第九十九話:霧の森
◆霧の森・外縁/クロ視点
耳の奥が、静かだった。
いつもなら、呼ばなくてもナノの声がある。
魔力残量や設備の状態。
頼んでもいない俺の健康状態。
今は、何も聞こえない。
肩の横に浮かぶ白い光もなかった。
北西迷宮から南西へ四日。
もう俺の迷宮領域ではない。
ナノは本拠へ残した。
迷宮の運営と、リリの補佐。
何より、夜明けの芽へ存在を知られるわけにはいかない。
「クロさん?」
カイの声で、顔を上げた。
「どうかしました?」
「いや」
振り返る。
カイ、レオ、ミナ、セラ。
四人ともいる。
それでも今、俺だけがどこにも繋がっていなかった。
「何でもない」
目の前の森へ視線を戻す。
白い霧が、木々の間から絶え間なく流れ出している。
風に運ばれているんじゃない。
森そのものが、霧を吐いていた。
「これが、霧の森……」
俺の迷宮から、たった三、四日。
隣人と呼んでもいい距離にA級迷宮があった。
「外から見ると、普通の森っすね」
レオが背負った大盾を直す。
「普通の森は、あんな霧を吐かない」
セラが鞄から資料を取り出した。
何度も開かれたらしく、紙の角が丸くなっている。
「ギルドに残っていた記録です。過去二十年で、攻略に挑んだパーティは十一組」
「帰ってきたのは?」
「四組」
レオの顔から笑みが消えた。
「半分以下か……」
「最深部へ到達したという報告はありません。帰還した四組も、全員が外縁部で撤退しています」
「魔物の情報は?」
「なし」
「迷宮主は」
「目撃例なし」
「罠は?」
「深い霧。音が聞こえない。それから――気づくと、仲間が減っている」
役に立ちそうで、何も分からない。
「死んだ連中の装備は?」
「回収例はありません」
「遺体は?」
セラが資料から顔を上げた。
「一体も」
森から流れてきた霧が、足元を撫でる。
死体がない。
だから死んでいる、とは限らない。
「エルドラさん、本当にここを勧めたんですよね?」
ミナが霧の向こうを見た。
「ああ」
「私たちなら攻略できるって?」
「そこまでは言ってない」
「えっ」
「自分の目で見てこい、と」
「それ、クロさんだけに言ったんじゃないですか?」
セラの指摘が痛い。
「……五人で見た方が、情報は増える」
「言い換えても無茶は無茶です」
十日で用意できた手札は、多くない。
腰の剣。
調整した鎧。
上着の内側に仕込んだ、十枚の魔導スクロール。
十日間の通常営業で貯めた魔力を、全部使った。
ゲヘナへ向かった時は、百枚あった。
今回は、その十分の一だ。
「隊列を確認します」
セラが資料をしまった。
「先頭はレオ。その後ろにカイ。中央にミナ。次に私。最後がクロさんです」
「俺が最後か」
「背後から何か来ても、対応できるのはクロさんですから」
「剣はカイの方が上手いぞ」
「知っています」
「即答だな」
「見れば分かります」
言葉が痛い。
「撤退の判断は?」
セラが聞いた。
「誰が出してもいい」
「私が無理だと言ったら?」
「退く」
「クロさんが、まだ行けると思っていても?」
「退く」
セラが小さく頷いた。
「では、行きましょう」
カイが剣を抜く。
俺たちは、白い霧の中へ足を踏み入れた。
◆霧の中/クロ視点
十歩で、外が消えた。
振り返っても、森の入口はない。
前も後ろも、頭上さえ白い。
辛うじて、前を歩くセラの背中が見える程度だった。
「全員いますか?」
カイの声が聞こえた。
「いるっす」
「います」
「いるわ」
「俺もいる」
声は聞こえる。
だが、足音が返ってこない。
レオの金属靴が落ち葉を踏んでも、音は足元で消える。
枝を踏み折る音も、数歩先へ届かない。
反響がない。
世界が、俺たち五人分しか残っていないようだった。
「セラ。風で霧を飛ばせるか?」
「試します」
セラが杖を上げる。
「巡る風よ、我が前に集いて――道を開け」
風が、隊列の前を走った。
霧が左右へ押し退けられ、十歩ほど先まで木々が見える。
だが、数秒で白が戻ってきた。
「駄目。外から流れてきてるんじゃない」
セラが眉を寄せる。
「ここで生まれ続けてる」
「なら、出力を上げれば――」
右手へ魔力を集めた。
風の刃で、正面を切り開く。
魔力を圧縮して、薄く伸ばして、前へ飛ばす。
いつも魔法陣へ書いている処理だ。
「風刃」
何も起きなかった。
「…………」
「…………」
「クロさん。それ、詠唱が要ります」
「詠唱?」
セラが振り返った。
「……知らないんですか?」
「術式なら書ける」
「唱え方は?」
「知らない」
「どうして、それで魔法を使おうと思ったんです?」
「出力で何とかなるかと」
集めた魔力を、無理やり前へ押し出す。
