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第九十二話:限界超過と決別

◆第15階層・虚空の玉座/黒瀬視点


「……ナノ! 解析を急げ! あいつのあの光、一体何なんだ!?」


 割れた鬼の仮面の隙間から脂汗を流しながら、俺は叫んだ。


『分析中……! ヴァルター・レーヴェの生体数値、異常上昇を継続中! これは魔力バフでも既存のスキルでもありません。個体の許容量を、とっくに超えています。……止まりません』


 ナノの悲鳴に近い声が、頭の中で甲高く響く。


『上昇の曲線に規則性がありません! 跳ねる瞬間があるんです!』


「いつだ!」


『近衛が立ち上がった時。副官を背に庇い直した時。……彼が、誰かを守ろうとするたびに、です!』


 ――そういうことか。


 (守る相手がいると強くなる。……いや、それだけじゃ説明がつかない)


 数値の跳ね方が、背後の頭数と合っていない。残っているのは、副官と近衛の三人だけだ。それだけで、あの桁違いの出力は出ない。


 もっと単純で、もっと理不尽な入力。


 (守りたいっていう、感情の強さに直接比例してやがる)


「限界超過を、精神論で起こしてくるなんて……一番仕様書に載せちゃいけないバグだぞ、おい!」


 俺は毒づいた。


 金色に輝くヴァルターが、ゆっくりと大剣『鉄理』を構え直す。

 その足元、一歩踏み出すごとに磨き上げられた黒い石畳がクモの巣状に砕け散っていく。

 背後のルッツと近衛たちも、その金の光に引き上げられるように、気力だけで立ち上がっていた。


「……引き下がらんぞ、迷宮主」


 ヴァルターの声には、もはや迷いも躊躇もなかった。


「俺が退けば、後ろがなくなる。……それだけだ」


「っ、来るよ、ご主人!」


 空中からリリが叫ぶ。四枚の翼の光は薄れ、リリの魔力も限界に近い。


 踏み込みが、速い


 (――ガードをする間すら、ない)


 視界が眩む。

 障壁を編みかけた指ごと、大剣の腹で払われていた。


 ガァンッ!


 衝撃。体が浮く。

 硬い石畳を二度跳ね、転がった。口の中に、生臭い血の味が広がる。


「ご主人ッ!」


 リリが割り込み、空間を歪めて追撃の一閃を逸らす。

 だが、空間の歪みが浅い。刃を完全に反らせていない。


 ヴァルターは急がなかった。

 部下を背から外さず、一歩ずつ、確実に間合いを詰めてくる。


 拘束魔法は、触れた瞬間に蒸発する。

 重力は、乗らない。重さそのものが、あの体に届いていない。

 地形は、一足分が精一杯だ。迷宮の蓄えが、空っぽだ。

 空間転移は、意識があるうちは論外だ。戦えるまま第五階層へ放り込めば、隔離区画の捕虜を解放されて終わる。

 削り合いも論外。時間はあいつの味方で、こっちのHPは減る一方だ。


 正攻法の勝ち筋――ゼロ。



◆第15階層・虚空の玉座/ヴァルター視点


 視界が、眩い金色と血の赤に染まっていた。


 右肩の肉が焼け、肋骨の数本が折れ、全身の血管が破裂しそうなほど熱い。

 痛みの感覚など、とうに失われていた。


 (……動け。まだ動け、俺の体)


 二十年間、封じ込めてきた「自分の意志」。

 己の判断で部下を死なせた、燃える村の記憶。


 あの日から俺は、「命令」という鉄の箱に自分を閉じ込めた。思考を捨て、命令に従うだけの肉体になれば、二度と誰も殺さずに済むと信じていた。


 だが、いま自分の背中にあるのは、上からの命令ではない。

 「守りたい」と願った部下たちの命だ。


 大剣『鉄理』を握り直す。指骨が悲鳴を上げるが、握力は緩まない。


 声は、出さなかった。

 奥歯の軋む音だけが、兜の内側で鳴った。


 地を蹴る。

 音を超えた突進。迷宮主の喉元へ、一直線に刃を走らせる。


 ガッ――!


 手応えが、逸れた。


 迷宮主が剣を受け止めたのではない。足元の地面――その微小なエリアの摩擦係数をゼロにされ、踏み込みの軸がわずかに滑ったのだ。


 (ぬっ……!?)


「俺は剣士じゃない! お前とまともに剣を交える気なんて最初からないんだよ!」


 仮面の男が転がるようにして刃をかわし、懐から新たなスクロールを叩きつける。

 攻撃魔法ではない。視界を塗りつぶす、ただの煙幕。


 (視界封じか……!)


 ヴァルターは大剣を一閃し、暴風で煙を吹き飛ばす。

 だが、その一瞬の方向転換ですら、限界を超えた膝に耐えがたい負荷をかけた。


 ギシ、と不気味な音が骨の奥から響く。


「将軍ッ! 無理をしないでください!」


 背後でルッツが叫ぶ。


「……下がっていろ、ルッツ」


 ヴァルターは喉から血を吐き出しながら、さらに前へ踏み出す。


 (まだだ……まだ、俺の足は動く! この一撃で、迷宮主を――!)



