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第九十六話:迷宮の値段

◆迷宮核の間/黒瀬視点


 机の上に、大きな地図が広げられていた。


 王国の西方。

 その端、山脈に食い込むような位置に、小さな印が一つある。


 北西迷宮。

 俺の迷宮だ。


「……こうして見ると、本当に端っこだな」


「はい。王国の人間にとっては、長い間、価値のない土地でしたから」


 向かいに座るトーマスが答えた。


 正式採用から、まだ数日。

 薬草商の服装は変わっていない。


 変わったのは、机の横に王国軍の配置図と周辺諸国の資料が積まれていることくらいだ。


 薬草と包帯の在庫を管理していた男が、今は国家機密に近い話をしている。


「第三軍団は撤退しました。ですが、王国がこのまま諦めるとは考えにくいでしょう」


「だろうな」


 五百人送り込んで、五百人返した。


 しかも、勇者はいませんでした、という報告書つきで。


 宰相からすれば、納得できる結果ではないだろう。


「次も軍か?」


「すぐには来ないでしょう」


 トーマスは首を振った。


「第三軍団長ヴァルターは、王国が自由に動かせる戦力としては最高峰でした」


「自由に動かせる?」


「王国には、まだ戦力があります。ただし――動かせません」


 トーマスの指が地図の南へ滑った。


「王国南方。ここにはSS級迷宮が存在します」


「SS……」


 喉が、勝手に鳴った。


 聞いたことはある。S級の、さらに上。


 俺の迷宮がようやく五万二千。

 SS級はその約十倍だ。


「『永遠の揺り籠』――カタコンベ・ノア」


 トーマスの指が南の印の上で止まった。


「王国は長年この迷宮を抑えるため、相当数の戦力を南方へ固定しています」


「倒さないのか」


「倒せないのです」


 即答だった。


「結界を維持し、外へ影響が出ないよう監視する。それで精一杯です」


「それは正しいぞ」


 横から声がした。


 俺とトーマスが同時に振り向いた。


 来客用のソファ。


 銀色の長い髪。

 紫の瞳。


 エルドラが座っていた。


 いつからいた。


 いや、それより。


「……何を食ってるんですか」


「焼き菓子じゃ」


「見れば分かります。俺のですよ、それ」


「知っておる」


「知ってて食うなよ」


 エルドラは悪びれもせず、二枚目に手を伸ばした。


 ――ふと、隣が静かなことに気づいた。


 トーマスが、動いていない。


 書類を押さえた指が、止まったままだ。


「……こちらの方は?」


 声が、わずかに掠れていた。


「ああ、まだだったか」


 俺は焼き菓子の皿を諦めた。


「うちの顧問だ。エルドラさん」


「……顧問」


「そう」


 トーマスの動きが、止まった。


「見たことくらいあるだろ。第五階層によくいたぞ」


「はい」


 ゆっくりと、頷く。


「見ております。何度も」


「だろうな」


「猫のひげ亭で、菓子を召し上がっていました」


「うん」


「訓練場で、若い冒険者を叩きのめしておられました」


「そうだな」


「そのあと、また菓子を召し上がっていました」


「…………」


「私の記憶では、そうなっております」


 全部、頭に入っている。


 トーマスの声が、少しずつ低くなっていく。


「腕の立つ流れの冒険者。あるいは、どこぞの好事家の貴族」


「うん」


「菓子の消費量が異常」


「最後のいるか?」


「特徴として記載しました」


 真顔だった。


「報告書には、何て書いたんだ」


「……『特記事項なし』と」


 部屋が、静かになった。


 四十年の隠密が、SSS級迷宮の主を、菓子をよく食う女として報告書に載せていた。


「ほう」


 エルドラが、ようやくトーマスを見た。


「見えんかったか」


「……見ておりました」


 トーマスが、深く頭を下げた。


「本質を見抜けていなかっただけです」


「そうであろうな」


 それだけだった。


 脅すでも、褒めるでもない。


「黒瀬から聞いておる。四十年、影を歩いたそうじゃな」


「……恐れ入ります」


「気にするな。お前の能力がないわけではない。こんな美女を疑う者なんておらんじゃろうて」


「…………」


 トーマスが、ゆっくり息を吐いた。

