第九十三話:黒の一閃
◆第15階層・虚空の玉座/黒瀬視点
体の内側で、骨が軋みっぱなしだった。
流れ込んでくる魔力が、止まらない。
バルログの赤。ジグの銀。ロクの青。ポヨの緑。
加えて、多くの魔物たちの、色とりどりの細い糸。
一筋一筋は、小さな蝋燭の火みたいなものだ。
それが何百という束になって、俺という容れ物へ押し込まれてくる。
混ざり合った色が、体の内側で激しい渦を巻く。
赤も、銀も、青も、緑も、その渦の中で境目を失っていく。
そうして膨れ上がっていくのは――墨をぶちまけたような、漆黒だった。
『三十パーセント』
ナノが淡々と読み上げる。
『――四十。ご主人、肉体の負荷が閾値を超えました。血管が』
「続けろ」
『……はい』
立っているのがやっとだった。
指先が麻痺し、視界の端がちかちかと明滅している。
器から溢れた魔力が、行き場をなくして皮膚の上で弾けているのだ。
そして――いま使える魔力が、一滴もない。
三百を超える連中から引いている糸は、一本も落とせない。
集約に回した分をわずかでも割いた瞬間、全部が崩れる。
つまり――俺は今、ただの極上の『的』だ。
◆第15階層・虚空の玉座/ルッツ視点
金色に染まった将軍の背が、黒翼の少女と激しくぶつかり合っていた。
空間が歪む。金色が逸れる。歪みがほつれる。また刃が走る。
少女は一歩も前へ出ない。
打ち込まれるたびに翼で真横へ滑り、また将軍の正面へ戻ってくる。
その白い足が、少しずつ後ろへ削られていた。
少女は勝とうとしていなかった。
攻撃を捨て、将軍の剣を当てさせないことだけに、すべてを注いでいる。
――時間を、稼いでいる。
なぜだ。
ルッツは視線を振った。折れた右腕が、警告を鳴らすように痛む。
そして、見つけた。
玉座の手前。仮面の男が、無防備に両腕を下げたまま立ち尽くしている。
その周囲に、無数の光の筋が流れ込んでいる。
壁を抜け、床を抜け、階層の外から。
男の内側で、何かが爆発するように膨れ上がっていく。
あれが何かは分からない。
だが、戦場で死線を潜り抜けてきた勘が、全身の毛穴を逆立てて告げていた。
(あれを完成させたら――我々は終わる)
「近衛!」
声が、掠れた。
「少女は捨て置け! 仮面を止めろッ!」
将軍の光に支えられていた近衛二人が、即座に応えた。
もはや自力では立てないはずの体が、気力だけで跳ねる。
ルッツを含めた三人で、仮面の男へ向かって床を蹴った。
◆第15階層・虚空の玉座/黒瀬視点
(――来た)
視界の端で、三つの影が直線で迫ってくる。
左腕一本のルッツと、満身創痍の近衛が二人。
撃てる術は、一つもない。逃げられる脚も、ない。
なら――残された手札は、一つしかない。
俺は腰の剣に手をかけた。
グランの親父に打ってもらった、細身の長剣。
抜いた回数は、両手で数えられる。
攻めるのは無理だ。
だが、ただ防ぐだけなら。
「――来い」
ガキィンッ!
飛び込んできた近衛の最初の一撃を、刃の腹で受け流す。
衝撃が手首を突き抜け、肩の裂傷に響く。
奥歯を噛み砕きそうなほど食いしばり、半歩だけ足を滑らせて力を逃がした。
(受けるな。逸らせ)
右から近衛の突き。回り込んだルッツの、左手一本の斬撃。
全部、正面から受ければ一撃で腕が折れる。
だから刃の角度を変える。触れる面を減らす。体の軸を半分だけ捻る。
下がらない。下がれば集中が切れる。切れたら、三百人分が全部こぼれる。
「……妙な剣だ」
剣戟の合間、ルッツが低く唸った。
「一度も、こちらを斬りに来ない」
「そりゃ、そうだ。俺の仕事は、あんたたちを殺すことじゃない」
息が上がる。肺が血の味で満たされている。
言い返す余裕なんて、本当はない。
ルッツの動きが、ほんの一瞬、鈍る。
そのコンマ数秒で、俺はまた半歩だけ重心を戻した。
『六十パーセント』
その直後だった。
『――訂正。五十四』
「おい」
『糸が数本、切れました。負荷に耐えきれなかった個体がいます』
