第八十二話:闘争の理
◆第11階層・闘争の円形闘技場/ルッツ視点
第11階層の扉を開けた瞬間、熱波が顔を打った。
眼前に広がるのは、すり鉢状の巨大な闘技場だった。
中央に溶岩の沼が赤黒く脈動し、壁面から蒸気が噴き出している。石畳の足場が放射状に広がり、縁に向かって緩やかに上昇していた。
「将軍。地形が戦闘前提で組まれています」
「分かっている。これは闘技場だ」
ヴァルターの声はいつもより張り詰めていた。
闘技場の中央、溶岩の縁に、一体の魔人が腰を下ろしていた。
四メートルを超える炎の巨躯。肩に巨大な戦斧を担ぎ、瞳の奥に嬉しそうな炎が燃えている。
ルッツは唾を飲み込んだ。二十年の戦場経験が告げている。あれは軍団で対処する敵ではない。
「ようやく来たか、人間の戦士たちよ」
魔人が立ち上がった。ズン、と闘技場が震える。
「我はバルログ。この階層の守護者だ」
戦斧を持ち上げる。
「我が主は『ただ退けろ』と言った。だが、今回ばかりは聞かぬ。これだけの戦士が揃ったのだ。退いてしまえば、礼を欠く」
最初の一撃が闘技場全体を揺らした。
ドォォォンッ!!
戦斧が振り下ろされた地点から、衝撃波が放射状に広がる。石畳が爆ぜ、溶岩が噴き上がり、最前列の兵士たちが吹き飛ばされた。
「散開ッ! 密集陣形を解け!」
ルッツの叫びが響く。
だが、地形そのものが攻撃を続けていた。バルログが踏み込むたびに闘技場の床が崩れ、亀裂が走り、新たな溶岩沼が生まれる。安全な足場が刻一刻と減っていく。
「冷却障壁を展開! 魔法兵、急げ!」
障壁が広がる。だが、バルログは意に介さなかった。戦斧から放たれる炎の波が障壁ごと弾き飛ばす。
兵士たちが次々と倒れた。火傷、骨折、足場の崩壊による落下。
戦闘不能の兵が淡い光に包まれて消えていく。
二十、三十、四十……。
「副官殿、損耗五十! このままでは部隊が機能しなくなります!」
「分かっている……!」
(だが、退けない。背後は第10階層。引き返すには負傷者が多すぎる)
その時、ヴァルターが前に出た。
「ルッツ。本隊を縁まで引け。負傷者を後方に。ここからは、俺が出る」
「し、しかし……!」
「俺がやらねば、止まらない」
ヴァルターは大剣『鉄理』を肩から外した。
銀色の刀身が溶岩の赤を弾く。二十年、曲がらなかった鉄。折れなかった鉄。
ルッツは動けなかった。
将軍が一対一で剣を抜くのは、二十年で初めてだった。
――いや。二十年前の、あの日以来だ。
◆ヴァルター vs バルログ/ヴァルター視点
「バルログ、と言ったか」
「ヴァルター・レーヴェ。王国第三軍団長だ」
「いい名だ。――ようやく、本物が来たな」
最初の一撃は同時だった。
ガァァンッ!!!
戦斧と大剣がぶつかり、衝撃で溶岩の表面が波立った。
(重い……!)
ヴァルターの足が石畳を削りながら後退する。純粋な膂力では勝てない。受ければ、押し潰される。
だから受けない。
右足を軸に体を回し、戦斧の柄を刃の平で受け流す。軌道がずれた一瞬、横薙ぎを返す。
バシッ。
バルログの腕を浅く裂いた。
「ほう。技で力を捌くか」
バルログの目が嬉しそうに見開かれた。そして――足を踏み鳴らした。
ゴゴゴッ。
ヴァルターの足場が崩れ始めた。
(地形を……!)
間に合わない。崩れた床の下から溶岩が噴き上がる。ヴァルターは跳んだ。だが着地点ももう崩れていた。
熱。視界が蒸気で白く潰れる。その白の中から、戦斧が来た。
咄嗟に鉄理を立てる。
完全には受け流せなかった。
ガッ――!
戦斧の刃が左肩を掠め、ヴァルターは大きく後退した。鎧が裂け、薄く血が滲む。
浅い。だが、二十年でも数えるほどしかない、危うい一手だった。
「……ふっ」
息を整える。
この程度で済んだ。あの一撃を掠り傷で受け流せた。それで、十分だ。
「これが、我が主に教わった戦術というものだ」
バルログがゆっくりと歩み寄る。
「力だけで勝てぬなら、戦場を変える。地を崩し、視界を奪い、退路を断つ。――どうした、王国の将軍。もう終わりか」
(……違う。終わらせない)
ヴァルターは血の流れる肩を握った。痛みが頭を冷やしていく。
見ろ。観察しろ。あの魔人が何で戦っているのかを。
戦斧の一撃。床の崩壊。蒸気の壁。
そのどれもが、放たれるたびに――バルログの全身から、わずかに炎が翳る。
(地形を変えるたびに、こいつは魔力を食っている)
答えが見えた。
ヴァルターは攻めなかった。
退いた。崩れた足場を選んで跳び、蒸気の中を逃げ、バルログに何度も地形を「使わせた」。
「逃げるか!」
「いや」
ヴァルターは息を整えていた。
「お前に、使わせている」
バルログの動きが初めて鈍った。
地を崩しすぎた。蒸気を出しすぎた。膨大だったはずの魔力が底を見せ始めている。
「……小癪な」
「悪く思うな。これも、戦場を読むというやつだ」
今度は、ヴァルターから踏み込んだ。
消耗したバルログの斧は半拍遅い。その半拍を、二十年の体は見逃さなかった。
戦斧の柄を刃でなぞり上げ、斬り上げる。
ガキィィンッ!