 四十年やってきた男の、職業的な敗北の吐息だった。


 王国は、五百人でこの迷宮を落とせると踏んだ。

 その判断を支える情報を集めていた男が、いま隣に立っている。


 そして、見落としの方は二枚目を食い終わっていた。


「で。カタコンベ・ノアだったか」


「あれについて、知ってるんですか」


「当然じゃ。迷宮の話じゃからな」


「どんな迷宮なんです」


「今のお主が近づけば死ぬ」


「説明が短い……」


「それで十分じゃ」


 エルドラが焼き菓子を齧る。


「S級になったばかりで上を覗くでない。上を見始めたら首が折れるぞ」


 その言い方だと、このバ……お姉様は遥か上から見下ろしていることになる。

 実際、その通りなのが腹立たしい。


「……今、何か言ったかの?」


 焼き菓子を持つ手が、止まっていた。


「言ってません」


「言ってなくても、何か考えたであろう」


「考えてません」


 紫の瞳が、しばらくこちらを見ていた。

 やがて、興味を失ったように焼き菓子へ戻る。


 (……読まれてるのか、これ)


 念のため、頭の中の音量も下げておくことにした。


「国の兵がどこにおるかは、そこの薬草屋に聞け。我は人の国境など知らん」


「元隠密です」


 トーマスが訂正する。


「今は薬草屋であろう?」


「……はい」


 トーマスが負けた。


「まあ、続けてくれ」


 俺が促すと、トーマスの指が北へ移った。


「北方には、鋼の帝国ゼクセンとの国境があります。こちらも戦力を剥がせません」


「剥がせば?」


「帝国が攻めてきます」


「……なるほど」


 分かりやすい。


 サーバー一台が炎上したからといって、他の本番環境を全部無人にはできない。


 一つの障害へ人員を全投入したら、別の場所が落ちる。


 国が大きくなろうが、運用の本質は変わらないらしい。


「つまり、当面は軍が来ない」


「はい。ただし」


 トーマスがこちらを見る。


「軍が来ないことと、王国が干渉できないことは別です」


「……政治と経済か」


「その通りです」


 剣を持った五百人が来ないなら、別のやり方で来る。


 商人。

 貴族。

 教会。


「面倒だな」


「国家とは、そういうものです」


「経験者は言うことが違うな」


「元々、その面倒を押しつける側でしたので」


 笑っていいのか分からない冗談を、真顔で言われた。


「それと、もう一件」


 トーマスの声が、少しだけ低くなった。


「王都の教会が、この北西について探りを入れています」


「何を探ってる」


「それが、分かりません」


「分からないのに、探ってるのは分かるのか」


「はい」


 トーマスが、机の端の紙束を軽く叩いた。


「私が四十年使ってきた情報網があります。行商人。宿。荷運び」


「ああ」


「その線に、ここ数週間『北西』への照会が増えています」


「照会」


「人の数。区画。誰が住んでいるか。……その程度の、細かい問いです」


「大した話じゃなさそうだが」


「量が異常です」


 短く言い切った。


「一つ一つは無害な質問を、別々の相手から、少しずつ集めている」


「…………」


「私がやっていた集め方です」


 なるほど、と思った。


 一件ずつなら誰も警戒しない問い合わせを、数で撒いて全体像を作る。


 前の世界にも、似た手口はいくらでもあった。


「規模は」


「掴めません」


「時期は」


「それも」


 トーマスが首を振る。


「軍なら分かるのです。補給の手配。宿営地の確保。街道の使用許可」


「…………」


「私が四十年やってきた仕事です。誰かが必ず、どこかに足跡を残します」


「今回は」


「人が、一人も動いていません」


 部屋が、少し静かになった。


 紙だけが動いていて、人は動いていない。


 軍じゃない。


 だが、教会は確実に何かを準備している。


「……剣を持たない連中か」


「おそらくは」


 トーマスが、わずかに目を伏せた。


「私の経験上、そういう相手の方が」


「面倒か」


「剣や魔法では解決できませんので」


「人というものは、我がどれだけ長く生きても変わらんのう」


 焼き菓子を食いながら、エルドラが言った。


「見てきたように言うなよ」


「見てきたから言っておる」


 (聞いたことがなかったけど、このバ……お姉様は一体何年生きてきたんだろう?)


