表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
84/90

第八十四話:隔離区画

◆第5階層・隔離区画/ミナ視点


 “夜明けの芽”のミナは、震えそうになる手を強く握った。


 目の前で、王国軍の兵士が眠っている。

 拘束はされている。だが、寝顔は、ただの若い男だった。頬に切り傷。鎧の下に滲んだ血。


 彼の隣に膝をついて、ミナは小さな包帯と軟膏を準備した。


「ミナさん、大丈夫?」


 獣人の薬師が、横から声をかけた。ミナと同い年くらいの、若い狼人の女性。手当ての手順を教えてくれている。


「は、はい。大丈夫です」


 ミナは深呼吸をした。


 怖い。

 敵だからではない。

 目の前の人が自分と同じくらい怪我をしていて、それを自分が治すのだという事実が怖かった。


「教わった通りにやれば、大丈夫だよ」


 獣人の薬師が、優しく言った。


「軟膏を切り傷に。包帯はきつくしすぎず、緩めすぎず。ね?」


「はい」


 ミナは教わった通り、丁寧に手当てを始めた。

 軟膏を傷口に。包帯をゆっくり巻く。


 若い兵は眠ったままだった。戦闘で意識を失ったまま、ここに運ばれてきたのだ。


 手当てを終え、毛布をかけて、ミナは次の負傷兵のところへ移った。


 ――その兵は、目を覚ましていた。


 ミナが軟膏に手を伸ばした瞬間、男の目がかっと見開かれた。


「触るな」


 低い、押し殺した声だった。


「……敵に、情けをかけられる筋合いはない」


 ミナの手が止まった。

 心臓が冷たく縮む。怖い。さっきまでとは、違う怖さだった。


 男はミナを睨んだまま動かない。包帯を巻いた肩が、浅く上下している。手当てが要る傷だった。


 ミナは軟膏を持ったまま動けなかった。

 逃げたかった。だが、足が動かなかった。


「……痛みが引かないと、眠れません」


 声が震えた。それでも、言った。


「治させてください。あなたが私をどう思っていても」


 男は答えなかった。

 ただ睨んでいた。だが、振り払いもしなかった。


 ミナは、震える手で軟膏を傷口に置いた。

 男は最後まで目を逸らさなかった。礼も、なかった。


 それでも、ミナは手当てを終えた。


 (……いい)


 彼女は心の中で呟いた。


 (この人が私をどう思っていても。痛みが減れば、それでいい)


 彼女は剣を持てない。魔法も大した威力ではない。

 四人パーティの中で、いつも一番後ろから皆を支える役だった。


 でも、これだけはできる。

 目の前の人の、痛みを減らすこと。


 区画の奥で、新しい光がまた一つ灯った。新たな捕虜が運ばれてきたのだ。

 ミナは立ち上がり、その光の方へ歩き出した。



◆第5階層/ガロウ視点


 別の区画では状況が違っていた。


「離せッ! 離せってんだろッ!」


 若い王国兵が暴れていた。

 拘束を解いた瞬間だった。

 意識を取り戻してすぐ自分の状況を理解した彼は激しく抵抗を始めた。


「クソッ! 俺は王国軍だ! お前ら、許さねぇぞッ!」


 怒声が区画に響く。他の負傷兵が、その声で目を覚ます。

 パニックの種が撒かれかけていた。


「おう、落ち着けよ」


 ガルスが、巨大な盾でやんわり押さえ込んだ。


「離せッ!」


「離さねぇ。お前が落ち着くまで、ここで動くな。命令だ」


 グレンが両手を上げて彼の前に立った。

 武器は持っていない。腰の大剣も、わざわざ外している。


「兄ちゃん、落ち着けって。誰も殺さねぇ。お前の仲間も、全員生きてる」


「ウソだッ!」


「ウソじゃねぇ。後ろを見ろ。お前の戦友、寝てるだろ」


 若い兵は、後ろを見た。


 拘束された王国兵たちが、整然と並んで寝かされている。

 誰一人、死んでいない。包帯を巻かれ、毛布をかけられている。


「……」


「な? ウソじゃねぇだろ」


 若い兵の体から、わずかに力が抜けた。

 だが、まだ警戒は解けていない。


 ガロウは、その光景を少し離れた場所から見ていた。


 (俺の出る幕じゃ、ないな)


