第八十六話:副官の判断
◆第13階層・歯車の迷宮/ルッツ視点
握った柄が、ずしりと重い。
この柄は将軍の命令を受け取るためだけの道具だった。
今、初めて自分の意志で握っている。
喉の奥に、唾を飲み込めない乾きが張り付いた。
怖い。それも、彼の中の紛れもない事実だった。
「副官殿?」
部下の声で我に返る。
周囲を見渡した。
魔法隊、あと八名。盾兵三人が押し合いで崩れかけ、ガーゴイルが後衛へ降下姿勢を取っている。
時間はない。
ルッツは深く息を吸った。肋骨の内側が痛い。
「第二・第三中隊、私と来い。砲台を潰しに行く」
自分でも驚くほど声が落ち着いていた。
「副官殿!? ご自身が、前線に!?」
「将軍が動けん。誰かが行かねばならん」
部下の顔に動揺が広がる。
この副官が指示なしで前線に出たことは一度もない。それが軍の常識だった。
だが動揺の中に、腕を疑う目はなかった。
「指揮は中隊長に託す。砲台を潰したら戻る」
戻れる保証は、ない。
だが、それを口にはできなかった。指揮官の顔に迷いを出せば、二個中隊は動かない。
「ベルク」
振り返ったのは、頬に古い切り傷を持つ最年長の中隊長だった。
ルッツはベルクの肩を一度だけ叩いた。
ベルクは短く顎を引き、ただ一言「はっ」とだけ応えた。
ルッツもそれ以上は言わなかった。追えば、自分の膝から力が抜けそうだった。
「行くぞ」
二個中隊を率いて、彼は煙幕へ突入した。
◆第13階層・煙幕内部〜砲台強襲/ルッツ視点
煙は想定より濃かった。
視界五メートル。息が浅い。目の奥が焼ける。
バサッ!
煙の奥から羽ばたきの音。
上、右前、左後方。三方向、同時。
「ガーゴイル、上だ! 構えろ!」
二個中隊が盾を上げる。
だが、盾の隙間から爪が滑り込む。金属の擦れる音。悲鳴が二つ、煙の中に消えた。
ルッツの胃が一瞬で縮んだ。
だが、足は止めなかった。
ルッツは剣を抜いた。まだ右手だ。
ザッ――ザンッ!
一体目を袈裟に斬り落とす。石造りの体が砕けて散った。
二体目、背後。振り返らずに剣を突き出す。手応え。
三体目、頭上。仰け反って避け、跳ね上げるように斬る。
一体目はぎりぎりだった。だが二体目からは、腕が覚え始めていた。
「副官殿、砲台の位置! 真正面、五十メートル!」
偵察兵の声。
ルッツはその方向へ踏み込んだ。
だが、二歩目で足が止まる。
背後で金属の関節音。
ガーゴイルではない。もっと精密な音。
(オートマタ)
振り返るより早く――
ガキィッ!
咄嗟に身を引いた。だが、右腕の鎧が砕け、肩から血が噴いた。
「副官殿!」
部下の悲鳴。
ルッツは自分の右肩を見た。
――何かが、間違って見えた。腕の角度が。血の量が。
それを認識するまでに、彼は二度、瞬いた。
(右腕が、動かない)
肘から下が痙攣で固まっている。剣は、まだ右手に握られていた。
指の意志ではなく、握った形のまま固まっているだけだ。
痛みはまだ来ていなかった。奇妙な違和感だけがあった。
来る、と分かった。数秒後に。
(左手に、持ち替えろ)
彼自身の声が、頭の奥から立ち上がる。
右手から剣をゆっくり抜き取る。
指がなかなか開かない。ひとつずつ、こじ開けるように剥がした。
落ちる寸前で、左手が受けた。
――重い。
柄の重さが急に二倍に感じた。
その時、痛みが来た。
右肩の奥から、灼熱の川が肘へ流れ落ちる。ルッツは奥歯を噛んだ。
噛みしめすぎて、頬の内側が切れた。血の味。それに、意識が少し戻った。
「副官殿、退却を!」
「いや」
声は意外なほど静かに出た。
「もう一歩、いける」
血を吐き出すような衝動を、鉄の理性が平坦な軍令の形に整えていた。
退けば、後悔をまた一つ抱えるだけだ。
左手で剣を構え直す。何度も握り直し、しっくり来る角度を探す。
しっくり来ない。だが、これで振るう。
煙の向こうに、砲台の影がうっすらと見えていた。
シュッ――。
左手の一閃で、阻むガーゴイルを薙ぐ。
右手のときより二拍遅い。だが、届いた。
返す刃で砲台の連動機構を縦に断つ。
(――硬いッ!)
