第九十七話:動かせない手札
◆第5階層・治癒区画/黒瀬視点
「で。本気なんですか、昨日のあれ」
翌朝。
煮出した薬草の匂いが漂う廊下を歩きながら、隣のエルドラに聞いた。
「何がじゃ」
「迷宮を喰えって話です」
「本気じゃが?」
何を今さら、という顔をされた。
「他人の迷宮ですよ?」
「迷宮じゃろうが。器と核があって、主が座っておるだけの箱じゃ。座る者が替わって、何が困る」
「座ってる本人が困るでしょうね」
「本人が困るだけであろう?」
「そういう問題かな……」
エルドラにとっては、そういう問題らしい。
当人は、どこから出したのか小さな焼き菓子をかじりながら歩いている。
他の迷宮から核を奪い、こちらへ組み込む。
物騒だが、一度やった。
炎熱迷宮ゲヘナ。
あの時は、最大魔力容量が八千から二万三千まで跳ね上がった。
吸収された側の主は今、この廊下のどこかで寝ている。
少なくとも、あの時は悪い結果にはならなかった。
「ナノ」
「はい」
肩の横に、白い光が浮かんだ。
「今回欲しいのは容量じゃない。使える魔力だ。そっちも取れるのか?」
「可能です。対象迷宮の核に残存する魔力も、統合時に当迷宮へ移管されます」
「器だけじゃなく、中身も?」
「両方いただけます」
「会社を丸ごと買うようなものか」
「また分からん例えを……」
「俺には分かりやすいんです」
なら、都市を作るための魔力は手に入る。
配線の問題は残るが、少なくとも空の財布を抱えているよりはいい。
「……ご主人。一点、補足がございます」
ナノの声が、わずかに硬くなった。
こういう前置きをする時のこいつは、大抵ろくな話をしない。
「なんだ」
「現在の最大魔力容量は、五万二千です」
「ああ」
「この数値は、現在の来訪者層では、もう上昇しません」
足が止まった。
「……は?」
「FからAランクの冒険者では、これ以上、器を押し広げられません」
「ちょっと待て」
「はい」
「昨日、五万二千まで増えたって聞いたばかりなんだけど」
「はい」
「もう天井?」
「はい」
箱がでかくなった知らせと、蓋が閉まった知らせが同じ日に届いた。
覚えがある。
「……八千の壁の時と、同じか」
「同じです」
「なら、迷宮を食えば伸びるだろ」
「……試算しておきます」
妙な間があった。
まあいい。
今欲しいのは、器の容量じゃない。
中身だ。
「外へ魔力を送る方法は?」
「未解決です」
「見込みは」
「申し上げにくいのですが、解決の糸口もございません」
「そこは少しくらい濁してくれてもいいんだぞ」
「事実の共有です」
燃料を手に入れても、地上まで線が通らない。
机の上に問題を一つ置くと、その下から次の問題が顔を出す。
「一つ解決すると、次が残るな……」
「黒瀬」
「はい」
「全部いっぺんに抱えるでない」
エルドラが呆れたように言った。
「まず、一つ片づけよ。手札が増えれば、見えるものも増える」
「増えなかったら?」
「その時また考えればよかろう」
「アドバイスが雑すぎませんか」
「考えすぎる男には、ちょうどよい雑さじゃ」
否定しにくい。
その時。
治癒室の奥から、地響きのような音がした。
ずずずず……と石壁が震え、天井から細かい埃が落ちてくる。
「……何の音だ」
「バルログさんのいびきです」
「元気そうじゃないか」
「ですが、戦闘許可は出せません」
「だよな」
一人目、脱落。
隣の部屋を覗く。
ジグが寝床の上で刀を磨いていた。
肩から胸まで、白い包帯に覆われている。
布を刃に当てる。
根元から先へ滑らせる。
戻す。
また滑らせる。
俺に気づき、起き上がろうとした。
「寝てろ」
「……はっ」
素直に戻った。
刀は置かなかった。
「それも置いていいぞ」
「これは鍛錬ではありません」
「じゃあ何だ」
ジグの手が止まった。
「……手が空くと、あの日の不甲斐なさを考えてしまいますので」
「…………」
「刀を手入れしていた方が、楽です」
返す言葉がなかった。
十二階層で、ジグはヴァルターを二十分止めた。
あの二十分がなければ、軍の後衛は削り切れなかった。
「分かった。でも、無理はするな」
「はっ」
