第九十話:虚空の玉座
◆第15階層・虚空の玉座/ヴァルター視点
螺旋の石段を降り切った先は、黒だった。
光すら飲み込む漆黒の空間。
足元には硬い地面の感触があるが、それが石なのか土なのか、視覚からは一切の情報が得られない。
頭上にも見えない天井があるはずだが、どこまでも深い漆黒が広がるのみだった。
ヴァルターは、大剣『鉄理』を握りしめ、目を凝らした。
その暗闇の中央、たった一箇所だけ、存在を主張するように黒い玉座が浮かんでいた。
玉座には、黒い全身鎧に身を包み、禍々しい鬼の仮面を被った男。
そして、玉座のすぐ隣には――四枚の翼を持つ少女。
黒いドレス、真紅の瞳。小さな体から空間そのものを歪ませるほどの魔力が放たれている。
「……お前が、迷宮主か」
ヴァルターの声が、反響すらしない虚空に吸い込まれた。
「よくここまで辿り着いたな、王国の将軍」
仮面の奥から、低く響く声が返ってくる。感情の読めない、淡々とした響きだった。
「来た時と比べたら人数がだいぶ減ったようだな。お前と、後ろの六人。それが最後の生き残りというわけか」
その言葉に、ルッツと五名の近衛たちが一斉に武器を構える。ヴァルターは彼らを手で制した。
「……兵たちはどうなった」
ヴァルターの問いに、仮面の男は少しだけ肩をすくめるような仕草を見せた。
「お前の兵は、一人も死んでいない」
ヴァルターの指が、柄の上で止まった。
三日間で、消え続けた四百九十三人。血の痕すら残さなかった兵たちの行方を、目の前の男は言い切った。
迷宮主が再び口を開く。
「単刀直入に言う。俺たちの目的は、お前たちを撤退させることだ。……引いてくれないか」
「……断る。我々の任務は、勇者の回収と迷宮の制圧だ」
「そうか。だったら、戦うしかないな」
仮面の男は軽く首を回した。
「ただし、この第15階層の敷居を跨いだ以上、相応の『おもてなし』をさせてもらう」
◆第15階層・虚空の玉座/黒瀬視点
仮面の下で、俺は静かにヴァルターたちを観察していた。
ボロボロの鎧、疲労困憊の体。左腕を吊った副官のルッツ。だが、誰一人として戦意を喪失していない。
「ご主人、やっちゃっていい?」と隣で呟いたリリの周囲に、バチバチと黒い雷が収束し始める。
「ああ、全力でやれ」
リリが真紅の瞳を輝かせ、四枚の翼を大きく広げた。
その瞬間、虚空の空間全体が、彼女の放つ強大な魔圧に軋みを上げた。
小さな体が音もなく宙を渡る。ヴァルターの頭上を越え、七人の背後へ回り込んだ。
ヴァルターの表情が険しくなる。
「全員、俺の背に付け。散開するな」
近衛たちが即座に動く。ヴァルターを軸に、七人が一つの砦になろうとした。
させない。
俺は両手を広げ、コンソールのコマンドを蹴り飛ばすように実行した。
光の帯が、床を奔る。
それは七人を分断する線となり、次の瞬間、天井の見えない高さまで壁となって吹き上がった。
「なっ……!」
伸ばされた近衛の手が、ヴァルターの指先を掠めて遮られる。
光の壁の向こう側で、副官たちの姿が水底を見るように歪んだ。
――ゴウンッ!
ヴァルターが大剣を叩きつける。
重い衝撃音。だが、刃は光に受け止められたまま、一ミリも喰い込まない。
「無駄だ。斬れはしない。ここは俺のフィールドでな」
仮面の男の声は、淡々としていた。
「まともに戦う気は、ないわけか」
「ないな。斬り合いはお前の領域だろう? 俺は、俺の領域で戦う」
ヴァルターの革手袋が、軋む音を立てた。
その鋭い視線が、俺を通り越し、光の壁の向こうへ向けられる。
「……卑怯とは言わん」
低い、絞り出すような声。
「だが、覚えておけ。あれは、俺の部下だ」
「知ってる」
それ以上、俺は言わなかった。
壁の向こうで、リリが軽く手を振るのが見えた。向こう側の空間が、ふわりと歪む。
左腕一本で剣を構え直した副官が、壁越しの将軍に何かを叫んでいた。
声は聞こえない。だが、口の動きだけでわかる。
ヴァルターは、ただ一言だけ呟いた。
「……任せた」
◆第15階層・虚空の玉座/ルッツ視点
「ボクが相手だよ。六人まとめてね」
少女の声は、遊びに誘うような軽さだった。
ヒュンッ。
リリが指を振っただけで、空気を裂く何かが飛んできた。
近衛の一人が咄嗟に盾を構えた。
ガキィッ!
