第九十五話:空の器【第3部完】
◆迷宮核の間/黒瀬視点
椅子から立てなかった。
正確には、立てる。立てるが、そのあと歩けない。
壁を伝ってここまで来るのに、たっぷり五分かかった。
「ご主人。無理をなさらないでください」
「してない。座ってるだろ」
空中のモニターに、地上の門が映っている。
王国軍が、帰っていく。
五百人。三日前にここをくぐった時と、頭数は一つも変わらない。
変わったのは、装備がぼろぼろなのと、全員がやたらと腹を満たしていることくらいだ。
門の手前で、一人の兵が足を止めた。
ルッツから返された、自分の遺書。それを両手で受け取って、しばらく見つめている。
封は、切らなかった。
畳んで懐へ戻し、そのまま歩き出す。
列の最後尾で、ヴァルターが一度だけ振り返る。
映像越しに、目が合った気がした。
彼は、何も言わない。
ただ、深く頭を下げて――背を向けた。
俺は、そこで映像を切った。
「……で。被害報告は」
「その前に、数字が一つ変わっております」
ナノが、空中に迷宮のステータスを展開した。
いつもの表示だ。見慣れた行に、見慣れない数が入っている。
【最大魔力容量】 52000
「……数字を間違えてないか」
「三度、測り直しました」
思わず椅子から背を起こして、肋の折れたあたりに叱られた。
三万三千だったはずだ。それが、五万を超えている。
(……S級の水準じゃねえか)
「なんでだ」
「器が育つ条件は、以前エルドラ様が仰っていた通りです」
ナノが淡々と続ける。
「極めて質の高い魂から、魔力を得ること」
……ああ。
「ヴァルターか」
「あの方が一名と、鍛え上げられた兵が五百名。三日がかりで、全員こちらへ差し出されました」
殺しに来た連中が、俺の器を広げて帰っていったわけだ。
「で、被害報告は」
「現在の魔力残量。……ゼロです」
俺は、黙った。
「もう一度」
「ゼロです。ご主人の体内に残る一万五千を除き、当迷宮が動かせる魔力はありません」
天井を見上げた。
(……箱がでかくなった通知と、予算ゼロの通達が、同じ日に来るのか)
前の世界で、似たようなものを受け取ったことがある。
席と肩書きだけ増えて、人も金もつかない、あれだ。
「……器だけ、でかくなったわけか」
「はい。中身は空っぽです」
「言い方」
「事実です」
笑おうとして、咳が出た。
「……いま攻められたら、どうなる」
「B級の冒険者パーティ一組で、ご主人を殺すことが可能かと」
「言い方」
「事実です」
二度目は、少し腹が立った。
だが、そうはならない。
「当面は、来ない」
「根拠を伺っても」
「向こうはヴァルターが負けると思ってなかったからだ」
最強の駒を出して、それで片がつくはずだった。
それが手ぶらで帰ってくる。次の手を組むには、まず「なぜ負けたか」の報告書が要る。
書いて、上げて、会議にかけて、稟議を回して、予算を取る。
(……大きい組織ってのは、そういうもんだ)
前の世界で、さんざん待たされた。
あの遅さに、今度は助けられる。
「時間はある。どのくらいかは、知らないが」
◆薬草店の裏部屋/トーマス視点
窓は一つきり。天井から、乾いた薬草の束が吊るされている。
扉が開いた。入ってきたのは、黒瀬だった。
「王国軍は撤退する。お前の報告で来た軍だ。だが、もう終わった」
「……はい」
「お前の処分を決める。好きな方を選べ」
黒瀬は指を二本立てた。
「一つ。王国に帰る。隠密に復帰して、今まで通りの人生を続ける」
「ここでの暮らしは、なかったことになる」
「…………」
「二つ。うちで働く。薬草商として。ただし試用期間は半年だ」
「スパイの技術は、今度はうちの情報防衛に使ってもらう」
トーマスは、答えなかった。
膝の上で、指が勝手に動いている。
薬包を折る手つきだ。四ヶ月で、体が覚えてしまった。
(……選べ、と言われたのは初めてだ)
スパイになったのも、この街に来たのも、分断工作をしたのも、全部が命令だった。
どの街でも「いい人ですね」と言われ、去ったあとは誰も探さない。
それだけの、四十年だ。
「……私が壊そうとしたものが、まだここにあります」