繋ぎ直せ、と念じる。それだけで視界が一段暗くなった。
『……六十二。持ち直しました』
どれだけ、そうしていたのか分からない。
打ち込まれて、逸らして、また打ち込まれる。
左の肩が上がらなくなった。息を吸うたびに、肋の折れた場所が鳴る。
遠くで、まだ空間の軋む音がしている。
リリが、まだ持たせている。
『七十八パーセント』
近衛の一人が、剣を取り落とした。
握力が残っていないらしい。それでも拾い直して、また構える。
こいつらも限界だ。俺と、同じで。
『……八十七』
その時、ガラスの砕けるような悲鳴が空間を走った。
リリの歪曲が、破られた音だ。
視線を向ける余裕はない。だが、空気の重さが変わる。
遮るものを失った圧が、まっすぐこちらを向いた。
「ご主人ッ!」
小さな体が、俺の足元へ転がり込んでくる。
紫の光が床で弾け、三人が反射的に半歩下がった。
振り上げた刃が、一拍だけ宙で止まる。
四枚の翼が、無惨に折れ曲がっていた。
ドレスの裾が焦げ、白い腕を血が伝っている。
それでも、リリは無理に口角を上げようとする。
「……ごめん。もう、無理」
「上等だ。……満点だよ」
「ねえ、ご主人」
震える小さな手が、俺の剣を握る手に重なる。
「これ、あげる。ボクの、最後の分」
「馬鹿。それはお前が飛ぶための――」
「いいの」
真紅の瞳が、まっすぐ俺を見上げている。
「ボクのミスだもん。ボクが払う。……それに」
悪戯っぽく、リリが笑う。
「ご主人が勝ったら、迎えに来てよね。……貸しにしといてあげる」
手のひらから、紫の光が流れ込んできた。
軽い。あまりにも軽い。この子の限界ギリギリの、最後の数滴。
リリの輪郭が、淡く透けていく。
「ちゃんと、勝ってよね」
「……ああ、約束する」
空間が、小さく音を立てて閉じる。
あとに残ったのは、リリがいた痕跡と、焦げた匂いだけ。
(……ちゃんと、迎えに行くからな)
『……八十九パーセント』
一つ。
あいつが持っていた全部を寄越して、動いた数字がそれだけだ。
これで、この階層に俺の味方は一人もいない。
止まっていたルッツたちの足が、また床を蹴った。
そして――ヴァルターが、動いた。
リリという錘の外れた巨躯が、まっすぐこちらへ歩き出す。
(――まずい)
四人がかりで押さえ込まれたら終わる。
――だが。
「――全員、退がれッ!!」
声が、空間を裂いた。
ヴァルターだ。
俺に剣を振るっていた三人の動きが、弾かれたように止まる。
「将軍! あれを止めなければ……!」
「間に合わん」
ヴァルターは、俺から目を離さないまま言った。
「退がれ。俺の後ろだ」
ルッツが一瞬だけ悔しげに顔を歪め――剣を引いた。
三人が、将軍の太い背中へ向かって走る。
左腕一本のルッツが、負傷した近衛の肩を借りながら。
『阻害、消失』
誰も俺を殴らなくなった。
意識を剣に割いていた分が、そっくり集約へ戻る。
(……ああ、そうか)
あの男には、見えているのだ。
俺がこれから放つものが、剣戟で止められるようなスケールではないと。
だから、部下を自分の後ろへ置いた。
自分の体で、被害の全てを受け止めるために。
(――ありがとう、って言うべきなのかな。これは)
いや、違う。礼を言うのは筋が通らない。
四人で来られていたら終わっていた。
だが、あいつはそうしない。そういう男だと踏んだから、俺はこの手を選んだ。
『九十五パーセント』
バルログも、ジグも、ロクも、ポヨも。
いるじゃないか、全員。
俺の、この体の中に。
『……九十九パーセント』
器が、臨界の悲鳴を上げた。
肋骨の奥で何かが弾け、口の端からドロリとした血が垂れる。
『集約、完了。魔力総量――』
「言うな」
数字は、いらない。
俺は、細身の剣を両手で握り直した。
ピシリ、と乾いた音がした。
俺の顔を覆っていた鬼の面に、亀裂が走る。
内側から押し出された魔力に耐えきれず、漆塗りの面が砕ける。
破片が、ぱらぱらと床に落ちていった。