扉を閉める。
背中で、布が刃を撫でる音がまた始まった。
その隣では、ロクが修理台に載せられていた。
青い光の中、外された機械腕が台の脇に置かれている。
肩の断面から、細い配線が何十本も垂れ下がっていた。
「ロクは」
「主要部品交換中です」
「はい、次」
長く見ていると、余計なものが夢に出てきそうだった。
「ポヨは?」
「核を修復中です」
「ポヨーン……」
ナノの声を遮り、廊下の奥から間の抜けた音がした。
透明な塊が、こちらへ跳ねてくる。
いつもより低い。
体の中央では、真っ二つになった二つの核が、治癒術式の光に包まれていた。
「ポヨーン!」
俺を見つけた瞬間、少しだけ速くなった。
「……元気じゃないか」
「じゃろ?」
エルドラが得意げに言う。
「エルドラさんの手柄じゃないですよ」
「細かいのう」
「ポヨ!」
ポヨが足元まで来た。
「お前も寝てろ」
「ポヨ?」
「出撃禁止」
「ポヨォ……」
しぼんだ。
何で表情がないのに分かるんだろう。
しゃがみ込む。
王国軍との戦いで、ポヨは十四階層そのものになった。
三日間、五百人を背中に載せ続けた。
そして最後に、二つの核を砕かれかけた。
「……悪かったな」
「ポヨ?」
「無茶させた」
「ポヨーン」
伸びた粘体が、俺の手首に絡みつく。
ひやりとした感触。
いつもより、少し弱い。
ポヨは怒っていない。
たぶん、自分が何をされたのかも、よく分かっていない。
それが余計に堪えた。
向かいの部屋では、リリが寝台に伏せて眠っていた。
戻っていない二枚の翼。その付け根だけが、治癒術式の光に包まれている。
「リリは」
「魔力の回復を優先中です」
「だよな」
「ご主人」
ナノが静かに言った。
「ご自身の診察も残っています」
「俺はいいだろ」
「よくありません」
「動けるぞ」
「肋骨二本。左肩損傷。いずれも治癒途中です」
「ほら、動ける」
「戦闘可能とは申し上げておりません」
「厳しいな」
「ご主人の健康管理は私の仕事です」
廊下の奥で、バルログのいびきが響く。
閉じた扉の向こうでは、ジグが刀を磨いている。
ロクは腕を外され、ポヨは割れた核を抱え、リリの翼はまだ戻っていない。
全員、生きている。
三日間、五百人を相手にして、死者は一人も出なかった。
それでも。
今、動かせる者は一人もいない。
「……三週間くらいか」
「完全復帰までの目安でしたら、その程度です」
他所のA級迷宮へ乗り込める状態ではない。
手札はある。
だが、一枚も動かせない。
「全員が戻るまで、三週間か……」
「その間に、王国が攻めてくる可能性は?」
エルドラが聞いた。
「低いと思います。トーマスも、すぐには動けないだろうと」
今頃、ヴァルターの報告書は王都へ向かっている。
届けば机から机へ回され、会議にかけられ、予算と責任者が決まる。
その頃には、別の会議が増えている。
大きい組織は遅い。
前の世界では散々苦しめられた。
今は、その遅さに助けられている。
「つまり、待つ時間はあるのじゃな」
「あります」
「それでも、その顔か」
「……待ちたくはないです」
エルドラの目が、わずかに細くなった。
「何故じゃ」
「今が、一番弱いからです」
最大容量、五万二千。
S級の器。
その中は空っぽで、守護者は全員この廊下にいる。
「等級だけ上がって、中身が追いついてない。前の世界だと、名ばかり昇格って言うんですけどね」
「よい響きではないな」
「最悪の響きです」
三週間。
何も起きないことを祈りながら、ここで待つ。
考えただけで落ち着かなかった。
「病気じゃな」
「まだ何も言ってないんですけど」
「顔を見れば分かる」
「便利ですね、長生きって」
「人を年寄り扱いするでない」
「年齢の話はしてませんよ」
「今、したであろうが」
少しだけ、肩の力が抜けた。
「でも、何も起きないことを祈るのは、対策じゃないんですよ」
「では、待たぬために何が要る」
「戦力です。でも、この通り――」
「黒瀬」
エルドラが、俺の言葉を止めた。
「お主、まだ分かっておらんな」
「何がです」
「戦える者は、魔物の中にしかおらんのか?」




