第八十三話:鬼哭の砦
◆第12階層・鬼哭の砦/ルッツ視点
第12階層の扉を開けた先に広がっていたのは、夜空だった。
いや、夜空ではない。頭上の闇は遥か上方の天井に過ぎない。
階層全体が広大な空洞で、月光のような淡い魔法光が、眼下の景色を青白く照らしている。
眼下に広がるのは――和風の山城。
石垣を重ねた山の上に櫓と物見台が建ち、城壁が四方を囲んでいる。
そして、その城へ続く道はたった一本だった。
左右を高い石垣に挟まれた、狭い坂道。
幅は、せいぜい兵士五人が肩を並べられる程度。
その先に、城門。城門の前には、整列した部隊が、石像のように動かない。
「将軍。あれは……ホブゴブリンと、オニです」
ルッツの声が、固くなった。
「進化種か」
「はい。ですが、それ以上に……あの隊列、王国軍の正規部隊と同等以上の練度と思われます」
三十体。
たった三十体だ。だが、その気配は、二十年戦場で生きてきた背筋を、わずかに冷やすものを持っていた。
そして、戦場の形状が、その三十体の意味を変えていた。
(道幅は、五人。せいぜい六人。それ以上は、並べない)
ルッツは唇を噛んだ。
軍は三百六十四。だが、坂の最前で同時に剣を交えられるのは、五人だ。残りの三百五十九は、後ろで順番を待つしかない。
数の差は十三倍以上。その十三倍を、同時に投入する場所が、ない。
――この狭さ。
第1階層の、苔むした洞窟道。あの罠と斉射の道と、組まれた思想が同じだった。
ルッツの目の奥に、あの斉射の絵が一瞬、瞬く。
(あのゴブリンたちが、進化して、ここに立っているのか)
偵察報告は「進化種」としか書いていなかった。育てた手が同じだとは、書かれていなかった。
ルッツは隣の将軍を見た。
左肩の鎧が、浅く裂けている。前の階層で、あの炎の魔人がかすらせた唯一の一太刀だ。
動きにほんのわずかな硬さがあるだけ。
(将軍は、万全ではない)
それでも、ヴァルターは前を見据えていた。
部隊の先頭、櫓の上に一体の鬼人が立っていた。
真紅の和装束。額から伸びる二本の角。腰に差した二本の刀。
「ここから先、ご主人の迷宮へは、一歩も通さん」
低く、よく通る声が、階層全体に響いた。
「退くなら、今のうちだ」
交渉ではない。最後通告だ。
「……退くわけにはいかない」
ヴァルターの声も、それ以上の重さを返した。
鬼人が、刀の鯉口を一寸だけ切った。
その瞬間、ホブゴブリン三十体が、一斉に動いた。
◆鬼哭の砦・第一波/ルッツ視点
声はなかった。
合図も、なかった。
ただ、鬼人が鯉口を切った。それだけの動作で、三十体が同時に動き出した。
ホブゴブリン六体が、坂を駆け下りてくる。坂幅と同じ、六体。
その背後に、ホブゴブリンが二列。さらに後ろに、オニが二体。
道幅に合わせて、編成が組まれている。
「全隊、密集盾陣! 前列五人、坂で受け止めろ!」
ルッツの指示が飛ぶ。
軍は、坂の手前に詰まった。前線で剣を交えられるのは、両軍とも五、六人。それ以上は、後ろで待つしかない。
数の差十三倍が、地形によって帳消しになった瞬間だった。
ガキィン――!