声が出た。自分でも驚くほど、静かな声だった。
「分断工作で、獣人と人間の間に楔を打ちました。報告書で、この街の守りを全て売りました」
窓の外を見る。
通りの向こうで、ケット・シーが店の前を掃除している。いつもの光景だ。
「……それなのに、この街はまだ壊れていません」
「…………」
「それを守る側に、回りたいのです。……壊した分を、取り戻したい」
言い終えてから、深く頭を下げる。
命じられずに頭を下げたのは、四十年で初めてだった。
「……採用だ」
黒瀬はそう言って、付け加えるように続けた。
「ついでに言っておく。お前、進攻中に王都へ偽の暗号通信を一通流したな」
「あれで別動隊の動きが、半日鈍った」
肩が、わずかに揺れた。
「……いつ、お気づきに」
「最初からだ。あの通信、お前の癖が出てた」
「…………」
「仮拘禁中に、自分の判断で動いた。あれがお前の初仕事だ。試用期間に算入しておく」
黒瀬の声に、わずかな笑みが混じる。
「就業規則はナノから受け取れ。成果が出なければ解雇する。何か質問は」
「……いつもの、は注文できますか」
黒瀬は一瞬きょとんとして、それから呆れたように鼻を鳴らす。
「猫のひげ亭の営業時間は朝七時から夜九時までだ。メニューは店頭で確認しろ」
「……はい」
トーマスの目から、一筋の涙がこぼれた。
四十年ぶりの涙だった。
◆王都・宰相の間/宰相視点
数日後。
ヴァルターの報告書が、宰相の机に届いた。
「『最深部まで到達。勇者は確認されず』……か」
筆跡はいつも通り角ばっていた。
(嘘ではないだろう。だが、真実の全てでもあるまい)
ヴァルターは何かを見て、何かを判断した。
(あの鉄の男が「自分の判断」で動いたのだとしたら)
(――あの迷宮には、魔力量以上の何かがある)
宰相の指が、机の上で見えない駒を動かすように滑った。
(……泳がせておくか)
力で開かぬ扉は、鍵で開ける。
音もなく扉が開き、豪奢な法衣の男が入ってきた。
金縁の眼鏡越しに、机上の報告書を一瞥する。
聖教会の枢機卿、セヴェルス。
「ご足労いただき、恐縮です」
「北西迷宮の話と伺いましたのでな」
セヴェルスは椅子に腰を下ろし、それきり報告書を見なかった。
「あの穴倉には、以前、我が教会の調査団を出しております」
「結果は」
「全員、無事に帰還いたしました」
妙な言い方だった。
「……無事に、ですか」
「ええ。誰一人、傷ひとつなく」
セヴェルスの指が、胸の十字架を握る。
「ただ――あれ以来、あの迷宮を異端と呼ぶ者が、一人もおりません」
「…………」
「力で壊されたなら、修復できる。だが、内側から変えられた信仰は、二度と元に戻らない」
「では――教義の問題として、動かれると」
「いいえ」
枢機卿は、あっさりと首を振った。
「教会の収入は、人が不安であることで成り立っております」
「…………」
「あの街の者は、不安がっておりません。人間と亜人が同じ卓で飯を食い、それで何も起きない」
セヴェルスが、初めて眼鏡の位置を直した。
「……起きないという事実は、我々のどの教えよりも雄弁です」
なるほど、と宰相は思った。
この男は信仰の話をしているようで、最初から帳簿の話をしている。
「では、こちらの提案は」
「受けましょう」
枢機卿は、静かに立ち上がった。
「北西へ、査察団を出します」
「名目は」
「信徒への慰問。あの街にも、我らの羊はおりますのでな」
「到着は」
「ひと月後」
二つの影が、一つの方角を向いた。
北西。小さな迷宮がある方角。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
その日の夕方、扉が吹き飛ぶ勢いで開いた。
「ご主人ッ!」
小さいのが飛び込んでくる。
四枚の翼は、まだ二枚が垂れたままだ。
だが、顔色は悪くない。魔力が空なだけで、体はほとんど無傷らしい。
「起きてる! ねえ、起きてるよね!?」
「……起きてる。近い」
リリが俺の胸へ頭をぶつけるように突っ込んできて、そのまま動かなくなった。
「……勝ったんだね」
「ああ」
「……ごめんね。ボクのレールガンで敵を覚醒させちゃって」
「逆だ。リリのおかげで助かった」