盾が紙のように粉砕された。
「うわっ!?」
近衛がよろめく。
リリは無造作に空中へ浮かび上がっていた。四枚の翼で機動を確保しながら、上下左右、あらゆる角度から攻撃を放ってくる。
ルッツは奥歯を噛んだ。
この階層に来るまでに兵は削られ続けてきた。そして最深部で待っていたのが、これだ。
将軍の最後の命令は「散開するな」だった。
だが、あれは分断される前の話だ。宙にいる相手に固まっていては、一薙ぎでまとめて持っていかれる。
「散開! 包まれるな!」
ルッツは叫んだ。判断は、もう自分でするしかない。
近衛五名がリリを囲むように展開する。
だが、囲んだところでリリは空中にいた。
地上の包囲は意味をなさない。
「空間断裁」
リリが右手を振った。
空間そのものが刃のように切り裂かれる。
近衛の一人が、足元の床ごと切り取られて宙に放り出された。
切り取られた床は空中で音もなく消える。踏むべきものが、ない。姿勢を作る間もなかった。
「うわぁぁッ!」
切り口の縁を越えた先、無傷の黒い床に叩きつけられ、兜が跳ねた。
動かなくなったその体が、淡い光に包まれて消える。
「一人。……ちゃんと返してあげるから、安心して退場してね」
リリが呟いた。
子供が、庭の虫を踏んだ時の声に、似ていた。悪意はない。
返す、とはどういう意味だ。だが、問い返す余裕はなかった。
(……ありえん)
ルッツの背筋に冷たいものが流れた。
腕利きの魔物も、名のある魔法使いも、この目で見てきた。
だが、この少女の戦い方は、そのどれとも違う。
地面が消え、空間が刃になる。剣も盾も、間合いという概念ごと、意味をなくす。
――我々の手は、一つも届かない。
「左腕一本のおじさん。まだ立てるんだ」
リリが空中から見下ろしてくる。
憎しみはない。面白い虫を見つけた子供のような、興味の響きだけがあった。それが、余計に、ぞっとした。
「この迷宮を壊させないよ。ご主人が作った場所だから」
答える余裕はなかった。左腕一本で剣を振るのが精一杯だ。
――この娘には、ここに立つ理由がある。
守るものがあって、そのために戦っている。
では、我々は。
(……宰相の、命令だ)
その宰相は、王都の執務室にいる。ここから馬で何日もかかる場所の、椅子の上に。
リリの指先に、紫黒の魔力が凝縮される。
その切っ先が向いたのは、ルッツではなく、その後ろで剣を構えた近衛だった。
「ごめんね。おじさんは、最後にしてあげる」
――ヒュンッ!
閃光。二人目の近衛が、光となって消えた。
ルッツは、左腕一本で柄を握り直す。
胸の内ポケットに入った、数多の『遺書』が、重かった。
◆第15階層・虚空の玉座/黒瀬視点
七人まとめては捌けない。
ヴァルターだけを剥がして俺が時間を稼ぎ、残り六人はリリが一人ずつ落とす。
「三重、展開」
足元に局所重力負荷。床へ縫い付ける。
周囲に重力倍加。振り上げる腕まで鈍らせる。
壁面から拘束鎖。四肢を縛る。
三つの術式が、同じ一拍で噛み合った。
「ぐっ……」
ヴァルターの足が沈む。膝が落ちる。鎖が四肢に巻きつこうとする。
普通の人間なら、これで終わりだ。
だが、終わらなかった。
――ガキィンッ!
下から跳ね上がった『鉄理』が、伸びてきた魔法の鎖を根本から消し飛ばした。
ヴァルターは、倍加した重力を歩道橋の階段でも登るような足取りで踏み砕き、まっすぐに距離を詰めてくる。
(……S級の身体能力、マジでバケモンかよ)
三重に積んだ拘束が、一秒ももたない。
軍が攻めてくる前、迷宮の魔力は三万まで満ちていた。
そいつを、連中が門をくぐる前に全部引き出した。俺に一万五千、リリに一万五千。
――そこまでして、この程度か。
しかも、あの男は万全ではない。左肩に、バルログがつけた傷。十四階層分の疲労を、その身に溜めている。
それでこの圧か。
俺は一歩退いた。刃の届かない距離まで。そして、懐から新たなスクロールを引き抜く。
風の刃。十二発、同時射出型。
ヴァルターを囲むように、十二の魔法陣が空中へ展開される。
「行け」
風の刃が十二方向からヴァルターを襲う。
ヴァルターは動かなかった。
大剣を頭上に持ち上げた。
「鉄理――『一閃』」
――ギィィィィンッ!
