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第八十八話:粘菌の海

◆第14階層・粘菌の海/ヴァルター視点


 第14階層の扉を開けた瞬間、空気が変わった。


 湿気。

 肌に纏わりつく、冷たい水気。


 眼前に広がっていたのは、巨大な鍾乳洞のような空間だった。

 天井から鍾乳石が牙のように垂れ、その先端で青白い光が滴のように震えている。


 地面は一面、半透明の粘液。踏み込むと足首まで沈み、粘液の内側から鈍い光が漏れた。

 どこかで、ぽたり、と天井から水滴の落ちる音がした。


「将軍……足場が悪いです」


 ルッツが辛うじて報告した。右腕はもう使えない。顔からはすでに血の気が引いていた。それでも彼は本陣に戻らず、ヴァルターの傍にいた。


「ああ。これは……戦場ではないな」


 ヴァルターは空間を見渡した。


 粘液の海に、無数のスライムが揺らめいていた。大小さまざま。半透明の体は内側に淡い色を灯し、水の中を音もなく漂っている。


 数はおおよそ百体。


 こちらに顔を向ける個体はない。

 徘徊しているだけで襲ってこない。それが、最も不気味だった。


「将軍。スライム、約百体。階層全体に分散しています」


「……スライム、か」


 ヴァルターは低く呟いた。


 スライムは、駆け出しの冒険者でも対処法を知っている魔物だ。斬れば分裂する。潰せば増える。物理攻撃は、ほぼ無意味に等しい。


 だから――魔法で焼く。凍らせる。範囲魔法で、丸ごと処理する。


 ヴァルターの軍はそうやってスライムの巣を幾つも消してきた。何度もやってきた仕事だ。

 いつもなら、隣に魔法隊がいた。


 だが、今日は、いない。


「……魔法隊が、もういない」


 ヴァルターの声が、途中で低く落ちた。


 隣で、ルッツの息が浅くなる。彼もまた、同じ結論に辿り着いていた。


 第12階層で、支援・回復職を削られた。

 第13階層で、攻撃魔法職を削られた。


 ――そして、第14階層で待っていたのはスライムの海。


「ここまでの戦闘は、このための布石か」


 ヴァルターは大剣を握り直した。喉の奥が、乾いていた。


 (この迷宮の設計者は、最初からここで我々を詰ませるつもりだった)


 ヴァルターは大剣を抜き、最も近い一体へ踏み込んだ。


 ザシュッ。


 大剣が半透明の肉を滑らかに断ち切った。

 手応えは、なかった。

 水に刃を通したような、奇妙な軽さ。


 割れた肉塊が、空中に浮いたまま、内側からぷくりと膨らむ。

 二つの球に丸まって、ぽとり、と粘液の海に落ちた。

 落ちた二つは、互いに揺れながら距離を取り、二匹の別々のスライムとして跳ね始めた。


「……知っているとおりだ」


 驚きはなかった。ただ、事実の確認だけがあった。


 その時、空間の中央で、最も大きな粘液の塊が、内側からぽこりと膨らんだ。

 水面がゆっくり盛り上がり、そこから、一体のスライムが浮かび上がってくる。


 他より一回り大きい。半透明の体の中心に、青と碧の宝石のような核が、二つ並んで静かに輝いていた。

 その核が、一度、脈打つ。


 同じ拍で、洞窟の粘液の海全体が、微かに波打った。

 ――この階層と、あの生き物が、繋がっている。


「ポヨーン!」


 間の抜けた、明るい声が響いた。


 ヴァルターは眉を寄せた。


 (あれが……この階層の主か)