ばあん、と空気が弾けた。
「うわっ!」
「きゃっ!」
前にいた四人が、まとめて体勢を崩す。
霧と落ち葉が舞い上がり、細い枝が何本か折れた。
風刃ではない。
ただの突風だ。
しかも、霧はすぐに戻ってきた。
「……魔力量はすごいのに」
セラが俺を見る。
「クロさん、私より魔法が下手ですね」
「ひどい言い方だな」
「事実です」
なんとなくナノを思い出した。
「進みます」
レオが先頭へ戻る。
同じ太さの木。
同じ色の苔。
途切れない白い霧。
セラが幹へ印を刻んでいるが、一度も同じ印には出会わない。
迷っているのか。
奥へ進んでいるのか。
それすら分からなかった。
「止まって」
カイの声が低くなる。
全員の足が止まった。
「何かいるのか?」
「分かりません。でも、今――」
白いものが、霧の中で光った。
首の高さ。
「伏せろ!」
レオが大盾を上げる。
きぃん、と細い音がした。
盾の表面に、一本の傷が走る。
「糸だ!」
今度は足元で、白い線が光った。
俺は剣を抜き、一歩踏み込んだ。
振り下ろした刃が、糸を切る。
「クロさん、戻って!」
カイに肩を引かれた。
俺が立っていた場所を、二本目の糸が横切る。
革鎧の胸元が、薄く裂けた。
「踏み込みが大きすぎます!」
「切れたぞ」
「切ったあと、戻れてません!」
「身体能力で何とか――」
「ならない時があるから言ってるんです!」
怒られた。 正しい。
「悪い」
「俺が切ります。クロさんは後ろを見てください」
「分かった」
剣術はカイが上。
魔法はセラが上。
迷宮での歩き方も、こいつらの方が慣れている。
俺にあるのは、能力値と、作る側の知識だけだ。
再び白い糸が飛んでくる。
レオが盾で受け、絡みついた糸をカイが切った。
「右!」
セラの魔法弾が、霧へ消える。
何かに当たったように見えたが、何も落ちてこない。
敵の姿はない。
それでも攻撃は止まらなかった。
レオが盾を右へ向ける。
次の糸は、左から来た。
俺たちが迂回する。
まだ誰も踏んでいない地面を、白い糸が横切った。
足が止まる。
「……先回りされた」
向こうには、こちらの位置が見えている。
一人ずつ。
誰が、どこにいるのかまで。
「森全体から見られてる」
カイが、霧の奥へ目を凝らした。
木々の間で、細い糸が一度だけ光った。
その震えが、隣の木へ伝わる。
さらに、その先へ。
森中が繋がっている。
それなのに、誰も姿を見せない。
声すら、かけてこなかった。
「……止まってください」
ミナが小さく言った。
「上に、何かあります」
霧の中。
頭上に、白い塊が浮かんでいた。
一つじゃない。
木々の間に、いくつもの巨大な繭が吊り下がっている。
風もないのに、ゆっくりと揺れていた。
「魔物の巣か?」
レオが盾を構えたまま見上げる。
繭の一つから、何かが突き出していた。
泥に汚れた革靴。
人間の足だった。
別の繭には、錆びた剣が巻き込まれている。
さらに奥には、ひしゃげた金属盾。
セラが、手の中の資料を見る。
「回収されてないんじゃない」
震えた指が、繭を指した。
「ここに、ある」
七組が未帰還。
遺体の回収例は、なし。
◆霧の奥/クロ視点
「どうします?」
カイが聞いた。
俺たちはまだ、迷宮主どころか魔物一体見ていない。
使ったスクロールもゼロ。
全員が動ける。
「もう少し進む」
セラが俺を見る。
「どこまでですか?」
「次に状況が変わるまで。何も掴めないまま帰ったら、次も同じところで詰まる」
「分かりました」
再び歩き出す。
糸の攻撃は、さっきより正確になっていた。
レオが盾を向ける角度。
カイが剣を振る間隔。
セラが魔法を放つ前の呼吸。
進むほどに、森が俺たちの動きを覚えていく。
「急いで!」
セラの声。
俺は前へ出ようとして――足を止めた。
「……ミナ?」
返事がない。
「ミナ!」
振り返る。
白い霧。
そこにいるはずの少女が、消えていた。
いつからだ。
音はしなかった。
悲鳴も聞こえなかった。
霧が、全部飲み込んだ。
「回復役から先に抜いた」
「え?」
(俺のやり方と同じだ……)
王国軍を崩した時、俺は回復役から狙った。
やられる側になると、こんなに嫌なものなのか。
「ミナ!」
カイが霧へ飛び込もうとする。
「待て!」
肩を掴んだ。
「でも!」
「闇雲に走れば、次はお前が消える」
「じゃあ、どうするんです!」
上着の内側から、スクロールを一枚抜く。
「霧は水だ」
「クロさん?」
「水なら、熱で飛ばせる」
魔力を流し込む。
刻んだ術式が、赤く光った。
「目を閉じろ!」
紙が燃え上がる。
次の瞬間。
熱風が、森を吹き抜けた。
白い霧が一気に蒸発する。