 二週間前なら、前に出て、種族を盾に何か言ったかもしれない。

 「獣人だから」「人間だから」と。


 だが、今は違う。


 暴れる兵を押さえているのは、人間のガルスとグレン。

 手当てをしているのは、人間のミナと、獣人の薬師。


 ガロウの出る幕はなかった。

 そして、それでいいと思った。


 (俺は、俺の仕事をすればいい)


 ガロウは運送員を率いて、毛布の追加を運び始めた。

 仲介者としてではなく。ただの、一人の運送員として。



◆第5階層・隔離区画/ケット・シー視点


 暴れていた若い兵は、ガルスの盾に押さえられたまま、しばらく動かなかった。


 その前に、小さな影がぴょこんと立った。


「お水、飲むニャ?」


 ケット・シーだった。

 小さな器を持って、震えながら彼の前に立っている。


 若い兵は、その小さな猫をしばらく見つめた。


 敵だ。獣人。この迷宮の住人。

 なのに、小さな猫は、震えながら水を差し出している。


「……お前」


 若い兵の声が震えた。


「お前、俺が怖くないのか」


「怖いニャ。でも、ニャの仕事は、怪我した人にお水あげることだから」


「……俺は、お前らを攻めに来たんだぞ」


「うん。でも、今は怪我してるニャ」


 若い兵の体から、力が抜けた。

 ガルスが、そっと盾を外す。


 だが、彼は、差し出された水に手を伸ばさなかった。


「……毒、入ってるんだろ」


 声が、震えていた。


 ケット・シーが目を丸くする。

 代わりに、グレンが動いた。


 黙って、ケット・シーの手から器を取り、自分が一口、飲んだ。


「これでいいか」


 若い兵は息を呑んだ。


 敵の冒険者が、自分の前で、魔物から渡された水を、先に飲んでみせた。

 その意味を理解するのに、数秒かかった。


 グレンが、器を若い兵の前にゆっくりと置く。


「ここでは、誰も殺さねぇ。水で人を殺す価値もねぇよ」


 若い兵は、震える手で器を取った。一口、飲む。

 冷たくて、澄んでいた。それだけのことなのに、彼の目から涙が溢れた。


「俺、家に……帰れるのか」


 囁くような声だった。


「うん。帰れるニャ。ここの主が、そう言ってたニャ」


 若い兵は、懐から一枚の絵を取り出した。

 子供の手で描かれた、拙い家族の絵だった。

 それを握りしめて、彼は、声を殺して泣いた。


 ガルスが、毛布を一枚、彼の肩にかけた。


「おう、休め。ここでは誰も殺さねぇ」


 しばらくして、獣人の薬師が傷を診に近づいた。

 ミナに手当ての手順を教えていた若い狼人の女だ。


「……傷、診せてもらうね」


 若い兵の体が、わずかに固まった。

 無意識の警戒が手のひらに走る。


「……来るな。獣の手で、触るな」


 言葉が勝手にこぼれた。


 軍の兵舎で誰もが当たり前に使っていた言葉。

 体に染みついた長年の偏見。


 獣人の薬師は表情を変えなかった。

 動きも止めなかった。

 ただ、淡々と軟膏を布に染み込ませた。


「分かった。じゃあ、わたしは、痛みを取るだけにする」


 声に怒りも侮蔑もなかった。

 ただ、自分の仕事を自分の手で続けるだけ。


 若い兵は、その横顔をしばらく見つめていた。


 偏見を投げつけた相手から淡々と痛みを取られている。

 自分が、惨めだった。


「……すまない」


 ぼそりと、声が漏れた。


「……お前さんの仕事を、邪魔した」


 獣人の薬師は、ようやく、わずかに口元を緩めた。


「うん。次は、邪魔しないでね」


 彼女は、それだけ言って軟膏を彼の傷に塗り始めた。



◆第5階層・隔離区画/カイ視点


 カイは、その光景を広場の中央から見ていた。


 区画の運営は想像以上に複雑だった。

 手当て、食事、水、毛布、暴れる兵の制圧、新しく運ばれてくる捕虜の受け入れ。


 すべての動線を彼が指示で繋いでいた。


 戦闘ではない。だが、戦闘より難しい。