仮面が、剥がれた。
だが、素顔が晒される前に。
器から溢れ出した魔力が全身を包み込み、輪郭ごと塗り潰していた。
黒だ。
この階層の暗闇よりも、なお深く、重たい黒。
自分の手が、見えない。
持ち上げてみても、そこに腕があるという感覚だけが返ってきて、輪郭はどこにもなかった。
(……この迷宮らしい、ブラックな色じゃねえか)
誰の顔にも見えないだろう。
ただ、闇より暗い何かが、そこに立っているようにしか。
ヴァルターが、こちらを見た。
巨躯が、大剣を正眼に構え直す。
その背には、ルッツと近衛二名。三人を完全に庇う位置から、男は一歩も動かない。
(……そうだよな。お前は、絶対に部下を守る)
あの足は、踏ん張っているんじゃない。
動く気がないから、そこに置いてあるだけだ。
俺が唯一、勝てる場所だ。
(悪いな、ヴァルター)
剣を、頭上へ振り上げた。
黒が、腕を伝って刃へ流れ込んでいく。
集めた『全部』が、たった一本の細い鉄に押し込まれていった。
剣術じゃない。上段から、真下へ落とすだけだ。
技も駆け引きもいらない。どうせ、避けないんだから。
(あんたの『一番いいところ』に、つけこませてもらう)
◆第15階層・虚空の玉座/ヴァルター視点
黒をまとった迷宮主が、立っていた。
もはや人の形をしていない。仮面も、鎧も、輪郭すら塗り潰されている。
ヴァルター自身の放つ金色の光が、そこだけ届かない。
照らしても、照らしても、光が吸い込まれて返ってこない。
空気が焼け焦げる。頑強な石畳が熱で軋む。
その手にある細身の剣が、黒を際限なく吞んでいる。
剣先が、下がった。
両手で支えているのに、切っ先が重さに引かれて小刻みに震えている。
二十年、あらゆる得物と斬り合ってきた。
あんな重さを持った刃は、一度も見たことがない。
ヴァルターは、それを正面から見据えた。
(避けられん、な)
いや、と思い直す。
避けられないのではない。避けないのだ。
半歩でも横に逃げれば、あの黒い刃は真後ろへ抜ける。ルッツへ。近衛たちへ。
それだけは、絶対にさせない。
背後で、ルッツが何か叫んでいた。逃げろ、と言っているのだろう。
一度も将軍に意見したことのない男が。
聞かなかったことにした。
大剣を、両手で固く握り直す。
一日も欠かさず振り続けた剣だ。
――ならば、証明してみせろ。
光が、爆ぜるように膨れ上がった。
傷が塞がる感覚はない。骨の痛みも消えない。
ただ、抗う力だけが、魂の底から無尽蔵に湧いてくる。
背後で、近衛の一人が石畳を掻く音がした。
まだ、生きている。
それだけで、体の芯から力が湧いた。
「来いッ!」
直後、黒い刃が、真上から落ちてきた。
◆第15階層・虚空の玉座/黒瀬視点
振った、という自覚すらない。
振り上げた腕を、真下へ落とす。それだけだ。
刃が、黒の一閃を放った。
細身の鉄の丈をはるかに超えて、剣圧が伸びる。
石畳を裂きながら、十数歩ぶんの距離を一息に食い潰して――
――ドオオオオオオオオオオンッ!!!
音が、遅れて鼓膜を破った。
黒の一閃が、金色の巨躯と激突する。
止まった。
(――受けやがった!)
ヴァルターの大剣が、俺の刃を、真正面から受け止めていた。
火花が、出ない。
こすれる音もしない。
噛み合った一点から白い光が湧き続けて、そこだけ空気が消し飛んでいる。
柄を握る指の骨が、みしりと鳴った。
肘から先の感覚が、もうない。
両足が石畳にめり込み、床が放射状にひび割れていく。
それでも、あの男は下がらない。一ミリも。
金と黒が、真っ向から押し合った。
ぶつかり合った境界で、光が渦を巻いて弾ける。
削れた壁の破片が、天井の闇へ吸い上げられていく。
体を通り抜ける力が、みるみる細っているのが分かった。
器に収まらない借り物だ。放った瞬間から、目減りが止まらない。
ピシッ、と手の中で嫌な音がした。
刃の根元。細い罅が、鍔から先へ一寸だけ走る。
(足りるか……!?)
