第八十九話:決壊
◆第14階層・粘菌の海/ルッツ視点
階層主のスライムが霧になって消えた。
ルッツは粘液に膝まで浸かったまま、その光景を見ていた。
少し先でヴァルターが大剣を下ろしている。周りに立っている兵は、もう数えるほどしかいない。
勝ったのだ、と思った。
思った瞬間、足元の粘液から脈打つ気配がふつりと消えた。
沈黙が、一秒。
ズ、ズズズズ……ッ。
床の底から、何かが這い上がってくるような震動。
次の瞬間、床を埋めていた粘液が端から端まで一斉に膨れ上がった。
「――ッ!?」
粘液に漂っていた無数のスライムが、一斉に形を崩した。
それらを束ねていた何かが消えたのだ。
輪郭をなくした粘液の波が天井の鍾乳石と壁の岩肌を、叩きつけるように跳ね上がる。
「将軍ッ!!」
ルッツの叫び。
巨大な粘液の波が、洞窟の一端から反対側へ天井を掠める高さで押し寄せてくる。
もはや包み込むのではない。ただ全てを押し流す、水の壁だった。
「全隊、階段へ! 第15階層への門へ走れッ!」
ヴァルターの声。
ゴォォォォォ――ッ!!
だが、その声は、押し寄せる粘液の轟音に半分掻き消された。
兵たちが走った。
だが――間に合わない兵がいた。
濁流の壁が後方の兵たちを一人、また一人と波の内側へ巻き上げていく。
粘液の中で兵の輪郭がぼやけ、淡い光の粒に変わって内側から溶けるように消えていった。
どこへ。
ルッツには分からなかった。
(生きている、はずだ)
その一点だけが彼の足を前へ向かせた。
後方で、一人の兵が足を止めた。
もう走っても間に合わない。それを悟った顔だった。
彼は濁流に向き直り、盾を構えた。仲間が一歩でも先へ進むためのその一歩を作るために。
波が盾ごと兵を呑む。淡い光が一つ、粘液の中で灯って消えた。
「将軍、こちらへ!」
近衛長の叫び。
第15階層への階段の門が開いている。
ヴァルターは片手でルッツの腰を掴み、脇に抱えて走った。
左腕一本のルッツは、走るというより宙を引きずられていた。それでも抵抗せず、彼は将軍の足の速度に自分の全身を預けた。
あと十歩。あと五歩。
足元の粘液が、逃げる踵を掴もうと盛り上がる。
兵の一人が自分の足場を捨て、二人の背を門の内へ突き飛ばした。
その反動で自身の体が半歩、後ろへ流れる。
伸びてきた別の手がその腕を掴んで引きずり込んだ。
七人が折り重なって、石畳に転がり込む。
直後、背後で粘液の濁流が門にぶつかった。
ズシン、と門全体が内側に押される。
残された兵たちの姿は、その粘液の壁の向こう側へ、消えた。
◆第15階層への階段/ヴァルター視点
階段の踊り場で、ヴァルターはルッツを石段の縁にゆっくりと下ろした。
自分自身も大剣を杖にして片膝をつく。
息が上がっていた。肩が大きく上下する。
これほど息を乱したのは初めてだった。
門の向こうで、粘液が壁を叩く音が続いていた。
その音が、少しずつ遠のいていく。粘液が門の手前まで満ちて、そして引いていく音だった。
残ったのは、ヴァルター、ルッツ、近衛五名。
計七名。
近衛たちは石段に膝をつき、肩で息をしていた。鎧のあちこちが粘液で濡れ、剣を杖代わりに、辛うじて体を起こしている。
誰も口を開かなかった。開く言葉が、なかった。
軍は消えた。
三日前、五百人がこの迷宮の門をくぐった。いま、この石段にいるのは七人だ。
あの粘液の向こうに、生きているのか、いないのか、確かめる術はない。
「……将軍……皆は生きているのでしょうか……」
ルッツの声が掠れていた。
「分からん。だが、これまでの迷宮と同じなら――生きているはずだ」
言いながら、ヴァルターの足が、一度、階段の下へ向きかけた。
戻れば、まだ何人か引き上げられるのではないか。
だが、門はもう粘液で塞がれている。戻ったところで、消える兵が増えるだけだ。
ヴァルターは階段の下を振り返らなかった。
振り返れば、崩れそうだった。
指揮官として最も避けてきたこと――部下を置いていく。
それを、いま、彼はしていた。
――だが、進むしかなかった。
階段の先から、白い光がゆっくり漏れてきていた。
第15階層。迷宮の最深部。
勇者がいるかもしれない場所。そこに、迷宮主が待っている。
「行くぞ」
ヴァルターは大剣を、肩に担ぎ直した。
近衛たちが、無言で立ち上がる。誰も脱落を口にしなかった。
七名の小隊の足音が、螺旋の石段を一段ずつ登り始めた。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
「第14階層、突破されました。ヴァルター隊、七名。第15階層への階段に進入」
ナノが報告する。
「兵の死者は」
「ゼロ。粘液に呑まれた兵は全員、第5階層の隔離区画へ。意識を失っているだけです」
「……そうか」
俺はマグカップを置いた。今日で何杯目かも分からない。
「ポヨの容態は」
「重傷。コアが二分割されました。修復に数週間を要します」
「……あいつも、いい仕事をしたな」
「はい。核が砕けて、分体を束ねるものが消えました。床を埋めていた粘液も、漂っていたスライムも、端から端まで全部あの子の体です。意志をなくした体が、そのまま軍を呑みました」
「最後の一手が、あいつが倒れることだった。無邪気なくせに、いちばん重い役をやらされたわけだ」
「本人は非言語のため、その自覚があるかは確認不可能です」
「ないな。あいつには」
「そう、ですね」
俺は椅子の背に体を預けた。
(ポヨ、悪かった)
「軍は、もう軍じゃない。……残る脅威は、あの男一人だ」
「はい。十二層から十四層まで、設計どおりに機能しました」
俺はモニターを切り替えた。
第15階層への階段を上る、七名の姿。
ヴァルターが先頭。その半歩後ろに、左腕を吊ったルッツ。残りの近衛が続く。
全員疲れている。
軍を失った男の顔と、副官の顔。
「ナノ。第15階層、最終確認」
「リリさん、待機中。戦闘の準備も万端とのことです」
俺は椅子から立ち上がった。
「ナノ。転移座標を起動しろ。俺も第15階層へ飛ぶ」
「了解です。……ご主人」
「何だ」
「ご無事で」
ナノの声がいつもより低かった。
俺は振り返らずに答えた。
「ああ」
転移の魔法陣が足元に広がる。青白い光が螺旋を描いて胸まで登り、視界の色が一斉に抜け、暗転する。
次の瞬間、俺は漆黒の空間に立っていた。
第15階層・虚空の玉座。
足元に地面はあるが見えない。
頭上に天井はあるが届かない。
どこまでも黒い、無限の空間。
その中央に一つだけ、黒い玉座が浮かんでいた。
玉座の上に、四枚の漆黒の翼を畳んだ少女が片膝を抱えて腰掛けている。
真紅の瞳が俺を捉えて、ふっと細まった。
「やっと来たね。ご主人」
「待たせたな、リリ」
俺はリリの座る玉座のすぐ隣に立った。
漆黒の空間の向こう、階段の上から、七つの足音が近づいてくる。
石を踏む音。剣が布に触れる音。荒い息の音。
少しずつ確実に、大きくなる。