円を描いた大剣の軌道が、射出される『前』の魔法陣を、十二個まとめて空間ごと切り裂いた。
(は……!? 術式の起動コアだけを狙って斬った!?)
「次は、こちらから行くぞ」
ヴァルターが地を蹴った。
速い。重力場をものともしない、純粋な身体能力の暴力。
一瞬で視界が大剣の影で埋まる。
ザシュッ。
俺は転がるようにして泥臭く跳び退いた。
マントが肩の付け根から斜めに裂ける。その下の鎧の隙間を、大剣の切っ先が浅く抉った。灼けるような熱。血が滲んだ。
「ぐっ……」
膝を突いて、距離を取り直す。
ヴァルターは追ってこなかった。
じっと俺を見ている。
「お前は、剣士ではないな……お前では俺には勝てんぞ?」
ヴァルターが息を整えながら言った。
「俺もそう思う」
「……自分の命が惜しくないのか」
「惜しいさ。だから、必死にシステムを組んでる」
俺は息を整えた。
肩の出血。意外と痛い。
『ご主人、左肩の裂傷が――』
「後にしろ」
耳の中の声を、途中で切った。
(魔法では決定打にならない。鉄理が全部斬る。物理戦闘なら俺はあいつに勝てない。……どうする)
息が上がる。
戦場を走り続けた武人と、付け焼き刃のドーピング野郎の差が、体力ゲージの減り方に出ている。
視界の端で、リリの戦場が映る。
すでに近衛は三人消えていた。残るは二人とルッツ。
だが、リリの肩も少し上下している。空間断裁の連発は燃費が悪い。
(長引けば、こっちが先に崩れる)
ヴァルターもそれを読んでいる。
次で、終わらせる気だ。
「迷宮主。……お前の計算ごと、断つ」
半歩、踏み込んできた。
大剣が上段に構えられる。避けきれない。俺は必死に防御スクロールを展開――
――パキンッ!
乾いた音が、俺の顔面で鳴った。
切っ先が風圧だけで俺の防御を割り、鬼の仮面の右半分を砕き散らした。
衝撃で、意識が一拍飛んだ。
その一拍で、術式を握っていた手が緩む。
――戦場を分断していた光の壁が、糸の切れた幕みたいに崩れ落ちた。
しまった、と思ったところで、もう繋ぎ直す余裕がない。防御に回した分で、維持の魔力まで食い潰していた。
もう、主の威厳なんてどこにもない。
ただの、余裕をなくした男の顔だ。
ヴァルターが、最後の一歩を踏み出す。
大剣が振り上げられる。終わる。
その時。
空気を震わせる『超高周波の駆動音』が響いた。
――キィィィィィィ――ンッ!
規格外の魔力収束。
リリのレールガンだ。
だが、威力がいつもの比じゃない。あいつ、残った魔力のほとんどをあの一撃に込めやがった。
(どこを狙って――)
リリの照準の先。
それは、左腕一本で立っている、副官ルッツ。
◆第15階層・虚空の玉座/ヴァルター視点
背後の空気が、鳴っていた。
肌を刺す高密度の魔力が、何が起きようとしているかを如実に伝えてくる。
極限まで引き絞られた、確実な死の弓弦。
ヴァルターの腕は、止まったままだった。
眼下に、仮面を砕かれた迷宮主がいる。
姿勢が崩れている。防御もない。今、この大剣を振り下ろせば、確実に斬れる。
迷宮の主を倒せば、任務が終わる。
それが、軍人としての最適解。
視線を、動かした。
目の前の男の首。
――崩れた壁の先、ルッツの背中。
『自分の判断で動くな。命令に従え』。
部下を死なせたあの日から、鉄の箱に閉じ込めてきた戒め。
今、目の前の男を斬ることは、その「命令」に完璧に従うことだ。
だが。
振り下ろせば、間に合わない。
自分がこの男を斬る一瞬前に、あの光の砲撃が、ルッツを消し飛ばす。
遺体も残らない。
あいつが預かった、兵たちの遺書ごと。
ヴァルターの喉、引きつった音を立てた。
大剣の重量が、両腕を引きちぎるほど重く感じられた。




