第百話:森の目
◆霧の森・外縁野営地/クロ視点
森は、何もなかったような顔をしていた。
昨日、五人で入った。
ミナが攫われかけた。
完璧に追い返された。
なのに、木々の間から漏れる霧の量まで、昨日と同じだ。
減ったのは、こっちのスクロールだけ。
「……感じ悪い森だな」
「森に悪口を言う人、初めて見ました」
焚き火の向こうで、セラが言った。
「聞こえてるかもしれないぞ」
「だったら、もっと言っておきましょうか」
「やめとけ。次に入った時、攻撃優先度を上げられる」
「本気で言ってます?」
「半分くらい」
「半分は本気なんですね……」
火の上で、小さな鍋が湯気を立てている。
ミナが淹れた薬草茶。
煮出した匂いが、鼻の奥に残った。
「クロさん」
「ん?」
「また見てます」
ミナが自分の首元を押さえた。
細い包帯。
昨日、糸に巻かれた跡だ。
「見てない」
「見てました」
「健康状態を確認してただけだ」
「健康管理は、私の仕事なんですけど」
喉の奥で、何かが引っかかった。
似た台詞を、出発前にも聞いた。
声も、相手も違う。
なのに、妙に耳へ残る。
「クロさん?」
「……いや」
隣でカイが笑った。
「クロさん、昨日からちょっと変ですよ」
「そうか?」
「独り言、多くないですか」
セラまでこっちを見る。
「確かに」
「気のせいだ」
危ない。
肩の横に誰もいないだけで、そんなに挙動が変わるのか。
普段、どれだけ頭の中で会話してるんだ、俺。
「それより」
強引に切る。
「昨日の記録を整理するぞ」
「もう書いてあります」
セラが鞄から紙を出した。
すでに文字がびっしり並んでいる。
「霧は常時生成。風で払っても数秒で戻る。音は遠くまで届かない」
「森の中には大量の糸。それが攻撃にも使われる」
一息で読み上げた。
「そこまでは、昨日見た通りです」
「早いな」
「昨日のうちに書きました」
この子、ほんとに迷宮探索に向いてるな。
「問題はここからです」
セラが紙をめくる。
「進むほど、攻撃の精度が上がりました」
「ああ」
最初は首元。
次は足元。
レオが盾を右へ向ければ、糸は左から来た。
避けようとした先に、先回りして張られていた。
「学習してる」
「森が?」
レオが眉を寄せる。
「森というより」
俺は霧の向こうを見た。
「この森を使ってる奴が、だ」
迷宮主ネフィラ。
名前だけは、四人にも伝えてある。
エルドラから聞いた、ということにして。
アラクネ。
この森の主。
それ以上のことは、俺も知らない。
顔も見ていない。
声も聞いていない。
それでも、やり方だけは分かる。
正面から戦わない。
姿を見せない。
見る。覚える。危険な順に処理する。
そして。
「回復役から抜く」
ミナの肩が、少しだけ揺れた。
「……はい」
「悪い」
「いえ。大丈夫です」
昨日より、声が強い。
「もう一つあります」
セラが指を立てた。
「撤退を決めたあと、一度も攻撃されませんでした」
「そこが一番でかい」
「どうしてです?」
カイが聞く。
「追い返すのが目的なら、出口まで殴り続ける必要がない」
「でも、普通は追撃しますよね」
「相手を殺したいならな」
レオが腕を組んだ。
「倒せるなら、倒した方がよくないっすか?」
「何で?」
「何でって……」
しばらく考えて、頭を掻く。
「素材?」
「俺たちを食うならな」
「食うんすかね、蜘蛛って」
「知らん」
「そこは知らないんすね」
「俺は蜘蛛博士じゃない」
セラが紙から顔を上げた。
「追い詰めれば、こちらも抵抗します」
「そうだ」
「スクロールを使う。森を焼くかもしれない。糸も切る」
「そう」
「なら」
セラの目が、少しだけ細くなる。
「出ていく相手は、放っておく方が安い」
「俺ならそうする」
「……その言い方」
カイが呟いた。
「昨日も聞きましたよ」
「言ったな」
否定できない。
「じゃあ」
ミナが身を乗り出す。
「ネフィラさんって、クロさんみたいな人なんですか?」
「性格は知らんが、人ではなくアラクネらしいぞ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