 その大きなスライムは、ぷるぷると体を震わせているだけだった。敵意も、緊張もない。ただ嬉しそうに跳ねている。


 言葉はなかった。あるのは、間延びした音だけ。


 これほど威圧感のない敵に会ったのは初めてだった。

 だが――その無邪気さが、すぐに戦場を地獄に変えた。


「斬るな!」


 ヴァルターの制止は、恐怖に狂った兵たちの耳には届かなかった。


 槍が突けば四つに分かれた。

 盾で押し潰せば、その隙間から這い出して兵の足を絡め取る。

 剣で払えば二倍になって襲いかかる。


 さらに、攻撃を免れた個体同士がぐにゃりと触れ合い、泥のように融け合って、倍の巨体へと膨れ上がっていく。

 二体、四体、八体。融合するたびに巨大化する。


 ――逃げ場が、兵たちの周りで塞がれていく。


「全軍、停止。スライムへの攻撃を一切禁止する」


 ヴァルターの命令が飛んだ。


「攻撃すれば、増える。ならば、攻撃しない。それしかない」


「し、しかし……巨体が迫っています!」


 偵察兵の悲鳴。

 合体を続けたスライムが兵の背丈を超える巨体になっていた。しかも複数。

 巨体がぐにゃりと迫ってくる。


「散開! 包まれるな!」


 兵士が散る。

 だが、足場は粘液の海。普通の機動が使えない。走ろうとした兵がぐにゃりと沈み、その隙にスライムに追いつかれる。


 ぱくり。


 巨大スライムが兵の一人を呑み込んだ。

 半透明の体の中で、兵の腕が宙を掻く。剣を握ったままの指が、内側から粘液の壁に手形を押し当てる。


「うわぁぁッ!」


 悲鳴が粘液越しにくぐもる。やがて、消えた。


 兵の体は溶けなかった。ただ、動きが止まり、輪郭が淡い光の粒に変わって、内側からゆっくり粘液に溶けるように消えていった。


 その光景が、何度も繰り返された。


 斬れば分裂する。放っておけば巨大化する。逃げれば足を取られる。

 ヴァルターの目の前で、軍が削れていく。姿ごと、視界から消えていく。


 視線の先でスライムが跳ねていた。

 二つの核が青白い光を規則的に脈打たせている。

 その脈動に合わせて、粘液の海が微かに揺れていた。


 ――ヴァルターの目が細まった。


 (あの核が、この階層の……心臓だ)


 ヴァルターは初めて、この階層を動かしている本体を、はっきりと見た。


 (あの大きいのに核があるなら――足元の雑魚どもにも、同じ芯があるはずだ)

 斬れば分裂するのは、体を裂いているからだ。体ではなく、その芯を突けば――。


 ヴァルターは自ら前衛に立った。


 大剣を構え、迫るスライムへ踏み込む。


 ザシュッ。


 大剣がスライムの中心――半透明の奥に沈む、小さな核を貫いた。


 異変が起きた。


 貫かれたスライムは――分裂しなかった。

 輪郭がふっと薄れて、白い霧のように空中で散り、粘液の海に落ちる前に、跡形もなく消えた。


「?」


 ヴァルターは自分の剣を見つめた。


 手応えが違った。肉を裂く手応えではない。芯にある硬い一点を、確かに砕いた感触だった。

 次の一体に踏み込む。同じだった。核さえ砕けば、分裂もせず、霧のように消える。


 斬れば分裂し、潰せば増える。

 だが――その芯にある核を一突きで砕けば、こいつらは増えようがない。


 ヴァルターの視線が、階層主であろうスライムへ真っ直ぐに向いた。


 (あの二つの核が、この階層の心臓だ。あれを砕けば――終わる)


 ヴァルターは一歩踏み込んだ。

 粘液の海が階層主を守るように、彼の身丈の三倍もの壁を持ち上げる。


 ヴァルターは、その壁を大剣で横一文字に薙ぎ払った。核のない、ただの粘液の壁だ。支える芯がなければ、形は保てない。


 薙がれた粘液は、糸を切られた幕のように、ぱたりと平らな水に戻った。


 階層主が、初めて動きを止めた。

 二つの核が、規則的な脈動から乱れた明滅に変わっていた。


「ポヨ?」


 悪意はなかった。敵意もなかった。

 ただ、真っ直ぐに歩み寄る大剣を、無邪気に迎え入れようとした。


 半透明の体が大剣を包み込む。

 水に刃を差し込んだような、あの感触。


 ――だが、ヴァルターの狙いは体ではなかった。


 核。

 階層主の中心に浮かぶ、二つの宝石。この海の脈動を作っているもの。


「悪く思うな」


 ヴァルターの声は低く、静かだった。


 大剣が、半透明の体を、水を分けるように静かに通り抜けていく。

 刃の先が、青と碧の二つの核に、触れた。

 縦一閃。


 パチン。


 ガラスの割れる、澄んだ音が、洞窟の湿った空気に響いた。


「……ポヨ?」


 二つの核が、綺麗に、二つに分かれていた。


 半透明の巨体が、内側から崩れ始める。

 水になって霧散した。




◆迷宮核の間/黒瀬視点


「――ポヨさんのコアが、破壊されました」


 ナノの声が、いつもより硬かった。


 俺はモニターを見上げた。

 二つに割れたポヨの核が、粘液の海にゆっくり沈んでいく。

 あの無邪気なやつが、あの将軍に、真っ二つにされた。


「……よくやった、ポヨ」


 その一言が、労いなのか詫びなのか、自分でも分からなかった。


「ナノ。ポヨの核が落ちた。あの階層は、これからどうなる」


「はい」


 ナノの声が、静かに答えた。


「ポヨさんは、あの階層の"制御弁"でした。階層の中の粘菌が暴れ出さないよう繋ぎ止めていたのは、ポヨさんの核です」


「その弁が、いま壊れた」


「はい。抑えを失った粘菌は、もう誰にも止められません。第14階層全体が――」


 ナノが、一拍を置いた。


「間もなく、決壊します」


 俺はマグカップを置いた。


 モニターの中の将軍は、剣を引き、勝利を確かめている。

 自分が今、何の栓を抜いたのかも、知らずに。

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