戦斧の柄が断たれた。
返す刃がバルログの胴を深く奔る。
ザシュッ。
血が噴き、巨躯がぐらりと傾いだ。
勝負は、決した。
――はずだった。
だが、バルログは倒れなかった。
断たれた柄を握りしめ、深手の胴のまま、なお立っている。瞳の奥の炎は、消えていない。
「ふ……ふははは! いい。実に、いい……!」
折れた斧を捨て、バルログは拳を構えた。
武器を失い、深手を負ってなお、戦う気だ。
(この期に及んで、まだ立つか)
ヴァルターは大剣を構え直した。
決着は、ついている。あと一歩踏み込めば、終わる。
『――退け、バルログ』
声が闘技場に降った。
ヴァルターの知らない声。だが、その響きには聞き覚えがあった。広場のスピーカーで聞いた、迷宮主の声だ。
『もう十分だ。お前はよくやった。次の階層へ引き込め』
バルログの拳が止まった。
ヴァルターは、見た。
あの魔人が、迷っている。あれほど戦いを欲した獣が、振り上げかけた拳を宙で止めている。
バルログの声が掠れた。
「……我は、まだ戦える」
『知ってる。だが、お前に死なれちゃ困る。それに、もう十分削った。お前の仕事は、ここまでだ』
長い沈黙があった。
バルログは深手の胴を押さえ、ヴァルターを見た。
それから――拳を、下ろした。
「……承知した」
ヴァルターの息が止まった。
退く、だと。
あれほどの闘志を燃やした魔人が。武器を失ってなお戦おうとした獣が。たった一声で、拳を下ろした。
「ヴァルター・レーヴェ」
バルログが背を向けながら言った。
「お前の魂、見せてもらった。お前は、命令で動いているのではない。少なくとも今は――自分の足で、立っていた」
「…………」
「次は、お前が自分で選んだ剣で、戦ってくれ」
巨躯が闘技場の奥へ去っていく。
深手を負い、血を流しながら。だが、その背は、敗者のものではなかった。
淡い光がその姿を包んで消した。
闘技場にヴァルターだけが残された。
勝った、はずだった。
敵は退き、任務の階層は抜けた。
なのに、胸の奥が軋んでいた。
(あの魔人は……手傷のせいで、退いたのではない。命じられて、退いたのでもない)
ヴァルターは血の流れる肩を握りしめた。
鉄の箱の中で、何かが、小さく音を立てた。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
「バルログを回収した」
ナノが報告する。
「容態は」
「重傷。意識喪失。ですが、生命に別状はありません。治癒室で待機させています」
「……あの馬鹿」
俺は椅子の背に体を預けた。
「退けと言ったのに、最初は聞きゃしない。挙句、あそこまで斬られて」
「ですが、最後は退きました。ご主人の声で」
「……ああ」
それが嫌味なくらい嬉しいから、困る。
力こそ全てと信じていた魔人が、退く判断を覚えた。死なずに、次へ繋いだ。経営者として、これ以上の人材育成はない。
(だが、重傷は計画外だ……俺の見積もりが甘かった)
モニターに、闘技場の中央で息を整えるヴァルターが映っていた。
肩に、浅い傷。鎧が一部裂けている。だが、立ち姿に崩れはない。
「兵力カウンタ」
「三百六十四名。バルログの大規模攻撃で五十三名。死亡者は引き続きゼロ」
「ヴァルター本人の消耗は」
「軽微です。肩に浅手、あとは疲労のみ。……正直に申し上げます。化け物です。バルログの攻撃を、初見で読み切りました」
俺はぬるいコーヒーを口に運んだ。
本物のS級。しかも、頭が回る。
削れたのは、敵じゃない。重傷を負ったのは、うちのバルログのほうだ。
(こいつ……ほとんど削れないまま、第15階層まで来るな。……リリと俺で、止められるか)
「ナノ。第12階層、ジグの準備は」
「完了しています。鬼哭の砦、ホブゴブリン三十体ループ運用、配置済」
「……ジグには、きっちり言っておけ。退けと言ったら退け、と」
「もう、お伝えしてあります」
「そうか」
モニターの中で、ヴァルターが大剣を背負い直し、第12階層への扉へ歩き出す。
その足取りは、来た時よりほんの少しだけ重かった。
闘争の円形闘技場には、もう誰もいない。
戦斧を失った魔人の、退いた跡だけが残されていた。