 深く考えないことにした。


◆地上・北西迷宮入口/黒瀬視点


 地上へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。


 俺とトーマス、そしてエルドラ。


 入口から少し離れた高台に立ち、周囲を見渡す。


「……あれ?」


 以前と、景色が違う。


 迷宮へ続く土の道。


 最初は、人が歩いた跡すらほとんどなかった。


 今は地面に何本もの轍が刻まれている。

 荷車が二台、迷宮へ向かって進んでいた。


 遠くでは、冒険者らしい一団が荷物を下ろしている。

 道の脇には、休憩用に組まれた簡素な木造の小屋まであった。


「こんなの、いつできた」


「自然発生的に、です」


 トーマスが答える。


「第五階層へ物資を運ぶ者が増えましたので」


 一台の荷車が、俺たちの前を通り過ぎる。


 小麦の袋。

 木材。

 酒樽。


 全部、この迷宮へ運ばれるものだ。


「あなたが来られた当初、この道は存在しませんでした」


「……ああ」


 覚えている。


 本当に何もなかった。


 入口の前に立っても、聞こえるのは風と鳥の声くらいだった。


「人もおらんかったぞ」


 エルドラが言った。


「知ってるんですか」


「我の森の隣じゃぞ」


 西を見る。


 山脈の遥か向こう。


 そこに、エルドラの大樹海ユグドラシルがある。


「昔は鹿の方が多かったのう」


「比較対象が鹿なのか」


「人がおらんのだから仕方なかろう」


 エルドラはどこから取り出したのか、小さな菓子をまた食べている。


 予備まで持っていたらしい。


「あの三日は、厨房が止まっておった」


「……攻め込まれてましたからね」


「知っておる。だから何も言わなかったであろう」


 言っている。今、まさに。


 エルドラが、菓子を口へ運びかけて、止めた。


 そのまま、道の方を見ている。


「……何もない場所に道ができるのを見るのは、久しぶりじゃ」


 俺は、返事をしなかった。


 たぶん、返事の要る話ではなかった。


「人間にとって、西は大樹海で行き止まりです」


 トーマスが続ける。


「交易路にはならない。さらに北へ寄れば、帝国との戦争に巻き込まれる」


「……土地として最悪だな」


「ええ」


 トーマスは道を指した。


「以前は」


 荷車が、また一台。


 迷宮へ向かっていく。


「今は違います」


「…………」


「人がいる。食料がある。宿がある。鍛冶場がある」


「…………」


「治療もできる。物資も集まる。冒険者ギルドの支部まである」


 俺は地上から、迷宮の入口を見下ろした。

 入口そのものは、昔と大して変わらない。

 だが、そこへ向かう人の流れがある。


「王国と帝国が戦争になれば」


 トーマスが低く続けた。


「この場所は、そのまま前線拠点になります」


「…………」


 地図の上で聞くより、ずっと分かりやすかった。


 俺は迷宮を作った。


 客を呼ぶために、飯を出した。

 宿を作った。

 風呂を作った。

 店を増やした。


 獣人が来た。

 ギルドが来た。


 それだけだ。


 だが。


 俺が「客を増やすため」に積み上げたものを、国家は「補給拠点」と呼ぶらしい。


「……俺、もしかして」


「はい」


「結構まずい場所に迷宮作った?」


「かなり」


 即答するな。


「ククク」


 隣でエルドラが笑っている。


「何ですか」


「ようやく気づいたかと思ってな」


「何に」


「お主が作ったものの、値段じゃ」


 俺はもう一度、迷宮へ続く道を見た。

 自分の土地の価値を、所有者が一番理解していなかった。

 不動産投資なら破産するタイプだ。


◆地上・北西迷宮入口/黒瀬視点


「もう一つあります」


 トーマスが言った。


「北西迷宮の詳細は、現在、国外にはほとんど知られていません」


「特異認定までされてるのに?」


「王国内では、です」


「……他国は知らないのか」


「王国が、意図的に情報を抑えています」


「何でだ」


「有用だからです」


 短い答えだった。


「未知の魔導技術。迷宮都市。高品質の素材」


 トーマスの視線が迷宮入口へ向く。


「王国から見れば、自国領内に偶然現れた宝物庫です。他国に知られたい理由がありません」


 ――なるほど。

 だから第三軍団を送り込んでも、他国から横槍が入らなかった。


 知られていないからだ。

 王国領の端にある、正体不明の穴。


 中で何が起きても、外の国には見えない。

 俺は北を見た。


 この先に、帝国。

 西には、大樹海。


 そして自分の足元には、いつの間にか価値を持ってしまった迷宮がある。

 頭の中で何かが、カチリと噛み合った。


「……トーマス」


「はい」


「王国は、この迷宮を隠したいんだよな」


「そう考えて間違いありません」


「だったら」


 俺は迷宮の入口ではなく、その周囲を見る。