ヴァルターが、さらに一段跳ね上がった。
巨躯の視線が、一瞬だけ背後へ流れる。
ルッツと、近衛が二人。まだそこにいることを確かめて、また正面へ戻る。
それだけで、光が濃くなった。
――ああ、そうか。
(あんたは、たった一人でそこまで来たんだな)
誰にも頼らず。誰にも自分を預けず。
全部この背中一つで背負うと決めて。
(……俺は、無理だった)
一人で抱え込んで、抱えきれなくて、隣で潰れかけてる後輩にも手を伸ばせなくて。
それで、孤独に死んだ。
(だから今、俺が持っているのは――)
押し合う刃の境で、黒が、ふっとほどけて見えた。
赤。銀。青。緑。紫。
それに、無数の細い温かい色。
ヴァルターの色は、たった一つの金色だ。
一人で積み上げた、混ざりようのない一色。
こっちは違う。
「――何百人分の、想いの色だッ!」
黒と金の境界が、じり、と動いた。
ヴァルターが、押されはじめた。
「――ぐ、うおぉッ!」
初めて、あの男から苦悶の声が漏れた。
大剣の刃が悲鳴を上げて軋み、めり込んだ足が後ろへ滑る。
一歩。二歩。
それでも、ヴァルターは剣を離さない。
限界はとうに超えているはずだ。意識が白濁しても、なお。
背中の三人の前から、退こうとしない。
――だから、俺はそこを通った。
ゴウッ、と空気の鳴りが変わる。
押し合っていた金の壁が、境界ごと内側へ折れた。
黒の一閃が、金色を呑み込んだ。
◆第15階層・虚空の玉座/ルッツ視点
衝撃が、来た。
将軍が受け止めたものは、一片も背後へ抜けてこない。
だが、刃と刃の境から溢れた圧が、床と空気を殴りつける。
足元の石畳が、波打つ。
ルッツの体が浮き、背中から壁へ叩きつけられた。
左右で、近衛が転がっていく。どちらも、そのまま動かなくなった。
息が、できない。
折れた右腕が、さっきとは違う場所で鳴った。
(――将軍)
晴れていく視界の中で、将軍はまだ立っていた。
大剣を、正面に構えたまま。
鎧は吹き飛び、ほとんど残っていない。あの光も、もうどこにもなかった。
「……将軍」
返事はない。
ルッツは床を這った。
動く左腕だけで石畳を掻き、その足元まで進む。
将軍は、目を開けたままだった。
だが、その瞳はもう何も映していない。
ゆっくりと、大剣が太い手から滑り落ちた。
カラン、と、澄んだ音が石畳に響く。
巨体が糸の切れた人形のように前へ傾いた。
「将軍ッ!!」
伸ばした左腕は、支えの役にも立たなかった。
覆いかぶさってきた重量に押し潰され、二人で床に沈む。
息は、あった。
分厚い胸が、ゆっくりと上下している。
顔にかかった前髪をどけると、その表情は――
(……笑って、いる?)
二十年、戦場でも王宮でも一度も見たことのない顔だった。
力尽き、意識を手放し、敗北したというのに。
どこか憑き物が落ちたような、安らかな寝顔だった。
ルッツは動かなかった。
いや、動けなかった。
将軍の重みの下では、指の一本すら持ち上がらない。
◆第15階層・虚空の玉座/黒瀬視点
勝った。
そう理解するのに、たっぷり十秒はかかった。
借りていた力が、潮が引くように体から抜け落ちていく。
残ったのは、空っぽになった器と、鉛みたいに重い手足だけだ。
手から、剣が滑り落ちた。
カラン、と軽い音がする。
刃には根元から半ばまで罅が走っていた。
だが――折れては、いなかった。
膝が、勝手に折れた。
石畳に手をつく。冷たい。
顔を上げると、割れた鬼の仮面の残骸が散らばっているのが見えた。
――しまった。
頬に、直接空気が当たっている。
顔を隠していた仮面も、内側に張っておいた認識阻害の魔力も。
さっきの一撃の反動で、根こそぎ持っていかれていた。
視界の向こうで、ルッツが将軍の下敷きになったまま動かない。
近衛の二人は、離れた床に転がったきりだ。
まだ、誰もこちらを見ていない。
もう、顔を隠すための魔力一滴すら残っていない。
(……終わった、のか)
『ご主人』
耳の中に、ナノの声。
『ヴァルター・レーヴェ、意識喪失を確認。……第三軍団、完全制圧完了です』
「……そうか」
『死者は』
少しだけ、間が空く。
『――ゼロです。開戦から、ただの一人も』
笑おうとして、うまく口の端が動かない。
代わりに出たのは乾いた咳と、ひどい血の味だった。
『迷宮の魔力残量――実質、ゼロです』
「そりゃ、そうだ」
三日で稼いだものも、みんなから預かったものも、残らず溶かした。
しかも、その全部を、「敵の兵を一人も殺さないため」に使った。
(……とんだ赤字経営だな)
それでも。
視界の端で、ルッツが将軍の顔を覗き込んでいる。
将軍を抱えるその手が、生きていた安堵で震えていた。
(――まあ、悪くないか)
そこで、俺の限界が来た。
体が横に倒れる。頬に石畳の冷たさが張り付き、視界が急速に暗闇へと沈んでいく。
『ご主人』
ナノの声が、耳の奥で急いた。
『転移の維持分だけは、残してあります。……お迎えに上がっても、よろしいですか』
顔を隠すには足りない。
だが、この場から逃げるには足りる。
「……頼む」
足元に、見慣れた転移の魔法陣が広がっていく。
薄れていく視界の端で、ルッツが将軍の肩越しにこちらを向いた。
その目が俺の顔を捉えたのか、それとも一拍、早かったのか。
確かめる前に――光が、俺の体を掬い上げた。
遠くで、ナノの声がする。
いつもの、無機質な業務連絡の声じゃなかった。
『……おかえりなさい、ご主人』
ああ、ただいま。
そう答えたつもりだったが、声になったかどうかは、自分でも分からなかった。