小さな肩が、わずかに動いた。
「元々の作戦は、俺があいつを引きつけている間に、リリがルッツたちを落とす。そのあと二人がかりで、あいつを仕留める。……そうだっただろ」
「……うん」
「でも、あの時、俺は斬られる寸前だった……壁は落ちて、仮面は割れて、次の一歩で終わりだった」
「…………」
リリが、黙り込む。
俺は、垂れた翼の付け根に手を置いた。
「リリはそれを見て、早く敵を倒さなきゃと思ってくれたんだろ」
「……でも、そのせいで敵がもっと強くなっちゃったじゃん」
「いや、あんなの予測できないだろ……あのタイミングでさらに強くなるなんて、あいつが化け物だっただけだ」
リリは答えない。
「それに、あの状況にならなきゃ勝ててない」
リリが、顔を上げた。
「あいつは、部下を守るために自分が盾になることを選んだ。だから、その瞬間、技の駆け引きじゃなく、力と力の勝負に持ち込めたんだ」
俺が唯一、勝てる形だ。
「……それ、偶然じゃん」
「偶然だ」
あっさり認めた。
「偶然だが、あれ以外に勝ち筋はなかった。リリがあの場面で撃ってくれてなきゃ、そもそも盤面が生まれてない」
リリは、何も言わない。
「……じゃあ、ボクは何を間違えたの」
「間違えてない」
「でも……」
「敵の強さを読みきれてなかっただけだ。それは、俺も同じだった」
翼から、手を離す。
「だから、直すところはない」
「……ないの?」
「ああ。この迷宮のボスとして、これからも頼むな」
返事は、すぐには来なかった。
「……それ、次もボクに任せるってこと?」
「もちろんだ」
「ふーん」
小さく鼻を鳴らした気配がして、それから、胸のあたりで小さく頷くのが分かった。
◆迷宮都市の通り/クロ視点
三日後。
ようやく、普通に歩けるようになった。
黒いフードを目深に被る。腰の剣は、間に合わせの安物だ。
B級冒険者クロ。この街での、俺のもう一つの名前。
通りは、まだ瓦礫だらけだった。
崩れた石壁の前で、人間の鍛冶師と獣人が並んで金具を叩いている。
「そこ、押さえてくれ」
「おう」
どっちがどっちに言ったのか、聞き分けられなかった。
「――クロ殿」
振り向くと、ガロウが立っていた。
狼の獣人。太い腕に、運びかけの木材を抱えている。
「生きてたか」
「なんとか」
「迷宮主様も無事だと聞いた。……よかったな」
周りに、人間の職人が三人。
ガロウの目が、一瞬だけこちらへ寄って、すぐ材木へ戻った。
(……気を遣わせてるな)
こいつは知っている。長老も、ケット・シーも知っている。
だが通りには、俺を「そこそこ腕の立つ冒険者」としか思っていない連中がいる。
だから人前では「クロ殿」と呼ぶ。
「あ、クロさん!」
声の方を見ると、カイが手を振っていた。
背中に、いつかと同じように獣人の子供を負っている。
「大変だったんですよ。王国軍に攻め込まれて」
「らしいな」
「クロさん、どこにいたんすか。全然見なかったけど」
「……悪いな。別の迷宮を攻略しに行ってたんだ」
カイは何も疑わなかった。
こいつにとって俺は、たまに顔を合わせる先輩冒険者でしかない。
それでいい。
獣人特区の入口で、長老が杖をついて立っていた。
周りに、人はいない。
「……黒瀬殿」
「長老。人がいますよ」
「おらんよ。もう」
老人は、通りの向こうを見ていた。
人間と獣人が、同じ足場に乗って壁を直している。
「わしは、ずっと恐れておった。おぬしがいなくなった後のことをな」
「…………」
「じゃが、今回の件で、この街にいる人間とは分かり合えた気がするわい」
長老は、それきり黙った。
杖を握る手の甲に、節くれだった血管が浮いている。
この老人が三百年で数えてきた裏切りの数を、俺は知らない。
「……だから、もう少しだけ、ここにおってもよいかもしれん」
小さな呟きだった。
返事はせず、俺はそのまま歩き出した。
器だけS級の、中身が空っぽの迷宮。
守護者は全員が療養中で、敵に攻め込まれたらひとたまりもない。
(……冷静に考えて、詰んでるな)
それでも、通りの角で猫のひげ亭の窓に灯りがついている。
明日も朝七時から、あの店は開く。