 まだ何も建っていない地上。


「隠すの、やめたらどうなる」


 トーマスの表情が止まった。


「……と、申しますと」


「迷宮の中身を公開するんじゃない。核も、俺の正体も、今まで通り隠す」


 一度息を吸う。


「外側だ」


 地面を指す。


「ここに街を作る」


「…………」


 トーマスが周囲を見渡した。


「今の第五階層は迷宮の中だ。王国が情報を止めれば、外からは何も分からない」


 だが地上なら。


 家が並ぶ。

 煙突から煙が出る。

 人が暮らす。

 街道が伸びる。

 商人が来る。


 隠す方が難しくなる。


「冒険者じゃなくても入れる街にする。一般人も住める」


「…………」


「飯屋も宿も作る。温泉だって、地上に持ってくればいい」


「……ご主人」


 肩の横で、ナノが小さく光った。


「それは、この迷宮を、自分から世界に晒すということですか」


「そうなる」


 今までは、隠すことで守った。


 今度は――見せることで守る。


「街が大きくなれば、帝国にも知られる」


 トーマスが、ゆっくり息を吐いた。


「帝国が、この場所の値打ちを知れば」


「…………」


「王国が手を出そうとした時、必ず口を挟みます」


「逆に帝国が手を出せば」


「王国が警戒します」


 俺は頷いた。


「両方が欲しい」


「…………」


「だったら、両方とも簡単には動けない」


「……膠着を作るおつもりですか」


「作れたら、だ」


 安全になるわけじゃない。

 帝国が味方になるわけでもない。

 むしろ、新しい敵になる可能性だってある。


「危険な賭けです」


 トーマスははっきり言った。


「地上へ出れば、王国以外の目も向きます」


「分かってる」


「それでも?」


「ああ」


 少なくとも。


 王国が誰にも知られず五百人を送り込める今より、攻めるコストは上がる。


「秘密の社内サーバーだったから、勝手に潰されかけた」


「……?」


「こっちの話だ」


 なら、サービスを公開する。

 中身のソースコードは非公開のまま。

 表だけ世に出す。


「面白いのう」


 エルドラが呟いた。


「エルドラさんは、どう思います」


「国同士の話なら、そこの薬草屋に聞け」


 トーマスが頷く。


「じゃが」


 エルドラの紫の瞳が、何もない地上を見渡す。


「隠れて育ったものが、自ら日の下へ出る。そこは嫌いではない」


「…………」


「もっとも」


 口元に笑みが浮かぶ。


「日の下へ出れば、今度は世界の方がお主を放っておかんぞ」


「でしょうね」


 分かっている。

 それでも、隠れているだけでは守れないところまで来た。


「ご主人。地上都市計画を正式案件として登録しますか?」


 ナノが問う。


「いや」


 首を振った。


「まだ構想だ」


 ここに住むのは、俺だけじゃない。


 第五階層には、人間もいる。

 獣人もいる。

 ケット・シーもいる。


「住んでる連中にも話をする。それから決める」


「承知しました」


 空中に、小さく文字が浮かぶ。


 ――地上都市計画・検討中。


 文字にすると、急に大事に見える。


「じゃあ、仮にやるとして」


「はい」


「どれだけ要る」


 ナノが空中に項目を並べた。


 住宅。

 上下水道。

 道路。

 防壁。

 宿。

 飲食。

 物流。


 項目が増えるたび、俺の顔から血の気が引いていく。


「……ナノ」


「はい」


「ざっくりでいい」


「最低限の基盤のみ構築すると仮定して――」


 数字が出た。


 俺は消した。


「見なかったことにしよう」


「数字は消えません」


「知ってる」


 現在の最大魔力容量、五万二千。


 数字だけなら立派なS級迷宮。


 そして現在、都市建設に回せる手持ちの魔力。


 ほぼゼロ。


 器はでかい。

 中身は空。


 でかい工場を建てて、原料を切らしている状態だった。


「しかも、ご主人」


「まだあるのか」


「現在の迷宮システムが直接魔力を供給できる範囲は、迷宮領域内です」


「……つまり」


 俺は足元を見る。


「ここは?」


「入口周辺を除き、領域外です」


「…………」


 魔力がない。


 あっても、配線がない。


 建設以前の問題だった。


「箱だけS級になっても、何も建たねぇじゃねえか……」


「ククク。お主は相変わらず愉快じゃな」


 横から、心底楽しそうな笑い声。


「笑い事じゃないんですけど」


「いや、すまんすまん」


 まったく悪びれていない。


 エルドラは最後の菓子を口へ放り込んだ。


「それになかなか面白い計画じゃ」


「原料がないですけどね」


「ならば」


 紫の瞳が、細く笑った。


「――迷宮を一つ、喰えばよかろう」

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