「カイ、こっちの手当て、終わったよ」


 ミナが駆け寄ってきた。

 血のついた手を布で拭っている。


「ミナ、お疲れ」


「ううん。これくらい、平気」


 その目には、わずかに涙が滲んでいた。

 だが、彼女は泣いていなかった。


 誰かを治したいという想いが、彼女を立たせていた。


「カイ。私、初めて思った。戦いじゃないやり方で、誰かを守ること。そういう仕事も、あるんだね」


「ああ」


「これも、Bランクの仕事、なのかな」


「分からない。でも、これが、俺たちの仕事だ」


 ミナは頷いて、また次の負傷兵のところへ走っていった。


 カイはその背中を見送った。


 (俺たち戦わずに守ってる。これも、間違いなく守ってる)


 その時、区画の入口に見慣れた男が立っていた。


 穏やかな笑顔の薬草商。トーマスだった。


 仮拘禁の身でありながら許可を得てここに来ていた。


「カイさん。手当ての手伝いを、させてください。薬草の知識で、お役に立てればと」


 カイは複雑な表情を浮かべた。


 目の前の男がこの迷宮を売ったスパイだということは、知っている。

 迷宮主が処分を保留にしていることも。


 疑いの気持ちはある。

 だが――。


「……お願いします。手は、いくらでも欲しい」


「ありがとうございます」


 トーマスは、すぐに作業に取り掛かった。


 薬草の調合。傷の深さに応じた処方。その手元には迷いがなかった。

 速く、正確で、無駄がない。


 兵の傷を見て、薬を選び、量を計る。

 まるで、人の体のどこがどう壊れるかを知り尽くしているように。


 獣人の薬師がその手元をじっと見ていた。


「……上手いね。私より、ずっと」


 トーマスの手が、一瞬だけ止まった。


「……昔、人を傷つける側にいたもので」


 それだけ言った。

 獣人の薬師は何も聞かなかった。彼が何者だったか、この区画の者なら、もう噂で知っている。


 しばらくして、トーマスは、ぽつりと続けた。


「壊した分を、取り戻したい。……それだけです」


 彼は目を伏せたまま、次の傷へ手を伸ばした。



◆第5階層・隔離区画/捕虜視点


 夕方。区画が、少し落ち着いてきた。


 手当てを終えた捕虜の二人が、ぼそぼそと話していた。


「なあ。ここ、待遇よくないか」


「捕虜だぞ、俺たちは」


「分かってる。だが、水はいつでも飲めるし、毛布もある。飯も一日三食だ。……前の遠征、三日に一度だったのにな」


「……」


「俺、王国に帰ったら、軍を辞めるかもしれん」


 ミナが、その会話をたまたま聞いていた。

 思わず、口元を抑えて小さく笑う。



◆迷宮核の間/黒瀬視点


 モニターの中で保護拠点が回っていた。

 俺は、それをしばらく見ていた。


「ご主人。捕虜の中に、妙な呟きが増えています」


「妙な、とは」


「『ここの主は、何を考えているのか』。それと――『軍を辞めて、ここで働けないか』」


「…………」


 俺は、コーヒーを口に運んだ。今日も、苦い。


 モニターの中で、ミナが新たな負傷兵に駆け寄り、ガロウが運送員と毛布を運び、トーマスが薬草を調合している。


 暴れた兵は、毛布をかぶって眠っていた。


 この迷宮は今は戦場だ。

 でも、従業員も、客も、捕虜も――何故か皆、悪くない顔をしている。


 ふと、思った。


 ここへ運ばれてくる兵は、まだ増える。

 下の階層が削られるたびに。


 ジグの砦も、抜かれた。次はロク。その次はポヨ。そして――リリだ。


 (あいつら全員、生きてここにいる。……だったら、全員、帰してやりたいな)


 柄じゃない、と思いながら。

 俺は、ぬるくなったコーヒーを飲み干した。


 モニターの隅で傷ついた兵たちが、静かに眠っていた。

 その寝顔は敵のものには見えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