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第九十四話:白い木札

◆翌日・第5階層・隔離区画/ヴァルター視点


 ぴちゃ、と水の跳ねる音がした。

 桶に布を沈めて、絞る。規則正しい繰り返し。


 目を覚まして最初に鼻を突いたのは、軟膏の匂いだ。

 肩から胸にかけての深い裂傷が、丁寧に縫合されている。


 (……生かされたのか)


 敗軍の将であり、侵略者。殺されて当然の立場だ。

 だが体は動く。あの一時的な金色の力は、もうどこにも残っていない。


 身を起こし――ヴァルターは、息を呑んだ。


 簡素だが清潔な寝床が、見渡す限り整然と並んでいる。

 その一つ一つに、見慣れた部下たちが横たわっていた。重い鎧は脱がされている。


 全員、生きていた。


 規則正しい寝息。時折の寝返り。

 壁際には、すでに目を覚まし、椀を手に毛布へくるまっている者たちの姿もある。


 どこか遠くで桶を置く音と、誰かの笑い声がした。

 ヴァルターは寝床から降り、その列の間を歩き始める。


 氷の斜面で足を滑らせた若い槍兵。

 砦の一本坂で鬼に組み伏せられた盾兵。

 粘液に呑まれた者。機械の階層で撃ち抜かれた者。


 光に包まれて消えた先を確かめる術は、なかった。

 その兵たちが――一人残らず、ここにいる。

 泥と血を洗われ、包帯を巻かれ、ただ疲れたように眠っていた。


 (……信じては、いなかった)


 あの迷宮主は「一人も死んでいない」と言い放った。証拠など何ひとつない。

 自分はその不確かな言葉に部下の命を賭け、剣を振り続けた。


 それが、真実だったのだ。


 ふと、一つの寝床の前で足が止まる。


 名前が、勝手に浮かんだ。

 第四中隊の槍兵。三年前の徴募。故郷に妹がいると、一度だけ聞いたことがある。


 五百人、全員がそうだ。

 顔を見れば、名も、隊も、いつ入ったかも出てくる。


 全部知っていて、戦えと命じた。


 毛布の下で、その胸が微かに上下している。


 ヴァルターは、その場に膝をついた。

 しばらく、立ち上がれなかった。


「……起きたニャ?」


 不意に、小さな声が降ってくる。

 見上げると、猫の獣人――ケット・シーが、木札の束を抱えて立っていた。


「ちょうどよかったニャ。おじさん、この人たちの隊長さんニャ?」


 差し出された木札には、たどたどしい字で名前が書かれている。

 どれも、見覚えのある部下の名だ。


「……これは」


「お名前ニャ。お薬の時、呼ぶのに困るから聞いて書いてるニャ」


 ケット・シーが、ずらりと並ぶ寝床の列を指す。


「起きてる人には聞けたニャ。でも、まだ寝てる人は聞けないニャ」


 彼女は、何も書かれていない真っ白な木札を数枚、ヴァルターへ差し出した。


「隊長さんなら、知ってるニャ?」


 ヴァルターは、その白い木札を受け取った。


 三枚。

 名前は、考えるより先に浮かんだ。


 ――だが、声が出なかった。


 この小さな獣人は、薬を渡すときに呼ぶために訊いている。


「……ヨナス」


 掠れた声で、一つ。


「ヨナスと、ガレン。……それから、ミルコ」


「ありがとニャ!」


 ケット・シーが、たどたどしい字で木札を埋めていく。

 ヴァルターは、その手元をじっと見ていた。


 三枚の白が、名前になっていくのを。


 書き終えた札を、彼女は寝床の枕元へ掛けた。


 ヨナス、と読める。


 名を書いた札が、兵の枕元にある。

 軍にいた二十年で、一度も見たことのない光景だった。


「これで全員ぶん、揃ったニャ」


 そう言って木札を抱え直し、次の寝床へ小走りで向かっていく。

 ヴァルターは、その小さな背中を黙って見送った。


 ヴァルターは立ち上がり、再び区画を歩き始めた。


 止める者はいない。

 むしろ、すれ違う住人たちが、物珍しそうに彼に会釈さえしてくる。


 負傷兵たちの間を、人間の冒険者と獣人が当たり前のように行き交っていた。

 水を配り、包帯を替え、湯気の立つ食事を運んでいる。

 つい数日前まで、彼らの街を滅ぼそうとしていた敵兵に対して。


「おい、こいつまだ熱がある。氷、もう一個持ってきてくれ!」


「ガロウさん、こっちの兵隊さん傷が深い! 獣人の薬師さん呼べますか!」


「おう、すぐ呼んでくる!」


 狼の獣人が、人間の呼びかけに応えて足早に駆けていく。


 (命令されたわけではない。ギルドの仕事でもない。なのに、なぜだ)