左腕の骨が嫌な音を立てて軋み、刃こぼれの感触が直に伝わってくる。
構わず、ルッツは体重を乗せて強引に押し切った。
ガシャアアアン――!
砲台が瓦解した。
部下たちの息が詰まる。
「一基、破壊! 次に行くぞ!」
右腕から血が滴る。だが、足は動く。自分の意志で動く。
次の砲台までの十数歩が、遠かった。
視界の縁が、わずかに黒く滲みだしていた。血の量を、彼は数えないことにした。数えると、膝が折れそうだった。
次の砲台。
左手を大きく振り上げる。柄がまだ重い。
だが、腕が応え始めていた。
ザシュッ!
二基目も砕けた。
「砲台、二基破壊! 残り二基!」
部下が叫ぶ。
「ガーゴイル、新手が集結中!」
煙の奥に複数の羽音。集中攻撃の陣が組まれつつある。
――ここまでだ。
ルッツは自分の限界を測った。「これ以上は死ぬ」の一歩手前。その一歩手前で退くと決めた。
「全隊、退却! 仕事は、終わった!」
二十年、「仕事」という言葉を上からの命令なしに使ったのは、これが初めてだった。
だが部下は、微塵も迷わなかった。
副官の指示は、すでに絶対の軍令だった。
ルッツは新たな陣が組まれる前に、煙幕を抜けた。
◆第13階層・本陣/ルッツ視点
本陣への道は往路より遠い。
右腕から血が滴る。左手の剣を杖に、辛うじて歩く。
三歩ごとに、地面が一度、揺れる気がした。揺れているのは自分の膝だと、彼は知っていた。
「副官殿! 肩が――」
ベルクが駆け寄ってきた。頬の切り傷が、いつもより赤い。走ってきたからだ。
「後回しだ。状況を」
「魔法隊、残り八名。アイアンゴーレム前衛と接敵中。ですが、砲台が二基止まりました。損耗は抑えられます」
「分かった。指揮は、私が執る」
左腕一本で指揮棒を握り直す。
右手はもう合図を送れない。長年この手で送ってきた合図を、左手で送り直す。
左の指は、右の指と同じ形を作れなかった。二度目の合図で、ようやく形になった。周囲の兵が頷いてくれた。
だが、震えなかった。
震える指を、副官の意志で押さえ込む。
ベルクが彼の顔を一瞬見つめた。
そして――無言のまま、今までで最も鋭い、完璧な敬礼を返した。
ルッツは答えなかった。
答える必要はなかった。
砲台を二基止めただけでは、戦況は覆らない。残った二基が撃ち続けている。
だが、自分が下した判断は、確かに形になった。
副官をやってきた中で、初めての手応えだった。
彼は左手で指揮棒を上げ、次の号令を発した。
その声は、彼自身の声だった。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
「ナノ。副官、戻ったか」
「はい。左腕一本で指揮を再開しています」
「……右腕、代償にしたな」
「はい。ですが、彼は震えていません」
俺はモニターを見つめた。
左腕で指揮棒を振るルッツ。中隊長が、無言で鋭い敬礼を返す。
長年、規律で束ねてきた副官が、いま自分の意志で軍を束ね直している。
俺はいつものように、デスクの上の冷めたコーヒーに手を伸ばしかけた。
だが、途中でその手を止めた。
そのまま、画面のルッツに釘付けになった。
血まみれで、それでも震えずに立つ、あの副官の姿に。
(……面白い判断をするじゃないか)
俺は、小さく口角を上げた。
◆第13階層・歯車の迷宮/ヴァルター視点
その時、第13階層の中央。
ロクと対峙していたヴァルターの大剣が、一拍、止まった。
遠くの砲声が、二つ、消えた。
同時に、ロクの青い瞳の明滅が乱れる。演算の乱れ。歯車工場のどこかから、想定外の報告が入ったのだ。
――ルッツか。
ヴァルターの口の端が、微かに動いた。
どう動いたかは、知らん。
だが、あの副官がやったのなら、それでいい。
二十年、半歩後ろにいた男が、いま自分の足で動いた。
その事実だけで、手がわずかに止まった。
鉄の箱の底で、二十年間押し込めてきた何かが、一瞬、蓋を突き上げた。
将軍はそれを、押し戻した。まだ、開けてはいけない。
ガッチン、シュー。
工場の音だけが、変わらず鳴り続けていた。
その一拍を、ロクのワイヤーが見逃すはずもなかった。