視界が開いた。
一瞬だけ、森の正体が現れる。
木々の間を埋め尽くす、銀色の糸。
幹から幹へ。
枝から枝へ。
俺たちのすぐ横にも、何本もの糸が張られていた。
「ミナ!」
右前方。
白い糸に両腕を巻かれ、木の上へ引き上げられている。
足が地面から離れていた。
「クロさん、右上!」
カイの声。
地面を蹴り、ミナとの間を一気に詰める。
正面から糸が走った。
「小さく!」
踏み込みを殺す。
半歩だけ横へずれる。
糸が鼻先を通過した。
カイが追いつき、ミナを吊るしていた糸を切る。
落ちてきた体を、レオが両腕で受け止めた。
「ミナ!」
「だ、大丈夫……」
首元に、細い赤い線が走っている。
息はある。
意識もある。
「今の、見えましたか」
カイが、霧の戻った森を見ていた。
「何が」
「……分かりません」
「分からない?」
「糸とは別に、何か……線みたいなものが」
カイの目に、淡い光が残っている。
あの一瞬。
こいつだけが、別のものを見た。
「あとで聞く。今は隊列を戻すぞ」
燃え尽きたスクロールが、灰になって落ちる。
残り、九枚。
魔物は倒していない。
迷宮主にも会っていない。
それでも、全員まだ歩ける。
ミナを狙った手も分かった。
カイは何かを見た。
もう少しなら――。
「退きます」
セラが言った。
俺はまだ、行けると思っていた。
糸の仕組みを見たい。
カイが見た線も確かめたい。
迷宮の核へ続く手掛かりを、一つでも持ち帰りたい。
言葉が喉まで出かかった。
「分かった」
飲み込む。
「撤退する」
セラが一瞬だけ目を見開いた。
「……はい」
それだけだった。
◆霧の中・帰路/クロ視点
帰り道では、何も起きなかった。
糸は飛んでこない。
縄も切られない。
行く手を塞ぐ霧さえ、少し薄くなったように見える。
「助かったっすね」
レオが息を吐いた。
「……ああ」
違う。
追ってこないんじゃない。
追う必要がないと、計算されている。
俺たちはもう、奥へ進まない。
ここで追い詰めれば、反撃するかもしれない。
森を壊すかもしれない。
なら、出口まで歩かせた方が安い。
俺なら、そうする。
「止まるな」
俺は言った。
「攻撃されてないだけだ。まだ見られてる」
森は静かだった。
足音も返ってこない。
ただ、ときどき。
霧の向こうで、細い糸が光る。
こちらへ触れず、離れもしない。
出口まで、ずっとついてきた。
やがて、白い霧の向こうに光が見えた。
木々が途切れる。
草を踏む音と、荒い呼吸が耳へ戻ってくる。
俺たちは、霧の森の外へ転がり出た。
「止まるな! 森から離れるぞ!」
さらに走る。
百歩。
二百歩。
霧が追ってこないことを確認して、ようやく足を止めた。
振り返る。
外から見れば、ただの静かな森だった。
誰とも会わなかった。
魔物の姿も見ていない。
迷宮主の声すら聞いていない。
それでも、俺たちは完璧に負けた。
◆霧の森・外縁野営地/クロ視点
森から十分に離れた場所で、野営した。
焚き火が、ぱちぱちと音を立てている。
音が聞こえる。
それだけで、少し安心した。
「人数確認」
一人ずつ見る。
レオ。カイ。ミナ。セラ。
最後に、自分。
五人。
全員、生きている。
「帰ってきたな」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
「セラ」
「何です?」
「よく言った」
縄を調べていた手が止まる。
「……撤退のことですか?」
「ああ」
「クロさん、まだ行けると思ってましたよね」
「思ってた」
「顔に出てました」
「そんなに分かりやすいか、俺」
「かなり」
エルドラと同じことを言われた。
「怒らないんですか?」
「何で?」
「止めたから」
「止めてくれって頼んだのは、俺だ」
「でも――」
「俺が行けると思ってても、退くって約束した」
セラは、しばらく俺を見ていた。
「……本当に退くとは思ってませんでした」
「信用ないな」
「今までの行動を振り返ってください」
「否定しづらい」
セラが、ほんの少しだけ笑った。
「だから言いました」
「ああ」
「言ってよかったです」
「助かった」
俺一人だったら、もう少し進んでいた。
次に消えていたのは、俺だったかもしれない。
「クロさん」
カイが、霧の森を見たまま呼んだ。
「何だ」
「北西迷宮で死んだ人って、いないですよね」
焚き火の中で、薪が崩れた。
「……ああ」
カイが、首元に包帯を巻いたミナを見る。
それから、霧の森へ視線を戻した。
「あれ」
小さく息を吐く。
「当たり前じゃなかったんですね」
俺は答えられなかった。
おかしいのは、俺の迷宮の方だった。