最前列の盾兵が、ホブゴブリンの斬撃を受け止める。
一人が崩されかける。後ろの兵が、肩で押し戻す。
なんとか、線は保った。
「副官殿、左後方に矢ッ!」
ルッツが振り返ると、櫓の上の物見台から、矢が降っていた。
狙いは、坂を上ってくる前衛ではない。後方で待機する、回復薬を背負った衛生兵。
ヒュッ――ドッ。
衛生兵の一人が、肩を射抜かれて崩れる。背負っていた回復薬の瓶が、石畳に転がり、半分が割れた。
「衛生兵を後ろに下げろ! 盾兵で背後を守れ!」
ルッツは指示しながら、頭の中で計算を回した。
道幅が狭い。前線は崩せない。だが、後ろにいる衛生兵は、上から弓で狙われる。
前と後ろ、両方が縛られていた。
◆鬼哭の砦・継続戦/ルッツ視点
二十分が経った頃、ルッツは別の異変に気づいた。
深手を負ったホブゴブリンの一体が、城門の中に下がっていく。
その代わりに、城門の奥から、別の一体が出てきた。
傷一つない。新品の一体だった。
ルッツは、目を細めた。
(消えた魔物の補充も、消費期限ゼロか)
彼らは、三十体で待ち構えているのではない。
常に三十体が立っている、というだけだ。
一体が傷ついたら、城の中で回復して、別の一体と入れ替わる。
城の中に、何体が控えているのか、ルッツには見えない。
(……どれだけ削っても、減らない)
時計を見た。四十分。
戦闘不能、累計六十名。だが、それ以上に深刻な数字があった。
回復薬の残量。
軍が持ち込んだ回復薬は、千二百本。今回の戦闘に十分な量――のはずだった。
だが、衛生兵が削られた状態では、配給効率が半分以下に落ちる。
さらに、櫓からの矢が、回復薬を持つ衛生兵を狙い続ける。
割れた瓶、運ぶ前に倒された兵、回収できなかった分。
既に、大半が失われていた。
(今のペースなら、二時間で尽きる)
軍は、時間を持っていなかった。
その瞬間、ルッツの脳裏を、出撃前の一言がよぎった。
「迷宮が、こちらの数を決める」
王都の編成会議で、宰相が誰にともなく漏らした言葉だった。
あの時、ルッツには意味が分からなかった。
いま、骨で分かる。
第三軍団は本来、千でも二千でも動員できた。
だが、出撃したのは五百。それは王国が選んだ数ではない。第1階層の通路幅と罠の密度が、許容した頭数だった。
こちらは、戦が始まる前から、迷宮の設計に手を縛られていた。
そしてその縛りすら――いま、この坂の上では、まだ甘い。
絞らされた数が、なお、絞り足りていなかった。
長引かせれば、勝てない。回復薬が尽きた瞬間に、軍は崩壊する。
短期決戦に賭けるしかなかった。
◆鬼哭の砦・短期決戦/ルッツ視点
「全隊、攻勢に転じる! 第一・第二中隊、坂を一気に駆け上れ! 第三・第四中隊、櫓へ矢を射掛けろ!」
ルッツの指示が飛んだ。
時間を消費する選択肢は、もう、軍にはなかった。
第一・第二中隊が、坂を駆け上る。狭い道で、最前列の盾兵がホブゴブリンと噛み合い、押し合いになる。
第三・第四中隊が、櫓へ矢を射る。物見台のホブゴブリン弓兵が、応戦する。
矢が、互いに飛び交う。
短期決戦――そう判断した瞬間から、軍の損耗速度が跳ね上がった。
強引に前進すれば、最前列が崩れる。崩れれば、その奥の兵が出てくる。出てくる兵を、城門前のホブゴブリンが受ける。
六対六の押し合いが、九対六、十二対六、と消費を増していく。
軍は、押せる。だが、押すたびに、兵を失う。
時計の針が、一時間を超えた。
戦闘不能、累計九十名。さらに伸びる。
ルッツは、奥歯を噛んだ。
(この消耗で押し通せたとしても、深層に着く頃、衛生兵は一人も残っていない)
それでも、止める方法が見つからなかった。
長期戦の選択肢は、すでに取れない。回復薬の壁が、軍の背を押していた。
◆ジグ vs ヴァルター/ヴァルター視点
その間、ヴァルターは別の道を選んでいた。
軍の短期決戦の指示を聞いた瞬間、彼は計算した。
正面の押し合いは、ルッツに任せられる。だが、それでは時間が足りない。
補充の根を断たねば、湧きは終わらない。リーダーの鬼人を倒せれば、城内の鼓動も止まる――かもしれない。
ヴァルターは坂の脇に取り付いた。鉄理を背に担ぎ、剣士としては不可能なはずの登攀を、S級の身体能力で強行する。
高い石垣を、爪先と指で這い上がる。途中、櫓の弓兵に気づかれた。矢が飛ぶ。鉄理を一閃して、空中で叩き落とす。
石垣を越え、城壁を越え、彼は山城の中腹に踏み込んだ。
そこに、二本の刀を構えた鬼人が立っていた。
ガキィィン! ガキィィン!
ガキィィン! ガキィィン!