効率を優先する。
無駄な戦闘を避ける。
危険度の高い順に排除する。
……うちのやり方だ。
ただ。
頭上に吊られていた繭を思い出した。
泥だらけの革靴。
錆びた剣。
ひしゃげた盾。
あれは、うちにはない。
「似てるけど、同じじゃない」
口から出ていた。
「何がです?」
「まだ分からん」
分からない。
だから、もう一度入る。
「カイ」
「はい」
「昨日お前が見たものを、詳しく聞かせろ」
カイの顔が引き締まった。
「糸とは別の線が見えたって言ったな」
「……見えたと思います」
「思う?」
「一瞬だったので」
カイが自分の目元に触れる。
「霧が晴れた時、糸がたくさん見えました」
「ああ」
「でも、その中に。光ってる糸と、光ってない糸があって」
「色が違うのか」
「違います」
「太さは」
「それも違う」
カイが首を振った。
「何て言えばいいんだろう……」
焚き火の向こうで、セラが紙に何か書き足している。
「魔力視で見たの?」
「たぶん」
「なら魔力の流れでしょう」
「いや」
カイが眉を寄せた。
「魔力そのものじゃないんです」
「どう違う」
俺が聞く。
「魔力って、普通は流れてますよね」
「ああ」
術式でも、生物でも。
完全に止まっている魔力なんて、ほとんどない。
「昨日見たのは、流れてるっていうより」
カイが指を一本伸ばした。
空中に、線を引く。
「何かが、走ってたんです」
「何かって何だ」
「魔力なんですけど、そうじゃなくて……」
「どっちだよ」
「だから、説明できないんです!」
少し怒られた。
「光が、順番に移っていったんです」
「順番」
「一本の糸が光って。その先の糸が光って。それから、そのまた先が」
思考が止まった。
昨日。
俺も見ている。
木々の間で糸が震えた。
その震えが、隣の木へ。
さらに、その先へ。
「カイ」
「はい」
「その光は、いつ走った」
「いつ、というと」
「俺たちが動いた時か。何もしていない時か」
カイが目を閉じた。
昨日の景色を探っている。
「ミナが消えた時は?」
「見てません」
「俺が熱風を使った直後は」
「……それなら」
目を開く。
「見ました」
「どっちからどっちへ」
「俺たちの周りから、森の奥へ」
背中が、ぞくりとした。
蜘蛛の巣。
糸。
振動。
一本に触れる。
揺れが伝わる。
獲物の場所が、蜘蛛に届く。
ここまでは、生き物の仕組みだ。
だが。
順番に光った。
それは、ただの揺れじゃない。
信号だ。
「クロさん?」
レオがこっちを見る。
「いや」
頭の中で、景色が入れ替わっていく。
昨日までは森だった。
今は違う。
木が柱に見える。
糸が、柱の間に張られた配線に見える。
一本一本が繋がって。
端から端まで、情報が走る。
位置。
動き。
魔力。
人数。
それを、どこかへ送っている。
「……網じゃないな」
「網ですよね。蜘蛛だし」
「そうじゃなくて」
網は、引っかけるためのものだ。
これは、それだけじゃない。
「ネットワークだ」
「ねっと?」
「悪い、こっちの話だ。忘れろ」
「クロさん、たまによく分からない言葉使うっすね」
だが、間違いない。
霧は目隠し。
糸は罠。
そして、森全体に張り巡らされた情報網。
俺たちは昨日、森に襲われたんじゃない。
森全体から、観測されていた。
「カイ」
「はい」
「その線、もう一度見られるか」
「やってみないと」
「十分だ」
立ち上がる。
「もう入るんですか?」
ミナが目を丸くした。
「今日じゃない」
「よかった……」
心底ほっとされた。
信用がない。
「準備する」
残り九枚のスクロールを確かめる。
昨日は、霧を飛ばした。
次は違う。
「何をするんです?」
セラが聞く。
「見る」
「何を」
「向こうが、何を見てるのかを」
四人が黙った。
「……できます?」
「知らん」
「知らないんですか」
「だから試す」
「クロさん」
「何だ」
「その言い方、嫌な予感しかしません」
「奇遇だな」
俺もする。
◆霧の森・外縁/クロ視点
その日の午後。
曇り。
風はない。
森には入らなかった。
代わりに、外縁を歩いた。