◆第15階層・虚空の玉座/黒瀬視点


 俺はヴァルターを見た。

 背にルッツを置いた、あの立ち方を。


 (あいつは、絶対に逃げない)


 さっき、この目で見た。極大のレールガンの射線上に、自分から飛び込んだ男だ。

 部下を背にした瞬間、あの男の選択肢から「回避」と「撤退」が消える。


 それは弱点じゃない。あいつの生き方そのものだ。

 だが――だからこそ、あいつは確実に「そこ」に立つ。


 (正面からの、力と力。技量が介入しない純粋な出力勝負)


 そこに持ち込めれば、剣の腕も、戦術も、積み上げた年月の差も関係なくなる。

 ただ、ぶつけた魔力の総量が大きい方が勝つ。


 (……足りない。今の俺の中身じゃ、桁が足りない)


 あいつの金の光は、今この瞬間も濃くなり続けている。


 視線の先で、ヴァルターが大剣を構え直した。


 十五階層、最後の最後まで、自分が一番前に立ち続けた男。

 一人で鍛えて、一人で背負って、軍の全部をあの太い背中一つに載せている。


 (――知ってるんだよ、その生き方は)


 痛いほど、知ってる。

 一人で抱え込んで、人に頼れなくて、全部自分で処理しようとして――最後に潰れた、前世の自分と同じだ。


 あの男に勝てる方法があるとしたら、たった一つしかない。


 あいつが持っていなくて、今の俺が持っているもの。


「ナノ。階層守護者から魔力を引く。管理者権限で」


『……実行可能です。全個体からの強制徴収シーケンスを起動しますか?』


「違う」


 俺は息を吐き、コンソールを叩いて通信のチャンネルを開いた。


『頼む、力を貸してくれ。――お願いだ』


 『頼む』なんて。


 前の世界で、俺は一度もこの言葉を言えなかった。


 「仕事が回らない」と言えなかった。「助けてくれ」と言えなかった。

 言った瞬間、自分の無能さを認めることになると思っていたから。

 だから全部一人で抱え込んで、隣で潰れかけていた後輩に手を伸ばさないまま、サーバールームの床で倒れて死んだ。


 一拍の、沈黙。


 通信の向こうで、低い吐息が聞こえた。


『……ふん』


 治癒室のベッドから、苦笑交じりの声が返る。


『我の炎、好きに使え。――貸しだぞ、黒瀬』


『御意』


 ジグの声はそれだけだった。簡潔で、迷いがなかった。


『稼働不能な資産を遊ばせておくのは、ご主人の一番嫌いな在庫ですから。残さず持っていってください。……ご武運を』


 ロクの声に、こんな状況なのに少し吹き出しそうになった。


『ポヨォォォォォ!』


 言葉にはなっていない。割れた核を抱えた体の、どこから出しているのか分からない、いつも通りの呑気な音。

 何も分かっていない。分かっていないまま、全リソースを投げ打つ気だ。


 ――四体。

 それで打ち止めのはずだった。俺が繋いだのは、階層守護者だけだ。


 だが。


『ご主人。……接続数が、異常増加しています』


「は?」


『十二。……三十。六十……!』


 ナノの声が、冷静さを失っていく。


『こちらから要求していません! 向こうが、勝手に回線を開けています!』


 第一階層の待機部屋。今日も削られ続けたゴブリンの詰所。

 第三階層の水底。第四階層の雪の下。厨房。回復部屋。倉庫。


『百四十……二百……止まりません!』


 名前も知らない連中だ。

 俺が種族とIDでしか呼んでこなかった、頭数としてしか扱ってこなかった連中。


 そいつらが今、自発的に手を挙げている。


『三百を超えました……! ご主人、これ――』


「……読み上げなくていい」


 喉の奥が詰まって、声が上手く出なかった。


 直後、細い光の束が流れ込み始める。


 一筋一筋は、糸みたいに細い。小さな蝋燭の火ほどの魔力だ。

 だが、それが数百と束になり、大河となって俺の中へ落ちてくる。


『ご主人。集約を開始します。ですが――』


 ナノの声が、重く沈んだ。


『集約した魔力を保持できるのは、ほんの一瞬。放てるのは、一撃分だけです』


 一撃限りの、みんなからの借り物。

 外したら、その瞬間に全滅だ。


 (上等だ)


 どうせ、正面からのぶつかり合いに二度目なんてない。


『そして――集約完了が間に合いません。彼が、到達するまでに』


 ヴァルターが、再び地を蹴った。

 金色の彗星と化した巨躯が、直線軌道で迫る。


「時間なら」


 視界の先、小さな背中が俺の前に割り込んだ。


「ボクが稼ぐ」


「リリ、お前――もう魔力が空だろうが!」


「空でも、歪ませられるもん」


 リリは振り向かなかった。垂れ下がった四枚の翼が、痛々しく震えている。


 副官たちを先に落として、二人であの男を挟む。それが段取りで、リリはその通りに撃った。

 あんな覚醒を読める奴がいるなら、連れてこい。


「ご主人」


「なんだ」


「ボクの全力、真正面から食らって立ってた奴、初めてなんだけど」


 声が、低かった。


「……ちょっと、ムカついてる」


「そりゃ結構だ」


「それにさ、ご主人」


 リリが、小さく口元を緩めた気配がした。


「倒さなくて、いいんでしょ? 時間稼ぎだけなら――ボク、結構粘り強いよ」


 金色のオーラを纏った巨躯が、目前に迫る。

 リリが小さな両手を突き出し、最後の歪みを空間に刻み込んだ。


「――いくよ、おじさん!」

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