鬼人の二刀。速い。鋭い。
受けるたび、左肩の浅手が疼く。だが、剣筋は、鈍っていない。
(……肩が、わずかに鈍い。だが、支障はない)
ヴァルターは、自分の体を正確に測っていた。万全ではない。だが、この二刀を捌くには十分だ。
鬼人の刃を、ヴァルターは危なげなく受け続けた。
「お前、強いな」
ヴァルターは、息を整えながら言った。
「だが、S級ではない。A級の、上位というところか」
「お前は、S級か。……化け物め」
鬼人の息は、乱れていた。
純粋な剣技と速さなら互角だ。だが、込められた魔力と積み上げた経験が、確かに天秤を傾けている。
鬼人は押されていた。
「ご主人の言葉を借りれば――これは『練度の差』というやつか」
鬼人が、笑った。
「俺が、お前を倒すのではない。俺は、お前を引きつける役目だ」
「引きつける、だと」
「お前さえ動けねば、軍は数で押し切れん。眼下を、見るがいい」
ヴァルターは、一瞬だけ眼下を見た。
軍が削られている。後衛から確実に。
(こいつは、俺の判断を試している。こいつを倒すか、軍に戻って指揮を執るか)
答えは決まっていた。
「お前を倒す」
「何故」
「軍の指揮はルッツに任せた。あいつなら凌ぐ。だが、お前を倒せなければ俺たちは深層で詰む」
鬼人が鋭く笑った。
◆退く鬼/ヴァルター視点
鬼人の抵抗は、長かった。
鬼人は、勝とうとはしていなかった。
ただ退かず、受け、いなし、時を稼ぐ。倒すための剣ではなく、足止めのための剣だ。
その守りを崩すのに、二十年の技をもってしても時間を要した。
そして――崩れたのは、鬼人の方だった。
半拍の隙を見逃さない。ヴァルターの大剣が右の刀を弾き、返す刃が左の刀の柄を断つ。
武器を失った鬼人の胸へ、ヴァルターは柄頭を叩き込んだ。
ガッ――!
鬼人が、後方の柱に叩きつけられる。肋骨の砕ける音が櫓に響いた。
ヴァルターは、大剣を構え直した。
あと一歩。踏み込めば、終わる。
その時。
『――ジグ。もういい。退け』
声が櫓に降った。
迷宮主の声だ。
ヴァルターは身構えた。
あの炎の魔人を思い出したからだ。あれは、この声に逆らった。
退けと言われてなお、戦い続けようとした。
この鬼人も、そうするだろう。武器を失い、骨を砕かれてなお、戦う気だろう。
だが。
「……はっ」
鬼人はそれだけ言って抵抗をやめた。
迷いもためらいもなかった。
退けと言われた。だから、退く。それだけの、澄んだ動作だった。
(……違う)
ヴァルターの背を、別の冷たさが走った。
あの炎の魔人は、命令に逆らってでも戦おうとした。
この鬼人は、命令に一片の迷いもなく従う。正反対だ。
なのに、どちらも――同じものに、見えた。
命令で動いているのではない。
二体とも、自分の意志で、その主を選んでいる。
「強い男よ」
淡い光に包まれながら、鬼人が笑った。
「……次は戦ではなく、武人として立ち合いたいものだ」
光が消えた。
櫓の上には、ヴァルターと、断たれた二本の刀だけが残された。
ヴァルターはしばらく動かなかった。
浅手の肩が、今頃になって、じんと熱を持ち始めていた。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
「ジグを回収しました」
ナノが報告する。
「容態は」
「重傷。肋骨の複数骨折と、内臓の損傷。生命に別状はありませんが、戦線復帰には数週間かかります」
「……あいつもか」
俺はマグカップを置いた。今日で、何杯目かも分からない。
「だが、退けと言ったら、ちゃんと退いたな」
「はい。バルログさんとは対照的でした」
「……ああ。あいつは、根がクソ真面目だからな」
それが少しだけ誇らしいのが、困る。
「兵力カウンタ」
「二百六十五名。第12階層で削った数、九十九名。うち八十二パーセントが、回復職と支援職。死亡者は、引き続きゼロです」
「……予定以上に効いたな」
「ジグさんの足止めが、完璧でした。二十分ヴァルターを引きつけている間に、部隊が後衛を集中的に削っています」
モニターの中でヴァルターが櫓を降り、軍と合流していく。
その隊列は、もう正規軍の形をしていなかった。
衛生兵がいない。回復も、補助魔法ももう来ない。長期戦闘を担う支援職はほぼ全滅した。
残ったのは、前線で剣と槍を振るう物理部隊と――その内側に固く守られた、攻撃魔法職だけ。
(支援は剥がし終えた。次は、あの魔法職を黙らせる番だ)
「ナノ。第13階層、ロクの準備は」
「完了しています。歯車の迷宮、オートマタ二十、アイアンゴーレム八、ガーゴイル十二、配置済」
「魔法職の集中狙撃の準備は」
「魔導機砲台四基、長距離精密射撃モード。射程三百メートル、命中精度九十六パーセント」
「よし」
俺はモニターを切り替えた。
ヴァルターが、第13階層への扉へ歩いていく。その足取りにわずかな硬さがある。
左肩を軽く庇うだけ。
その後ろに続く軍は、もう三百六十四ではない。
二百六十五。
数の上では、まだ六割が残っている。だが、戦いを支える機能は、半分以下に落ちていた。
(12階層で支援を削った。13階層で魔法を削る。14階層で、こいつらは詰む)
俺は、冷めたコーヒーを口に運んだ。苦い。