白い霧が、木々の間から漏れ続けている。
近づきすぎない距離を保って、森の外周を辿る。
「ありました」
セラがしゃがんだ。
低い枝。
そこに一本だけ、銀色の糸が張られている。
霧の外。
本当に、ぎりぎりの位置だ。
「触るなよ」
「触りません」
カイが隣へ膝をついた。
目に、薄い光が宿る。
「……流れてます」
「何が」
「昨日と同じもの」
胸の奥が、少し鳴った。
俺もしゃがむ。
糸は細い。
髪の毛より、少し太いくらい。
その一本が、木々の間を抜けて、霧の奥へ消えている。
「何が流れてるか分かるか」
「無理です」
「速さは」
「……速いです」
カイの目が、糸に沿って動いた。
「方向は」
「森の奥」
やっぱりだ。
ただの糸じゃない。
「セラ」
「はい」
「魔力を、ほんの少しだけ流せるか」
「この糸にですか」
「ああ」
「気づかれて攻撃されません?」
「攻撃されたら逃げる」
「計画が雑です」
「気づかれないようにやってくれ」
「急に難易度を上げないでください」
文句を言いながら、セラが杖を近づけた。
先端に、小さな光が灯る。
「本当に、少しだけですよ」
「頼む」
光が、糸に触れた。
瞬間。
「っ!」
カイが目を押さえた。
「どうした」
「大丈夫です!」
すぐに顔を上げる。
瞳が、大きく開いていた。
「今、一気に走りました」
「どこへ」
「奥です」
セラが魔力を止める。
糸は切れていない。
何も起きない。
一秒。
二秒。
三秒。
「……来た」
カイが呟いた。
「何が」
「戻ってきてます。さっきとは、逆です」
目の前で。
銀の糸が、ほんの一瞬だけ震えた。
風はない。
誰も触れていない。
……返事か。
森を見る。
白い霧。
何も見えない。
だが、向こうはこちらを見ている。
俺たちが糸へ触れたことも。
魔力を流したことも。
こっちがまだ外にいることまで、自分から教えてしまった。
(……まあ、いい)
むしろ、収穫の方がでかい。
「なるほどな」
「何がです?」
俺は笑った。
「一方通行じゃない」
向こうから情報が来る。
こちらからも、流せる。
だったら。
「通信できる」
「通信?」
「次は」
糸から手を離す。
「向こうの回線に、こっちから乗る」
「クロさん」
セラが嫌そうな顔をした。
「それ、何をする気です」
「まだ何も」
「その顔で言われても信用できません」
「そんなに顔に出てるか」
「かなり」
また言われた。
霧の奥で。
一本の糸が、もう一度だけ震えた。
まるで、こっちの話を聞いていたみたいに。
◆第5階層・トーマスの店/トーマス視点
紙が動いていた。
ひと月ほど前から、ずっとだ。
行商人。宿。荷運び。
四十年かけて張った線の上を、「北西」への問いだけが流れ続けている。
人の数。
区画。
誰が住んでいるか。
だが、人は一人も動かなかった。
軍が来るなら、必ず先に足跡が出る。
補給の手配。宿営地の確保。街道の使用許可。
それが一枚もない。
――今朝までは。
トーマスは、届いたばかりの紙を机へ置いた。
王都から西へ、道のりの半ば。
小さな宿場町の宿に、六人分の部屋が押さえられている。
六人。
少ない。
軍ではない。
護衛も付いていない。
行き先の欄は、空白だった。
書く必要がないからだ。
あの街道の先には、北西迷宮しかない。
「……動きましたね」
トーマスは紙を持って、立ち上がった。
「リリ様に、お伝えしなければ」
◆霧の森・最深部/???視点
一本。
外縁の糸が、震えた。
獣ではない。
風でもない。
侵入者が触れた揺れとも、違う。
こちらへ向かって。
何かが、流し込まれた。
細い指が、銀の糸に触れる。
返ってきたものを読む。
意味はない。
ただの魔力。
ただの入力。
けれど。
「…………」
銀の糸が、もう一度だけ震える。
遠く。
森の外側から。
規則正しく。
こちらへ。
――近づいてくるのではない。
――話しかけてきている。
「……触って、きた」
女の声が霧の奥へ落ちた。
返事をする者はいない。
蜘蛛の脚が、静かに動いた。
森中の糸が、次々と微かに震えていく。
やがて、そのすべてが、外縁の一点へ向いた。