 別の場所では、人間の若い冒険者が、獣人の子供を背負って歩いていた。

 子供は疲れたのか、背中で安心しきったように眠っている。


「重くねぇか、カイ」


「大丈夫。この街の子だから」


 二十年、戦場と王宮の暗闘だけを見てきた。

 勝利と敗北。命令と服従。世界にはそれしかないと思っていた。



◆第5階層・区画の通用口/ヴァルター視点


「目が覚めたか」


 背後からの声。

 振り返ると、鬼の仮面をつけた男が壁に寄りかかっていた。


 あの激闘で、確かに砕け散ったはずの面だ。

 だが、よく見ると意匠がわずかに違う。金の縁取りが新しい。


 (……替えを、持っていたか)


 黒装束の肩には包帯。仮面の縁から覗く顎にも、薄く傷が走っている。戦闘の跡だ。

 その手に、湯気の立つマグカップが二つ。


「飲むか。コーヒーだ」


 ヴァルターはしばし仮面の男を見つめ、無言で受け取る。

 一口飲む。ひどく苦い。だが、頭が冴える味だった。


「……なぜ、俺たちを生かした」


「殺す理由がない」


 迷宮主は、さも当然のように淡々と答えた。


「お前たちは上の命令で動いていた。命令を出したのは王都の宰相だ。ここで現場の兵を殺しても、宰相は痛くも痒くもない。なら、殺すだけ無駄だ」


「……合理的な考えだな」


「エンジニアだからな」


 意味の分からない言葉を残し、仮面の男がコーヒーを啜る。


「……勇者は」


「いない」


「最深部にも、いなかった、か」


「ああ。今はここにいない、が正確だがな」


 ヴァルターはしばらく黙った。

 そして、マグカップを見つめたまま言う。


「……確かめる術は、ないな」


「ないな」


 それきり、その話は終わった。


 ヴァルターは器の中の黒い水面を見つめ続けた。

 それから、この世でただ一人、副官にしか語ったことのない過去をぽつりと口にする。


「俺は、昔、命令を無視して、自分の判断で部下を死なせた」


 仮面の男は、口を挟まない。


「それ以来、自分の判断を封じてきた。上からの命令にのみ従う機械になれば、もう誰も俺のせいで死なない、と」


 ヴァルターは自分の太い手を見つめた。


「そして、あの瞬間――俺はルッツたちを死なせたくなかった。命令よりも、それが先に来た」


 仮面の男は、何も言わずにマグカップを傾けた。


「俺はまた、自分の判断で動いた。そして……今度は、誰も死ななかった」


 迷宮主は、黙ってコーヒーを飲んでいる。


「一つ、聞かせてくれ」


「何だ」


「俺は……間違っていたのか」


 マグカップの中身を見つめたまま、男はしばらく黙っていた。


「……答える前に、俺の話をしていいか」


「……ああ」


「昔、人を使い潰す酷い仕事場にいた」


 低い声だった。


「隣の席で、後輩が一人、俺と同じように潰れかけてた。俺は何もしなかった。面倒だったから。自分の持ち場を守るだけで手一杯だったから」


「…………」


「そいつは壊れて、辞めた。その後どうなったかは知らない。知ろうともしなかった」


 仮面の下で、細く息を吐く音。


「死ぬ間際まで、それが引っかかってた」


「……死ぬ間際」


「言葉の綾だ」


 ヴァルターは、それ以上は踏み込まなかった。

 仮面の男が、ようやくこちらの目を見る。


「お前は、逆だ。自分の判断で動いて、部下を死なせた。それ以来、戒めとして判断を封じてきた」


「……ああ」


「俺は何もしなかった男だ。お前は動きすぎた男だ。後悔の出どころは同じで、たどり着いた場所が正反対だ」


 ヴァルターはわずかに目を細めた。


 同じ種類の傷。

 正反対の結末。


 この底知れない迷宮主は、自分と同じ種類の後悔を抱えている。

 迷宮主は残りのコーヒーを飲み干した。


「で――質問の答えだ」


「…………」


「間違ってないと思う」


 仮面の男は、あっさりと言い切った。


