し出す音を受け止めて、私は色鉛筆を握りなおした。深呼吸を一つして梢枝を見ると自慢気な顔をしていた。
「七森が頼んだの?」
「そうだよ!これがあれば、渚ちゃんは最上級の渚ちゃんになれるから。それにね、私もちょっとは無敵になれるから」
私はまた吹き出してしまった。その梢枝の計らいは、決して私を喜ばせたいとか驚かせたいということではなくて、私たちのイラストを最上級に押し上げるための手段を余すことなく講じるための、言ってしまえば梢枝の為の努力でもあると分かったからだ。
「無敵にちょっとも沢山もないでしょ」
「たしかに・・」
私はキキララの筆箱をひっくり返し、中の色鉛筆とコピックを全て机に流し落とした。
「まあ、でも。感謝しとくよ」
梢枝はブンブン頭を上下していた。
「ただし、七森。これは勉強不足だから教えておくよ」
「え?何のこと?渚ちゃん」
私は左下のハイビスカスにあたる光を頭でシミュレーションして色の配置を決断した。
「私が昨日言ったのはアイリッシュ。この音楽はブルターニュだね。ケルトだけど、おしかったね」
私は梢枝に親指を立ててすぐにそれを引っこめると、ハイビスカスの中心の一番太陽のあたるところに最初の赤を入れた。