「お前は部下を守りたかった。その動機は正しい。……ただ、一人で背負いすぎただけだ」


 太い指が、器を強く握りしめる。


「判断を捨てる必要は、なかったんだ。隣にいる奴に、半分持たせればよかっただけで」


 ヴァルターの手が、止まった。


「……なぜ、お前がそれを言える」


 迷宮主は、答えなかった。

 空になったマグカップを窓枠に置く。


「……あんたの副官、ずっと待ってたぞ」


 背を向けて、歩き出す。


 ヴァルターは長い間、その場から動けなかった。



◆第5階層・ルッツの寝床/ヴァルター視点


「ルッツ」


 目を覚ましていた副官のもとへ歩み寄る。

 右腕を吊ったルッツが、慌てて寝床から身を起こした。


「将軍……! ご無事で」


「ああ。お前もな」


 ヴァルターは、寝床の隣にどっかと腰を下ろした。

 ルッツが、黙って将軍の顔を見つめている。


「ルッツ。俺たちは誰も死んでいない」


「……はい」


「葬式もない。弔うべき骸もない。憎むべき相手の屍も、な」


 ルッツはしばらく黙っていた。

 それから、自分で確かな言葉を見つけたように、静かに口を開く。


「……我々は、憎むべき相手を、もらえなかったのですね」


「そうだ」


 ヴァルターは自分の手のひらを見つめた。


「報告書を作成する。内容はこうだ」


 ヴァルターは深く息を吸った。

 上からの命令ではなく。自分自身の言葉で。


「『最深部まで到達。勇者は確認されず』」


「『迷宮主は「ここにはいない」と証言。これに矛盾する証拠も発見されず』」


「『よって当面の任務は完了と判断し、撤退する』」


 ルッツは一瞬だけ動きを止めた。

 本当に、一瞬だけ。


「……将軍。それは」


「命令違反になるか?」


「はい」


 はっきりと言った。


「虚偽ではありません。ですが――閣下が望んでおられるのは制圧です。『勇者がいなかった』は、撤退の理由になりません」


「ならんな」


 ヴァルターは頷いた。それから、砕けた胸当てに手を置く。


「だが、誰も犠牲にならず、俺の首一つで済む」


「将軍」


「全員を生きて帰す。そのために階級を一つ使う。……安いものだ」


「……承知いたしました」


 ルッツの声はいつもと同じだった。


 右腕は使えない。

 ルッツは左手でペンを取り、羊皮紙へ書きつけていく。

 その手は、微かに震えていた。


「将軍」


「何だ」


「王都へ帰ったら……一杯、やりますか」


 ヴァルターは、わずかに目を見開いた。


 部下から「一緒に飲もう」と誘われたことなど、一度もない。

 いつも自分は、一人で酒を飲んでいた。


「……ああ」


 ヴァルターは、ゆっくりと頷いた。


「一杯、やろう」


 ルッツの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

 そして――胸の内ポケットから、預かっていた何通もの手紙を取り出した。

 あの夜営で、兵たちが「もし消えたら」と託した、条件付きの遺書。


「これを、どうしますか」


「全員、無事だ。本人に直接返す」


「はい」


 ルッツは遺書の束を大切に膝の上へ置き直した。

 それから、はっきりと言う。


「――全員、家に帰します」


 ヴァルターは、繰り返さなかった。

 ただ、頷いた。二十年ぶりに、命令ではないものに。



◆迷宮核の間/黒瀬視点


『ご主人。ヴァルターさん達は、撤退の準備に入りました』


「そうか」


 モニターの中で、ルッツが遺書を一通ずつ本人へ返して回っている。


『……よろしかったのですか。あの報告書を、止めなくて』


「止める理由がない。あれは、あいつが自分で決めたことだ」


 冷めきったコーヒーを飲み干す。


 宰相は、あの報告を信じないだろう。

 信じたふりをして、別の手を打ってくるはずだ。

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